転送・転載歓迎
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まるごと☆リンダちゃん #26
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■ご挨拶
こんにちは。リンダです。友人達と「Free Associations」(仮称)を立ち上げまし
た。倫理的な活動を構築していきたいので、是非ご参加ください。よろしくお願いい
たします。
http://park.geocities.jp/freeassociations21/
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■無所属の生へ/青木純一
青木純一さんから寄稿していただきました。ありがとうございます。
はじめまして。文芸評論家の青木純一といいます。
この場を借りて、ちょっと宣伝も兼ねて以下の原稿を攝津さんにお渡し
した経緯を説明します。
ぼくは現在、「ハトポッポ批評通信」という無料メルマガを「まぐま
ぐ!」から発行しています。攝津さんも登録して読んでくれています。
このメルマガでぼくは「『夢十夜』というギャラリー」というタイトル
の夏目漱石論を、毎週日曜に連載しています。攝津さんから原稿の依頼
があったとき、ちょうどこの漱石論が終盤のだいじなむずかしいところ
にさしかかっていました。
本当はベンヤミンについてなにか新しい原稿が書ければと考えたのです
が、時間的に間に合いそうになかったので、以前に書いた未完成の漱石
論──「『夢十夜』というギャラリー」とは別の論です──の序文にあ
たる文章を、攝津さんにお渡しすることに決めました。序文ではありま
すが、単独の文章として読めると思います。ぼくがなぜ漱石を論じてい
るかを、端的に説明した文章になっています。この文章はこれまで未発
表のものです。
ただ、メルマガでの文章とは違って、かなりハードな文体になっていま
す。この序文に関しては、文体を変える気にはどうしてもならなかった
ので、最小限の手直しだけをしてお渡ししました。その点はご容赦下さ
い。ベンヤミンについては、あらためて「ハトポッポ批評通信」のほう
でいずれなにか書きたいと考えています。
「ハトポッポ批評通信」は以下の入力フォームから登録できます。無料
です。「まぐまぐ!」を使って配信しているので、メールアドレスを含
め登録者の個人情報はぼくのところには一切届きません。よかったら皆
さんもご登録下さい。バックナンバーはすべて公開にしてあります。
http://www.mag2.com/m/0000206311.html
では、漱石論の序文です。のんびり読んでいただければ幸甚です。
無所属の生へ(序)
廃墟の前にただずむときに私達にもたらされる悲哀にみちた悦びは、
その廃墟から私達自身の悟性によって建築を復元する営みの、遊戯のよ
うな純粋さだ。そこでは、認識は時の不可逆性に対する抵抗であり、ひ
とは廃虚の奥に建築家の精神の起源を再現しようとする……だが、その
「再現の昔」は、人間には許されないあまりに純粋な夢、耐え難い幸
(ブリス)にとどまるのだろうか。
夏目漱石は『私の個人主義』の中で、かつて著した『文学論』につい
てこう回想している。「……私は私の企てた事業を半途で中止してしま
いました。私の著わした文学論はその記念というよりも寧ろ失敗の亡骸
です。然も畸形児の亡骸です。或は立派に建設されないうちに地震で倒
された未成市街の廢墟のようなものです」。私達にとって、漱石が名指
した「明治の精神」というものも、そのような廃墟に他ならないのでは
なかろうか。北村透谷の自裁から漱石の『明暗』の未完までに封じられ
たその精神の山脈の姿は、巨大な市街の現出を予感させながらも、歴史
の現実においてはただ廃墟としてしか存在していない。だとすれば、私
達はただみずからの思考の力を頼りにしてしか、その廃墟から建築を復
元することはできない。復元されたものが本当に「実物」と一致してい
るかどうかは、ここでは二次的なことだ。真に問題であるのは「著作」
でも「人物」でもない。
個々の明治の知識人達は、社会の急速な膨張の下で、実際には同化す
べくもない様々な価値のアマルガムとして、すなわち<判断の矛盾>と
して生存せざるをえなかった。その意味では、彼等はけっして純粋な文
化の典型ではない。ただ彼等は──私達現代人とは異なり──その矛盾
を<苦しむ>ことができた。彼等の言語はこの苦痛の履歴であり、残虐
な自己解剖の傷痕である。だが、その苦痛の力を通じて、彼等は今なお
伏蔵される精神の残像を将来に放ちながら消えた、いやまさに現在、消
えてゆこうとしている──あたかも気づかれぬまま地平をかすめ過ぎて
ゆく暗い彗星のように──。この天体の不可視の軌道をあえて私達の思
考の起源として築くために、すなわちその精神の星座に存在の根拠を与
えるために、私達は「明治の精神」という未成の廃墟をなおも近代の<
最初の>象限として画期づける。
「明治の精神」は明治という時代に所属しているのではない。だが、私
達がその精神を所有しているのでもない。「明治の精神」は私達の現在
をたしかに条件づけながら、なお私達の記憶の果てにある過去の星座と
して存在している。
そう、たしかに過去は解読しがたい信号を放ちつづけている天体に似
ている。その信号を捕えるや否や、現代は性急に探査の触手を伸ば
す……すでに石川啄木は「近代的」という形容詞を「性急(せっかち)
な」と同義に解意していた。
