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夢目記


日記鯖システム管理者からのお知らせ

  • HTTPSに対応し、http://ds.sen-nin-do.nethttps://ds.sen-nin-do.net のどちらでも日記鯖にアクセスできるようになりました。 なお、当面はHTTPとHTTPSのどちらも利用可能としますが、将来的には http://ds.sen-nin-do.net へのアクセスは https://ds.sen-nin-do.net へ転送する予定です。
  • 都合により日記鯖のURLが http://ds.wa-mo.to/ から http://ds.sen-nin-do.net/ に変更となりました。 突然で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。(2019/01/27)
  • 日記鯖の仕様変更、不具合対応等については、こちらの記事もご覧ください。

元気です。

2007/03/01 まるごと☆リンダちゃん #31

転送・転載歓迎

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 まるごと☆リンダちゃん #31
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■ご挨拶

こんにちは。攝津正 Tadashi SETTSU a.k.a. Lindaです。花
粉症が大変! もう粘膜が痛いし痒いし、鼻水は止まらないし
で困っています。とうとう観念して昨日から薬を飲み始めまし
た。が、効いているのかいないのか!?

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■ジャムセッションとライブのお知らせ

3/3(土)17:00より、鶯谷のWhat'upでジャムセッションがあ
ります。
3/4(日)13:00より、千葉県船橋市高根公団の讃岐うどん長兵
衛でファンキー・シーズのライブがあります。

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■あかね或いは人が集まるということ、または「21世紀の『だ
め』」を巡って

攝津正 Tadashi SETTSU a.k.a. Linda

私があかねに関わり出したのは、NAMが解散した後のことだか
ら、約4年ほど前ということになる。きっかけは杉田俊介らと
共に究極Q太郎インタビューをした際、私が仕事も辞め家に引
きこもっていると語った時、究極からではあかねのスタッフを
やってみれば、と助言されたことだった。

はじめ私は、土曜深夜(零時〜翌朝6時)の枠で女装してカウ
ンターに入っていた。「リンダちゃん」という仇名はその時以
来のものである。どうしてそんなことをしたのか、今となって
はよく分からない。が、人との交流や出会いを求めていたのだ
ろうとは思う。私は、あかねで「セックスワーク(売春)をや
りたい」と思っていたが、幸か不幸か、私に性的魅力がなかっ
たためそれは実現しなかった。

その後、さんだー杉山と組んで土曜や月曜の当番に入ったり、
究極Q太郎やトミーの補佐を受けて水曜のイベントを仕切った
りしながら、あかねとの関わりを続けてきた。大きかったのは
やはり、二度目の解雇・失業である。私はバイトを辞めて(辞
めさせられて)、あかねでのイベント=興行に精力を注ぎ、そ
れにやり甲斐を感じるようになっていた。が、究極とトミーが
もろもろの事情で抜けて、私は「究極がいないあかねに意味が
あるのだろうか」などと自問するようになった。

世の中どこででも、本音と建前があるものだが、あかねでもそ
うだったと思う。みんなが対等な共同経営のフリースペースと
いう理念が建前だとすると、究極の多大な貢献と自己犠牲に依
存した「究極の店」というのが本音だったと感じる。その究極
がスタッフから抜けて、あかねに関わる誰しもが自らの立ち位
置なりを自問する必要に迫られたのではないだろうか。勿論私
も例外ではない。

