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最近金の話ばかりなので、改称するべきではないか。
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レポート代筆のつづき。「現代の売買春」について調べる。一夫一婦制的な婚姻契約(結婚)の形態だけが合法的な性関係だというカント的=ブルジョア的な枠組み(『人倫の形而上学』)はいやだし、かといって弱い立場の他人(たち)を際限もなく食い尽くすような関係の肯定もいかがなものかと思う。それで、もしかしたら第3の選択肢を示唆していないかと思い、タイトルに惹かれて
- 倉塚平『ユートピアと性 - オナイダ・コミュニティの複合婚実験』中公叢書
を借りてきて読む。が、そういう視点からすれば、まったく示唆は得られなかった....。19世紀のアメリカにおけるコミューン熱の雰囲気みたいなものは感じ取れて、それは収穫だったけれど。
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p.iii-iv
彼らはこう信じていた。キリストの説く隣人愛の教えとは、万人を区別することなく愛することである。特定対象に愛を集中することは独占的所有欲から発するものであり、差別と不和と分裂を生む悪魔の業に等しい。さらにこの無差別的隣人愛は、たんに精神的レベルに止まるべきではなく、肉体的レベルにまで及ばなければならない。なぜなら神は性の交わりに2種類の機能をお与えになったからである。すなわち生殖という劣った機能と人を愛するという優れた社会的機能である。留保性交によって受胎を避け、後者の機能のみを発揮しつつ、コミュニティの各人はその異性のすべてと愛の交わりをしなければならない。それは無私の精神から発するものであり、罪から解放された完全主義者がまさしく地上に天国をもたらさんとする行為なのであると。
この無差別的交わりは、もちろん、自由恋愛でもなければ乱交でもなかった。それは中央委員会の管理下に置かれ、淫乱な行為は厳しく排除されたし、ある特定パートナーと継続的に交わることはスペシャル・ラヴとして許可されなかった。彼らはこの性的関係を複合結婚と呼んだ。建前としてはそれは自己が完全な存在であることを立証せんとする愛の苦業ともいえるものであり、夜毎、秘蹟執行の厳粛さをもって遂行されるべきものであった。さらに69年代末から崩壊までの10年間、選ばれた男女だけが子を生む制度が作られたが、その目的はよりパーフェクトな次世代をつくりだうことにあった。たんに肉体的素質だけでなく両親が獲得した道徳性も遺伝すると、彼らが真面目に信じたためであった。
筆者の倉塚氏の筆致が終始、嘲弄的なので、どうも頭からダメな印象で最後まで読んでしまったのだが、いま抜粋しながら読みかえすと、なかなか良い発想も含まれているのではないかという気がしてきた。教祖の、宗教的権威に依拠する独断的な行き方に問題があっただけではないか。
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ロン・オグレディ『アジアの子どもと買春』明石書店
数週間以上売買春に関わらされた子どもを社会復帰させようというプログラムの成功率は、どの国でも極めて低いものである。サイシュリー博士の挙げた要因は、セックスの道具として子どもを酷使することによって引き起こされる弊害の大きさを示唆するものである。台湾では、レインボー・プロジェクトが売春宿の少女たちを対象とした小規模な調査を行った。少女たちの中には一晩に20人から50人の客をとっている子どももいたが、タイでの調査に述べられているような特徴がここにもすべて現れていた。彼女たちの抑うつ状態は、彼女たちについての最も簡単な質問にすら答えられなかったり、答えようとしないという態度に現れていた。土地の言葉で質問された場合にすらそうなのである。
子ども買春の仕組みが全体として生みだす重圧は、子どもの自己イメージを見事に破壊して、完全な自信喪失に至らせてしまう。......このような精神的虐待によって、子どもたちの自尊心はたちまち失われてしまう。(p162-3)
13歳という年齢でありながら、今までの生活でさんざん虐待されてきて、まるで「老女」とでも言えるような経験をしてきた少女に出会ったなら、その「老女」が今でも20セントで体を売っていると知ったなら、「老女」はただ自殺の機会を待って生きているだけだと知ったなら、そしてこんな少女が幾百、幾千、幾万、あるいは幾十万もいると知ったなら、もう本書で語ってきたことが、本当に人道に対する罪であると認めるよりほかなかろう。(p186-7)
道徳心への訴えにはまったく冷感なぼくも、これらの記述にはいささか心をうたれた。但し、問題を政治的-経済的な搾取構造を背景にのみ考えるべきだと思う。「ペドファイル(少年愛者)」というひとつの
人間類型をおよそ考えられるかぎり醜悪に描きあげ・それに一切の悪を帰するというやり方には、深い嫌悪をおぼえる。非難されるべきなのは弱い立場の他人を食い尽くすということそのものであり、欲望ではないのではないか。