「最近数年間の文壇および思想界の動乱は、それにたずさわった多くの
人々の心を、著るしく性急(せっかち)にした。意地の悪い言い方をす
れば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける『近代的』という言葉の意味
は、『性急なる』という事に過ぎないとも言える。同じ見方から、
『我々近代人は』というのを『我々性急な者共は』と解した方がその人
の言わんとするところの内容を比較的正確にかつ容易に享入(うけい)
れ得る場合が少くない。」(石川啄木『性急な思想』)
現代はそのせっかちな触手を救済の手だと思い込んでいるのだろう
か。だが、過去という星座が放つ信号にはいつも「ここは危険なのだ、
近づいてはならない」というメッセージが秘められている。文化の起源
に胚胎する陣痛の苦痛、その産後の汚穢、そして何よりも初児は贄に供
されるという歴史の残酷な鉄則、それらの危険に対して現代がかくも無
造作に、あるいは無関心に振る舞いうるということ……これは私達現代
人もまた諸価値の混淆として判断の矛盾を生きながら、その矛盾に対し
て無自覚であり、どんな苦痛も感じることがないというあまりに近代的
な事態のひとつの帰結である(すでに『明暗』の人物造形はこの事態を
予告する)。私達は虚偽であり、虚偽への無邪気な無−意識であり、つ
まり一層完成された近代人である。稀代の遺跡盗掘者であるこの私達
は、汚濁に強く、いかなる感染も恐れず、病気を病気と思わぬ頑健な身
体を誇っている。しかし、この頑健さは文化のいかなる高度の証明でも
ありえない。医師ならば知っているであろう、無痛覚症の危険を。
「明治の精神」とその苦痛は、もはや現代の想起の彼方にあるのかもし
れない。<漱石の思考を私達はなお想起しうるか>……これがここでの
私の問いである。この問いは、漱石の生をただ追認しようとするのでは
ない。そうではなく、漱石の思考が私達の思考の危機を喚起すること、
したがって本来ならば漱石という精神を通じて現在に苦痛を惹起するこ
とであるべきなのだ。なぜなら、漱石の言葉にして真であれば、彼の思
考と創作の過程こそ未来の苦痛の<想起>、「人間全体が幾世紀かの後
に到着すべき運命を、僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければなら
ないから恐ろしい」(『行人』「塵労」三十二)という自覚における、
未来を先取する苦痛の意味への問いに他ならないからである。だが、お
そらくはその苦痛を直截に感受する器官こそが、私達現代人においてす
でに退化しているのだ。ならば、せめてその苦痛の残響に耳をすます悲
哀(メランコリー)を研ぎすませておくことはできないだろうか……。
漱石の<思考>を想起すること──それはまた伝記的な事実を語るた
めでも、彼が生きた時代の考現学を展開するためでもない。ましてや、
彼が残したテキストの多面的な空間を分析するためでもない。多様なテ
キスト解読を仮にすべて集め合わせたところで、漱石の思考の本来のダ
イナミズムに到達することはできない。むしろ逆に、彼の思考が要求す
る創作の力学が問われる場所ではじめて、彼の作品とその多義性にも生
きた意味が与えられうるはずだ。その場所はどこか。現下の私達の思考
が漱石の思考を危機の覚醒として必須とするその場所においてである。
その場所を準備することで、私達は何をしようというのか。たぶん、漱
石をして苛酷に復讐を敢行させようとしているのだ、──誰に対して?
現代人に対して、すなわちとりもなおさず私達に対して……。だが逆
説的ながら、漱石をしてもっとも苛酷に復讐を敢行させえた時にこそ、
私達は復讐を自然とするこの世界の相貌をいくばくか変容するかもしれ
ないのだ。私はその事態を比喩的に「明暗」を<書き継ぐ>ことと言い
表しておく。もちろんこのことは、未完の書を文字どおり完成させるこ
とを意味してはいない。『明暗』が切り開く時−空間から現在へ放たれ
る、明滅する一筋の光、その「黒い光」(『こころ』下、四十八)を感
知することだけを目ざしている。そして、私達がその光から各自の
「道」を照らし出すことができれば、さらに望ましいに違いない。私達
がなおその道を見いだせずにいるとしても、そしてその道を正しく名指
す言葉を持たずにいるにせよ、いずれにせよ、漱石の文は私達を道の準
備に向けて待機させる。つまり、漱石の文が可能にする<思考する生>
を反復するよう待機させるはずである。その待機へと心を向けるため
に、私達はまず漱石の思考の様相を探究することから始めよう。
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■ライブ予定
デス見沢先生の掲示板にライブ予定を投稿しています。
http://438.teacup.com/tamalunch/bbs?
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■今日のお言葉
人生遠視
足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる
(高村光太郎『智恵子抄』より)
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まるごと☆リンダちゃん
編集:リンダちゃん(攝津正)
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