あかねなりの場に人が集まるということは、何を意味するだろ
うか。一言でいえば、そこに「開け」なり可能性が生じる、と
いうことだと思う。それは良い面だけではなく、例えば(性的
な)暴力やら紛争がそこで生じる可能性が開かれる、というこ
とでもある。実際、あかねでは度々(性的な)暴力や紛争、ハ
ラスメントが起き続けてきている。人が、それも良く言えば個
性的で特異な人達が多数集まるということは、危険極まりない
ことでもある。思想、言葉のレベルでも、身体のレベルでも、
傷つけ/傷つけられる可能性が開かれるからだ。その中で、人
は知らず知らずのうちに暴力を振るう加害行為の主体ないし差
別者になっているかもしれない。例えば私は、ピエールや勉強
師を公然と批判しているが、それが「政治的」排除ではないと
は言い切れないように思う。あかねという「だめ」な人が集う
場ですら、その中でさらにだめな者が差別化され、嘲弄された
り排除されたりするということは、どう考えればいいのだろう
か。弱者が弱者を苛めるという不幸な構造──日本社会の縮図
──が再生産されている、ということでしかないのだろうか。

個性的で特異で多様で変態であることは、肯定されるべきだと
思う。が、それが他者を傷付けたりハラスメントになるような
場合に問題が生じる。セクハラやマイノリティ差別発言、さら
には他者を不快にする言動等である。オープンなフリースペー
スといっても、「何でもあり」ということではなく、そこには
自ずから慣習法(ノモス)が自然発生的に生じてくる。例を挙
げれば、例えば勉強師は、相手構わず他者の来歴だの経歴を詮
索したり、場の雰囲気なりをわきまえない言動をして問題にな
る。私が経験した例でいえば、イラク戦争のワークショップを
やっている時に彼が来店して、「拷問で目玉が抉り出された残
虐な写真が見たい」とはしゃいでいたことがあり、私はものす
ごく不快になったので思わず「勉強師は出入り禁止だよ」と告
げた。つまり場の主催者として私は権力を行使したわけだ。権
力を行使する/されるという関係の網の目に出口はなく、誰し
も無垢ではあり得ないから、私はそこで決定的に勉強師に対し
て排除的な立場に立ったことになる。が、私はそのことを間違
いだと思っていないし、後悔もしていない。勉強師は、多数の
人が拷問され殺される悲惨な現実を批判的に捉えようというワ
ークショップに来て、単なる好奇心(残虐な画像が見たいとい
う欲望)に基づく発言をしたのだから、批判されて当然だ。だ
が、排除されるべき者とそうでない者の境界線はどこにあるの
か、というと案外難しい。あかねに慣習法(ノモス)があると
いっても、複数の人間の間の事前の暗黙の合意があるわけでも
ないし、そもそもそこで成立している法?は多元的だ。例えば
或る人が、或る曜日には出入り禁止だが、他の曜日ではそうで
はない、といったことがある。それはあかねで、各曜日毎の当
番の一種の自治制?が認められてきているからである。あかね
での倫理とは、場の主催者の本性 natureに適合するか否か、
といった倫理であり、それは一歩間違えれば恣意的な選別なり
排除にも繋がりかねない。誰が受け入れられ、誰が排除される
のかはあかねでのミクロ政治の力関係に基づくが、それは自明
なことではないし、常に問い返されるべき事柄である。以前私
があかね憲章とあかね監査委員会の設置を提言したのは、その
観点からだ。

あかねは〈共 common〉を実現しようとする実験である。政治
的左翼もそうでない人も、その実験の過程に身を置いているわ
けだ。あかねはアナーキーだが、そのアナーキーは自己統治を
否定するものではない。プルードンも強調していたように、ア
ナーキストのアソシエーションには法があり、それは実定的な
契約に基づくものだ。契約というと硬い印象だが、言葉を尽く
しての話し合いの精華と言い換えてもいい。人が集まり、語り
合うなかで自ずから生成するルールが、アソシエーションの法
なのだ。そして場の主催者には、場で生じるもろもろの政治的
紛争に関して一定の責任がある。オープンな場は、暴力や差別
にも開かれているだけに、場をどういう性格のものにしていく
か、その練り上げが主催者や参加者に問われるのだ。その練り
上げの過程が、あかねで「交流」と呼ばれる活動であろうと思
う。規則はあらかじめあるものではなく、「交流」を通じて練
り上げられ仕上げられるものだ。それは超越的な法ではなく、
内在的な慣習であって、それを練り上げる過程そのものが実定
的な自由の実現である。