同性愛者のグループが、こうしたペドファイルの主張に警戒し、一部のゲイのグループは、子どもとの性的関係に対して最も激しい批判を行っているが、これは当然のことだろう。1990年7月にチューリッヒで開催された国際レスビアン・ゲイ青年組織世界会議(World Conference of the International Lesbian and Gay Youth Organizations - ILGYO)において、あるニューヨークのレスビアンのソーシャルワーカーが少年性愛者を厳しく批判したことをきっかけに、激しい議論がまき起こった。その結果、ホモが少年性愛者と結びつけられた場合の大衆の反発を恐れて、多くのゲイ組織は、世代境界をこえた性的行動は、主として、双方の合意に基づくものではないという理由で、自分たちとはまったく無関係なものだという公式の声明を出している。医学的にも法的にも、小児性愛が大人を対象とするホモセクシュアルとはまったく異なるものであるという事実には議論の余地がない。同性愛は今や社会的に認められた性的志向である一方、小児性愛は医学的には性的逸脱とみなされる。(p87-8)
以下数ページにわたって、執拗な断罪が続くが、これにはまったく同意できないし、深い嫌悪と反発をおぼえる。
確かに、大人(特に男性)が子ども(特に少年)と日常的に性的関係をもつ共同体は多く存在したし、今も存在することは明白であるが、その事実から、古代ギリシャやアフガニスタンの方が、性に関するもっと一般的な現代的基準に従う社会より、成熟度の高い、文化的に優れた社会であるという結論を導きだすことは不可能である。
大人と子どもの間の世代境界をこえた性関係が広がることは、ペドファイル・グループが主張するように、社会にとってプラスになるのであろうか。ギリシャでの男色関係が上流社会だけに大きく限定されていたことや、女性が無権利の劣者として扱われていた好戦的・攻撃的社会においてそれが行われていたことには何ら意味がないのだろうか。(p88-9)
これは「ためにする議論」ではないか。アジアの子どもの売買春の悲惨な実態は、まさに「成熟度の高い、文化的に優れた社会」 - 「われわれの」(いわゆる
先進諸国の)社会の裏面、資本の他を食い尽くす無際限な衝動にあるのであって、古代ギリシャやアフガニスタンにはその悪に対する責任はまったくないのではないのか。
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2週間ほどまえ知人に送ったメールより
10年前放映されたTBS『報道特集』をみての感想
例えば、親から棄てられたフィリピンのストリート・チルドレンを、アメリカや日本などの富裕な男性が拾う。彼は子どもたちに「厭になったら自由に出て行っていいよ」と常々いっているが、それはできない。子どもたちは《二重の意味で》自由なのだ。男の邸宅に留まるのは、暴力で強制されてのことではない。生活手段を欠いているために、《自分の意思》でそこに留まらずを得ないのだ。結婚を《合法的売春》というフェミニストの主張を真似れば、露骨な人身売買・奴隷的待遇とはいささか違うものとして、《半合法的》形態というべきであろう。子どもは暴力で脅されはしないが、たんに、生活手段が無いので選択が事実上無い。養えなくなると、親は子どもに家を出ていくようにいう。10歳かそこらで《自活》せざるを得ない状況に追い込まれる場合もある。
フィリピンの警察は、不審な人物の内偵を進め、《証拠写真》を撮る。男が子どもたちと裸でベッドに入っている《現場を押さえる》のだ。男は逮捕される。子どもたちは福祉施設に送られる。その施設の人権擁護運動家の話では、《愛撫》され過ぎてペニスが半ば壊死していた子どももいたという。
道徳家的断罪への懐疑
個々の少年愛者、ないし少年愛の欲望そのものを道徳的に断罪することが問題だとは私は思えない。
(中略)
道徳感情、《感性》に依拠した断罪には私は疑念をもつ。例えばディズニーがレズビアンやゲイに《寛容であり過ぎる》という理由でカトリック団体がボイコットを呼び掛けているが、消費(G'の実現)の力に依拠したこの運動、道徳家的強制以外のものとはいえないこの運動の《動機》は、やはり(当人らには疑い得ない自明なものであるところの)道徳感情にほかならないのではないか。少年愛者たち《一般》に向けられた反感、排除、非難等々もやはり、自明であると称される理由に基く道徳家的強制なのではないのか。熟慮、吟味の欠落を正当化するのが《政治的プラグマティズム》だとしたら、ぞっとするような話ではないか。
結局「道徳的な運動」と規定される諸運動も、倫理的ならぬ「道徳家的」過剰干渉や不当な強制(暴力)に陥る危険をつねに孕んでいる。(例えば queer nation という団体による小説家デニス・クーパーの作品の性描写・暴力描写への抗議などは、心的幻想の現実性への理解をまったく欠いた不当な道徳家的過剰干渉としかいえないのではないか。)倫理的か道徳家的かという区別は、単にG'の実現の阻止という抽象的観点にとどまる(質的多様を捨象する)かぎり、不可能である。形式から実質に踏み込む必要がある。
話を少年愛に戻すと、問題は個別的な欲望の本性そのものが断罪されるべきかどうかということではなく、政治的・経済的な諸条件の顧慮ではないか。少年愛《一般》を断罪するのではなく、一定の政治的・社会的諸条件、例えば富裕-貧困、「先進国」-第3世界といった力関係を顧慮すれば子ども本人の自由な意思による同意といっても内実がない、という点に限定して問題を立てるべきではないのか。
人格-物件関係の随時の転換?
