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バールといえば「ようなもの」がつきものだが、前にゴルフ場本に対しこきおろしをした手前、一応里山についてもう少し突っ込んでみようと思う。あ、一応「里地」とワンセットで。
① 「里地里山なる場所がある」これは正しい。
② 「里地里山には貴重な自然がある」これもまぁ、全国を俯瞰すれば正しい。
③ 「里地里山が抱える大きな問題として、管理放棄が原因の遷移による、野生生物の消失がある」ここからが怪しいが、一応正しい。
④ 「里地里山に管理を入れれば、貴重な自然は維持される」必ずしも正しくない。むしろ事例としては間違いというケースが多いかも。
①や②はググればすぐに出てくる。割愛。
③から怪しくなる。そもそも里地里山が縄文時代や弥生時代からあったのかと言われると多分ノーだが、里地里山にいる生き物は縄文時代や弥生時代から日本にいたのかと言われると種によって違うが大抵はイエスだろう。スズメはわかりやすいイネと一緒にやってきた「外来種」だがここらではおいといて。では里地里山ができる前は、こういう所にしかいない生き物はどこにいたのか。いや、もちろんカブトムシやクワガタはクヌギやコナラのある場所にいたんだろうね、推測でしかないけど。
里地里山が出来る前は山は全て原生林だったかって、そりゃもちろんない。台風や大雨、火事があれば自然現象によるかく乱が起こり、遷移が戻されるわけだし。ただ、「かく乱」が自然現象で起こる場所は、えてして人が生活し辛い、または利用し辛い所だったわけで。土砂崩れや地すべり、洪水の危険性が高い場所は危険性を低くしたい、だから治山事業や治水事業が行われてきた。その結果、「安全・安心」な場所は増えたかもしれないが、自然のかく乱が起こりづらくなり、結果としてそうした遷移の途中でないと生きていけない野生生物が「里地里山」という、奇跡とも言える見事にマッチした場所を見つけ、そこに暮らすようになった。
管理放棄による野生生物種の消失は、それに加えて、本来の生息地である「かく乱が常時起こる場所」がなくなったから。自然は常時動いており、それをかく乱(管理)することによって維持される自然もあれば、極相となることによって維持される自然もある。現在「管理される」ことによって維持されている自然は、極相に向かうことによって里地里山にある自然とは別の自然ができあがる。無論、シカだの外来種だの不法投棄だのの影響は無視したかなり乱暴な話だが、それも一応は物理的名移動を妨げる柵を作ったり、道路を封鎖してしまうことによって(これもすごい乱暴な話だが)ある程度解決は出来る。シカは元々平野部の生き物なので、道路の整備と共に生息地を拡大させていった…とは、どこの論文のネタだったか。
なので、③の問題に対しては、自然保護の観点から言えば「管理をする」か「管理をしない」かを吟味する必要がある。ここで一旦吟味、が大切で、何故かといえばおしなべて「管理をする」が絶対善だという世論があるからであり、しかもその絶対善の根拠が必ずしも自然保護とは関係ないというのが問題になっているからである。
管理放棄による野生生物種の消失は、確かに生物多様性国家戦略にもある通り大きな問題である。ただ、逆は必ずしも真ではない。農業や林業をやれば農地や林地にいる生き物は必ず戻ってくるか、土地改良された田んぼで農薬を考えなしにばら撒いた稲作をやればトウキョウダルマガエルやメダカが戻ってくるかって? そりゃ農水省役人だってノーと言う。里地里山だって同じで、むしろ環境省の資料や朝日新聞のアレとか地元のボランティア活動とか見てると、偽になっているケースの方が多いんじゃまいかと、疑ってしまう。これが④。
これは当たり前の話で、里地里山の管理放棄を問題視する人間は地権者なり行政なり政治家なり大学の先生なりわんさかいるが、管理放棄の何が問題かという時に「自然保護」を真っ先に挙げる人間は限りなくマイノリティだからである。大抵は「荒れた自分の農地をすっきりさせたい」「猪や猿が出ないようにしたい」「集落の存続」「文化の存続」「とにかく汗水流したい」「仕事よこせ」など、とにかく自然保護とは関係ない、は言い過ぎでも自然保護のことなどアウトオブ眼中、良くて副次的な思いから来ている理由がメジャーである。例え里山の自然が大事とか言っても、じゃあそいつを守るためにどんな管理をすればいいのと言われるとわからなかったり、他の自然をかえって破壊してしまう手法が諸般の理由から優先されたりする。
どこぞかの自然に詳しいセンセーが、「里地里山の保全は自然保護の観点からはトップダウン的な指導が必要」と言っていたが、正にそれが難しい。地権者が自分の土地にすむ生き物に詳しいケースなどあまりないし、それが絶滅危惧だとかそうでないとか、どうするとそいつが存続できるのかについて詳しいケースはもっとレアだ。知っているのは作物とそいつを荒らす猪やシカくらいで、結果としてこういう人たちにとって自然は敵、というケースの方が普通だろう。別にそれ自身は悪くないし仕方ないかもしれないが、自然環境が保たれているとか言われる里地里山を管理する上でその自然をないがしろにする管理はダメだろと、そういうこと。
昔ながらの伝統的な管理方法によって奇跡的に守られてきた里地里山の自然はあるかもしれない。ただ、その管理手法が何を守ってきたのかをちゃんと普及できなければ、いずれは「別の合理的な方法」にとって代わられるだろうし、その時に守ってきたものが引き続き守られるかどうかは怪しい。
某県のどっかの担保された土地で、ボランティアの名を借りたイカレポンチどもが、樹齢何十年、何百年の樹木をチェーンソーで残らずきれいにかっぱいだという話は、地元じゃ結構有名。そうでなくとも、粗放的な管理によって自然が守られていた公園が、行政の担当者が変わったり、その意義がわかってない手を差し伸べる優越感に浸りたいだけの献愛(ボランティア)してあげたい中の人宮村優子的な方々の手によって文字通り草木一本残らぬ姿にされてしまうのは、よくある話である。
前の田中サンの本は、正に「里山の何を守りたいの?」という点で、自然保護の観点が後半ごそっと抜け落ちていた。公金にはなるべく頼らないスタンスは好感が持てるが、里山に人が住み続けられれば万事オッケー的なお話で、自然の話は副次的についてくるものだと結論づけているよーな気配すらあった。
で、なんでこんな話を蒸し返したのかというと、どうもこの里地里山を保全する法律ができるとかできないとかいう話をやふーニュースで見たからである。この記事自身は悪くないんだが、里山の定義が曖昧なままだったり、里山の何を守るのかが明確でなかったりすると、正に里山をゴルフ場として保全したっていいじゃないのということになりかねんし、そうでなくても一億総献愛(ボランティア)してあげたい人を量産しかねない、正にタイトルどおり全国に「里山のようなもの」ができかねない現状にどう対処するのか、とてもじゃないが時間も人も足りないだろと。里山「の自然」を守る担い手をどうやって作るのか、まさか地方に環境省の役人を出向させたり外郭団体を作るか手厚い支援をするつもりじゃああるめぇなと勘ぐってしまうのだが。どっちにせよ農地を預かる農水省との軋轢もあることだし、似たような法律は山ほどあるし、拙速以外の何者でもないと思うのだがどうよ。
・ にしても「ようなもの」という単語、使い勝手いいなぁ。