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■批評

☆ルイ・アームストロング&エラ・フィッツジェラルド『ポー
ギーとベス』
有名な「サマータイム」をはじめ、名演名唱が聴ける。繰り返
し聴いているが、やはり良いと感じる。サッチモはジャズを荘
厳な悲劇の次元にもたらしているかのようだ。

山田花子『自殺直前日記』(太田出版)に山田花子の父親が寄
せた手記にサッチモのことが出てくる。それが以前から気にか
かっていた。

「何度目かの面会に行った時、由美は「パパ、アームストロン
グ知ってる。ラジオで聞いたんだけど、アームストロングって
すごいんだよ!」と言った。私は早速、手持ちのCDからダビン
グして作成したテープを差し入れてやった。病棟で由美は、私
が差し入れたテープを、2〜3日でラジカセの電池が切れてしま
うほど繰り返し聞いていた(病棟では電源コードは使えない)
。50年代以降の底抜けに明るいアームストロングと違って、深
い哀愁を帯びた初期アームストロングのコルネットの響きが当
時の由美の心境にぴったりだったのだろうと思う。」

「50年代以降の底抜けに明るいアームストロング」、というの
は当たっていないこともない。が、例外が二枚ある。それが『
ポーギーとベス』及び『プレイズ・W.C.ハンディ』である。バ
ード=チャーリー・パーカーがビバップ即ちモダンジャズを創
造したとすれば、サッチモ=ルイ・アームストロングはジャズ
というジャンルそのものを創造し確立したと言える。50年代に
残されたこの2枚のCDはジャズというものがどこまで厳かな(
といって肩に力が入ったようなものではない)ものたり得るか
という例証である。

『ポーギーとベス』には、マイルス・デイヴィスやオスカー・
ピーターソンの名演もあるが、今のところ私が一番良いと感じ
ているのはこの演奏だ。

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■今日のお言葉

オカマたちよ、自分のために語り始めろ! オカマ、ダイク、
オネエ、フェアリー、ケツ掘り野郎、ドラァグ・クイーン、女
装者、酒場浸り、スベタ。君らが君らを何と呼んでも構わない
。自分がだれだかは自分が一番よく知っている。言葉の暴力に
ついてとかいう恩きせがましいタワゴトで、同化主義の連中に
君らを子ども扱いさせるな。好きなように自分を呼べ。すべて
のレッテルを拒否しろ。我々は皆レズビアンとゲイだというウ
ソから自分を解放しろ。

(デレク・ジャーマン『危険は承知』大塚隆史訳、1995年、ア
ップリンク)


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2007/03/03 まるごと☆リンダちゃん #32

転送・転載歓迎

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 まるごと☆リンダちゃん #32
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■ご挨拶

こんにちは。リンダです。相変わらず花粉でヤられています。
これは辛い! ティッシュ消費量が半端じゃないものねぇ。

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■批評

☆クリヤ・マコト『My Music is Your Music』
クリヤさんのところには、高校生の頃、何度かレッスンを受け
に通ったことがある。クリヤさんがバード=チャーリー・パー
カーとビル・エヴァンスを本当に愛していることが伝わってき
て、良い経験だった。私は今でも、クリヤさんから習ったコー
ドを使って弾いている。ルートを抜き9度の音を押さえるやり
方は、モダンな感じの音づくりができて、とても良いと感じる


さて最新アルバムの本アルバムだが、日本フリージャズに批判
的でリリカルで知的な音楽創りを目指してきたクリヤさんの真
骨頂という感じだ。ビル・エヴァンス及びハービー・ハンコッ
クの後継者的な位置に彼がいるということがよく分かる。ハー
ビー・ハンコックやビル・エヴァンスの曲を取り上げているが
、うまく捌いているなと感じさせる。