『報道特集』で取り上げられていたようなアメリカ人の富豪を刑事的責任を問うべきではない、というのではないが、同時に彼に、無数のストリート・チルドレンを援助する財団に出資するよう要請すべきではないかと思う。つまり、彼の愛を、相手を物件(道具)として《消耗し尽くす》(その象徴が保護された子どもの壊死した性器である)のではなく、人格(目的)として扱う方向に向けるように説得する、ということだ。
このアメリカ人富豪とフィリピンのストリート・チルドレンの関係は、カントが咎めてやまない内縁(妾)関係にぴったり一致する。すなわち、自分だけがつねに人格(目的)で、相手のほうはいつまでも物件(手段;道具)である - そしてその一方性の根底には経済的依存関係がある - という論点だ。カントにはリアリストの面もあるから、性的関係(彼のいう《性器の相互的使用》)の具体的現実には、相手をただひたすら目的として扱うのではなく手段(道具;物件)として扱う場面もあることを認めている。肉体(《性器》)を欠いた諸精神の純粋な人格的交流などが問題ではないのだ。カントの意見では、《相手を食い尽くす》性欲は、目的-手段(人格-物件)関係の随時の相互交替(反転)が保証されているかぎりにおいて、適法的なものになる。そのような適法性が両性間の婚姻契約によってしか保証されないというところまで彼について行くことはできないが、関係性の随時の反転(役割交替)という論点は熟考に値するものをもっていると思う。アメリカ人富豪とフィリピンのストリート・チルドレンの関係といった具体的事例において、では「関係性の随時の反転」とは具体的にはどういうことか? と問われるとはっきりした考えはまだないのだが。相手を性的道具としてのみならず人格としても愛するためには、経済的な無力の解消と教育が先決条件だ、というのは綺麗事に過ぎるかもしれない。
まあ事実「綺麗事に過ぎる」ことがオグレディの著書を読んでわかったわけだが。
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山本直英『性の人権教育論』明石書店
..本来人間の性行動は他律には不向きの分野で、自律によるしかコントロールを期待できないのです。売春防止法という良識のある法律があっても、売買春という性行為がプライベートな空間で行なわれる限り、他者が摘発し阻止することはむずかしいのです。だから、わが国は買春天国になっています。このように性が、ルールや法律の規制にはなじまないことは、軍規に「強姦は禁止」とあっても、現に戦場での強姦を阻止できなかったことでも分かるはずです。中高校生の少女だって、性交体験の前に、誰ひとりとして「親や教師の許可を求める者」はいないし、「親や教師に事後報告する者」もいません。こうして強姦から援助交際まで、ほとんどの性行動は、みんな本人や当事者の「性的自己決定能力」にかかわって起こっているのです。どうしても他者がコントロールするならば、強力な権力が働いて個人のプライバシィ(人権)にまで立ち入ってこないとできないというのが、人間の性行動なのです。
そして、この「性的自己決定」の「能力」をつけるのに必要不可欠なことは、性の学習になります。この学習を幼いときから保証しなかったために、少女たちは性行動を選択・決定する「能力」が身につかず、援助交際のような性行動に踏みこんでしまったのです。それは援助交際以外の行動を選べなかったことになります。
一方、わが国の男性にも、一生を通して、真面目に性を学び考える学習がありません。女性の場合には初潮・月経・妊娠・避妊・中絶・出産・哺育・更年期などと学習の機会はありますが、男性にはまったく学習の機会が見当たりません。それに反して、ポルノ・AV・猥褻なコミックなどのエッチな情報での学習はいくらでもあります。これでは大人になるまで男性にも「性的な自己決定」の「能力」をつける機会がないことになるのです。その結果、何割かの男が「買春」・「援助交際」や「セクハラ」・「性的暴力」などを自己規制することができなくなるのです。(p98-9)
この著者は少し前に亡くなったが、生前一度だけ、この人の講演を聴いたことがある。エネルギッシュといえばエネルギッシュな喋り口調だったけれども、いささか面食らってしまって、著作自身を読むまでに何年も時間がすぎてしまった。(今日、はじめて読んだのだ。)