が、クリヤさんのCDで一番好きなのはデビュー作の『ボルチモ
ア・シンジケート』。斬新な音作りで、尖っていたと感じる。
今は円熟に向かいつつあるのかな。

☆ディジー・ガレスピー『アット・ニューポート』
ディジーは過小評価されている。パーカー=ガレスピーという
のは、マルクス=エンゲルスとかドゥルーズ=ガタリにちょっ
と似ていて、パーカーの天才性が喧伝されればされるほど、ガ
レスピーの大衆性?なりが貶められる、という構図が出来上が
ってしまっている。

が、これは正真正銘のジャズ、素晴らしいアルバムだ。ディジ
ーは、トランペットのテクニックだけでいえば、ジャズ史上最
高の超絶技巧家なのではないか、と思う。例えばマイルスは、
技巧というよりもコンセプトを組み替えることで音楽を刷新し
続けたわけだけれど、純粋に技術的にいうとディジーの華やか
なトランペットは誰にも換え難いものを感じる。

圧倒的な「ディジーズ・ブルース」、ロックを諷刺した「スク
ール・デイズ」、ディジーの最高傑作の一つとも言える「マン
テカ」、あまりに美しいメロディ・ラインに息を呑む「アイ・
リメンバー・クリフォード」、そして若いリー・モーガンの才
能が炸裂する「チュニジアの夜」。聴き返すたびに素晴らしさ
が実感されてくる。

が、ここで二点、留保をつけなければならないだろう。

「スクール・デイズ」はロックを諷刺した作品だが、ジャズメ
ンとしてのディジーには、モンク同様ロックの意義を理解でき
なかったところがあるのではないか、それがマイルスとの最大
の違いだと思う。モンクは、ロックとは「粗雑なジャズ」だと
言い放った。ディジーの認識もそれと大差ないのではないか。
それに対し、マイルスが電化サウンドの意義を十分に理解し、
問題作を次々に放っていったのは対照的だ。

もう一点は、アメリカ帝国主義との関わりである。平岡正明や
菊地成孔の本で強調されるように、バップの創造者達は基本的
にはアメリカが遂行する戦争なり国家戦略に厭戦的であったと
いうのは事実である。が、ガレスピーは中東にアメリカの音楽
大使?として行って、ジャズを普及する活動をしている。つま
り、アメリカの国家政策に関与しコミットメントしているのだ
。ジャズと戦争責任なりを考える時、この問題はもっとよく考
える必要を感じる。

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■今日のお言葉

……逆に「責任」という名にふさわしい唯一のものは、諸々の
基盤を取り払ったところ、われわれが決定を下す時に頼る規則
や知識を取り下げるところにこそ現れる。基盤がないというこ
とは、存在証明がないということで、われわれの決定事項のた
めの参照の拠り所がないということである。今まで「責任」と
は、常に西洋倫理的、政治的、文学的伝統の中で、「なされる
こと」を「知っていること」によって分節化する形で思考され
て来た。だが、それに対してわれわれは、「責任」を認識と行
動の秩序の非対称、あるいは切断において再定義しようではな
いか。むしろ何をすべきか分からない時、われわれの行動の効
果と条件がもはや計算不能な時、そしてもはや「自分」という
ものも含めどこにも頼る所がない時、われわれは初めて「責任
」というものに出会うのである。

ダグラス・クリンプ(高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』p156-157



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2007/03/04 まるごと☆リンダちゃん #33

転送・転載歓迎

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 まるごと☆リンダちゃん #33
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■ご挨拶

こんにちは。リンダです。今日はHOWSなどで活躍されているあ
むばるさんのコラムをお届けします。

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■リバタリアニズムと藤原紀香/あむばる

ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を嚆矢とする
リバタリアニズムは、近年徐々に市民権を得ようとしている。
日本においては、古くは笠井潔『国家民営化論』のアナルコ・
キャピタリズムとして導入され、最近では森村進の仕事、『自
由はどこまで可能か』や『リバタリアニズム読本』などによっ
て広く知れ渡ってきているようだ。そもそもリバタリアニズム
とは何かと言えば、最小国家、再分配の否定、自己責任をスロ
ーガンとする自由至上主義のことであり、福祉も警察もいらな
い、つまり自分で何とかするから、国家は必要最小限のことを
すれば良くて、いちいち個人の生活に口を出すなというのが私
のリバタリアニズム理解である。ただしこの思想、欠点があっ
て、ともかく現実味がなくてユートピア的に映ってしまう。ま
た頑なな個人主義だから、まったく歴史責任を負おうとしない
。だから、いくら徐京植が森村に戦後責任について批判しても
、まったく平行線のままかみ合わないのである。また個人的に
は障害者など、社会的弱者に対するまなざしがまったく欠如し
ているようにも思われる。これ関しては立岩真也が『所有と国
家のゆくえ』などで、「ベーシックインカム」の導入などと言
って、リバタリアリズムを改良した形で、月八万円の最小限の
再分配などを提案していたりするのだが。私はこの思想を支持
する者ではない。ただこんな思想であっても、利用価値はある
ように思われる。それは、強者に対する規制として「自己責任
」を突きつけることである。例えば、藤原紀香と陣内智則の結
婚。この結婚式には警察官が約400人も動員されたそうである
。遭難などの不意な事故ではない、個人の結婚式に、なぜ税金
が導入されなければならないのだろうか? 日本国民総意で二
人の結婚を祝福しているとでも? 総額一千万もするといわれ
る結婚衣装を調達するのならば、リバタリアンよろしく警備保
障会社を手配して野次馬の騒ぎを抑えるのが筋だろうよ。150
万の結婚指輪を用意する前に、人様に迷惑かけないように配慮
する方が当然先ではないか。この結婚式の警官動員は、「自己
責任」として、当然糾弾されるべきなのである。なぜそれが糾
弾されないのだろうか不思議でならない。この結婚式を他人事
として不問にしているようでは、リバタリアンに未来はないし
、それ以上に自己責任論が唱えられている昨今においても、あ
まりに理不尽な出来事なのである。

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■さようなら(RAM05宛てのメール)

今日は不快な話から始めねばなりません。残念ですが、聞いて
ください。

僕はQ-NAM問題に関して、全てのQ-NAM会員には政治的・倫理的
な責任があり、(自己)批判なり総括を公に語ることによって
のみそれが果たされる、と考えています。その観点からすると
、RAMのありようにも疑問なのです。

端的にいえば、岡崎乾二郎さんと王寺賢太さんは、文化人とし
てNAMを広く宣伝したのみならず、NAM規約委員や抜本的改革委
員としての責任を負っています。柄谷行人の独走と「Q解体」
を何ら阻止せず傍観した責任は確かにあるのです。柄谷行人に
よるNAM組織の私物化とヘゲモニー奪取に抗議し、彼を批判す
べきであったのに、そうせず、むしろ慰留した。王寺さんは一
度はっきりと柄谷行人の『Qは終わった』NAMホームページ掲載
を批判していますが、その後「阿Qの徒から慰留申し上げます
」では柄谷行人に甘い態度に退行しています。柄谷行人のNAM
退会を思いとどまらせよう、という意図からの「政治的」振る
舞いだったとは思いますが、結局のところ「公正さ」「正義」
を蔑ろにしてしまったと言うべきではないでしょうか。

そして新たに喧伝された市民通貨Lについて、それ自体「オモ
チャ」だとか「理論的な空虚」だという認識を持っていたにも
関わらず、NAM抜本的改革委員会などの公の場ではLを支持した
こと、これが岡崎乾二郎さんや王寺賢太さんの決定的な問題性
です。柄谷行人のヘゲモニー奪取は何よりも「理論」の名を僭
称することによってなされたのです。そうであれば、理論家な
り知識人こそ、インチキな「理論」を批判的に吟味し、公に批
評する義務があったはずではないでしょうか。

結局岡崎乾二郎さんや王寺賢太さんは、政治組織における原理
原則を通すことや公正・正義の実現といった公的なことよりも
、柄谷行人との私的な人間関係(友情)で動いたのです。NAM
が政治団体、革命運動であった以上、そのこと自体の責任が追
及されるべきだと考えます。

批判されるべきなのは岡崎乾二郎さんや王寺賢太さんだけでは
ありません。Q講師として最も精力的に活動し、多数の他者をQ
に勧誘した田口卓臣さんには責任はないのでしょうか。田口さ
んは、NAMセンター評議会で一回だけ『Qは終わった』掲載に反
対する投稿をしていますが、それ以外、紛争にはコミットして
いません。紛争自体がくだらない、「人間的な、余りに人間的
な」ものだとも言えるでしょう。が、そのような紛争の次元に
敢えて留まり、状況に介入していく必要があったのではないで
しょうか。もっといえば、カラタニズム=柄谷行人のヘゲモニ
ー奪取を批判し、NAMを真にパブリックなものへと作り変えて
いく義務があったのではないでしょうか。田口さんには、彼が
直接勧誘した東北の農民を含め他者らに対して責任があるし、NAM
に入っていなかったQ会員──単に翻弄され振り回された──
に対して責任があります。そうしたことも含め、田口さんにはNAM
(自己)批判を公的に語る義務と責任があると僕は思います。

NAM が解散して4年が経ちました。が、僕は全く何も「手遅れ
」ではないと思います。事柄をパブリックに語っていくのに遅
過ぎるということはないし、その義務に関して例外はあり得な
いと思います。岡崎乾二郎さん・王寺賢太さん・田口卓臣さん
、さらに倉数茂さん・中谷礼仁さんも自分のブログなり掲示板
などで、Q- NAM問題を公的に語る「義務」があります。問題は
何一つ解消していないし、何も「終わって」などいないのです
。全てはこれからだとも言えます。資本主義の問題性はかつて
に比べて増しこそすれ、少しも減じてはいません。柄谷行人と
の私的な人間関係を優先するのか、パブリックに社会運動を創
っていくことを優先するのか、が全ての人に問われていると思
います。

僕はこのメールをもって、RAM05及びRAMRAMRAMRAMを抜けます
。僕が自分自身の名前と責任で立ち上げたram wikiは継続する
つもりです。僕の意見に対する応答は、私信か、或いは以下の
掲示板でお願いいたします。なおこの文章は僕のはてなのブロ
グに掲載します。

http://jbbs.livedoor.jp/business/5417/

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■今日のお言葉

私は「懸命にゲイにならなければならない」と言いたかったの
です。おのれの性の選択が現存しているような次元、それが生
全般に効果を及ぼすような次元に身を置くべきだと。私はまた
、これらの性の選択は、同時に生の様式を創造すべきだとも言
いたかったのです。ゲイであることは、これらの選択が生全体
に拡散することを意味します。それは、差し与えられた生の様
式を拒否する或る種の流儀であり、性的選択を生存の変革の操
作子(オペレーター)にすることなのです。ゲイでないこと、
それは「いかなる形においても私の生が変えられないように、
いかに私の性の選択の諸効果を制限できるだろうか?」と言う
ことです。

(ミシェル・フーコー『同性愛と生存の美学』増田一夫訳、哲
学書房、p41)


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2007/03/05 まるごと☆リンダちゃん #34

転送・転載歓迎

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 まるごと☆リンダちゃん #34
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■ご挨拶

こんにちは。リンダです。今日は音楽の話や哲学の話をしてみ
ますね。

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■ジャズ入門・その1

ジャズという音楽は難しいというイメージを持たれているよう
ですね。実際、難しい面もあるのですが、単に楽しく聴けると
いう側面も勿論あります。ここでは、これからジャズを聴いて
みようという人に何ならお勧めできるかというお話をしたいと
思います。

☆ソニー・ロリンズ『サキソフォン・コロッサス』
ジャズにおけるキリスト?みたいな存在は、言うまでもなくチ
ャーリー・パーカーですが、彼の音楽を一回聴いただけでその
素晴らしさが分かるということはないように思います。その点
、ロリンズのこのアルバムは誰にでも安心してお勧めできます
。それは大衆的?ということでは全くなく、全てが奇蹟的にバ
ランスが取れているのです。

☆アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ『モーニン

言わずと知れた、彼らの来日時に蕎麦屋が屋台でこのメロディ
ーを吹いていたという伝説?があるファンキーの名盤ですね。
僕はこの演奏は彼らの最高のパフォーマンスの一つではないか
、と思っています。ホーン陣も素晴らしいが、ブレイキーのド
ラミングも、そしてボビー・ティモンズのピアノも全てが最高
です。

☆ルイ・アームストロング『プレイズ・W.C.ハンディ』
ハンディはアメリカのブルースの父とも言われる作曲家ですが
、この演奏を聴いて涙したと伝えられています。そのくらいこ
こでの「セント・ルイス・ブルース」は素晴らしいです。ジャ
ズというのもの粋を表現した演奏といってもいいでしょう。

ジャズに関しては高橋悠治の辛辣な批判(当たっていないこと
もない)がありますが、僕は基本的にジャズが好きだし、ジャ
ズをやっていきたいと思っています。多くの人にもっと気軽に
ジャズを楽しんでもらいたいです。そのための一助となればと
思い、名盤案内みたいなことをしてみました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■哲学入門・その1

これから哲学書を初めて読もうという人に何を勧めればいいの
か、というのは結構難しい問題です。が、僕ならデカルトの『
方法序説』(岩波文庫)から読むことを勧めます。近代哲学の
始まりを告げる書物であるのみならず、ものを考えようという
人なら一度は読んでおいて損はない名著だからです。

古代哲学、例えばプラトンなどは、はっきり言って接近するの
が難しいと思います。フーコー流にいえば、現代に生きるわれ
われとは「エピステーメー」が違うのです。プラトンの対話篇
の意味を(通俗プラトニズム風にでなく)理解することは大変
だと思います。が、デカルトの『方法序説』は、少なくとも誰
にでも読める(という可能性を開いている)のです。

カント以降のドイツ哲学は、基本的に原語(ドイツ語)ができ
ないと分からないという側面があるのではないか、と思います
。(僕もドイツ語はさっぱりです。)ジジェクによれば、ヘー
ゲルの『大論理学』では重要な移行の際に駄洒落や言葉遊びが
行われているということですが、それは原語が分からない日本
人にはなかなか理解できないところでしょう。

近代哲学は、デカルトの『方法序説』によって開かれ、ニーチ
ェの『この人を見よ』によって閉じられます。それらが小説的
?な外観を持っていることは偶然ではないでしょう。近代哲学
とは生そのものがまるごと哲学され、「問題化」される一つの
過程だともいえそうです。デカルトの懐疑、ニーチェの受苦な
り歓びこそ哲学的な感情というべきでしょう。デカルトは「学
」の可能性を開き、ニーチェはそれを焼尽した、とも言えそう
です。厳密に根拠づけられた、真理を目指す精神の運動として
の学、という理念は、永遠回帰の狂気的?な体験に置き換えら
れます。すべからく哲学には、それが本物の哲学であれば、「
狂人への生成」が含まれているものです。デカルトであれば『
省察』、ヒュームの『人性論』、スピノザの『エティカ』、カ
ントの『純粋理性批判』、ヘーゲルの初期論考や『精神現象学
』、ニーチェの『この人を見よ』などは過剰な思考が過剰に意
味を生産している工場であるともいえるでしょう。

分析哲学なり現象学は、過剰に生産される意味(=形而上学)
を批判し、「オッカムの剃刀」で過剰な存在者を剃り落とそう
という試みでしょうが、それは哲学の身を細らせることにしか
ならないのではないか、と僕は思います。カント風にいえば理
念を思考することは理性にとて越権行為なのですが、しかし人
間はその越権行為を犯さざるを得ない問題的な存在者だという
ことがいえそうです。例えば神という概念にせよ、今なお時代
遅れではないわけです。今生と盛んに呼ばれているものは、か
つてならば神といわれていたもの、特にスピノザの神即自然に
近い概念だと思います。超越的な神への信仰は放棄するとして
も、われわれの内在的な生それ自体をどう捉え、どう倫理的に
生きるかという問いが残っています。われわれが生ある存在で
ある限り、哲学という営みは終わらないといっていいでしょう


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■今日のお言葉

生きること、それは自己の享受なのである。たとえば、強制収
容所で、理不尽な命令と乏しい栄養によって痛めつけられ、い
つやってきても不思議ではない死の影に脅かされながらも、一
日の強制労働が終わると疲れ果てて眠りに落ちてしまうような
とき、生は外部を知らず、ただ自分自身だけを享受している。

快楽 pleasureは、外界の対象との関わりのなかで感じ取られ
るものであり、触覚の存在と切り離せない動物的な生に属する
。それに対して享受 enjoymentは、動物的生よりも深いところ
で、栄養的生によって生きられるものなのである。生き物は、
みな、自己を享受している。自分自身を生きている。そこには
、外部はないし、したがって他者もいない。生きるということ
はナルシシスティックなのだ。そこが「自己」と「自我」の違
いである。

(田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ』岩波書店、p15


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 まるごと☆リンダちゃん #35
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■ご挨拶

こんにちは。リンダです。今回は、性について哲学的に考えて
みました。

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■生/性を問い直す〜本質主義/構成主義論争に触れて

ジェンダー/セクシュアリティについて考えたり、運動に参加
している人なら誰でも、本質主義と構成主義の対立について聞
いたことがあるでしょう。簡単にいえば、本質主義とはわれわ
れには不可知の原因(時にそれは生物学的なものと想定された
りもする)によって、同性愛/異性愛が決定されているという
立場です。それに対し、構成主義とは一定の社会的・歴史的環
境において「同性愛」なら同性愛が構成されてきた(言説的実
践や非言説的実践を通じて)という説です。

構成主義は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの『性の歴
史』(特にその第一巻『知への意志』)によって初めて提起さ
れたと言われます。が、問題はそう簡単ではありません。

われわれが「ゲイ・アイデンティティ」と呼ぶ何か或るものが
あり、「クィア」はそれに対する脱構築的批評として提起され
たものです。が、このあたりにある問題性を丁寧に見ていかね
ばなりません。

●そもそも「アイデンティティ」とは何か
そもそも「アイデンティティ」というカナ書きの言葉は何を意
味するのでしょうか。インターネット百科事典であるWikipedia
には以下の記述が見られます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3

・同一性
・心理学でいう自己同一性。
・共同体(地域・組織・集団など)への帰属意識。例として、
コーポレートアイデンティティ、アイデンティティ政治など。

英語圏のWikipediaでの記述は以下のようです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Identity

Gender identity is the gender with which a person
identifies (or is identified by others).
とありますね。つまり、われわれが自分のことを男だと思った
り女だと思ったり、或いは男でも女でもないと思ったり、また
は同性愛者であるとか異性愛者であるとかバイセクシュアルで
あるなどと思う時、アイデンティティの問いが出てくると言っ
てもよさそうです。

●そして、「ゲイ・アイデンティティ」とは?
では、以上のことを踏まえた上で、「ゲイ・アイデンティティ
」とは何なのでしょうか。

先ず、他者(異性愛者)からのラベリングなり想像なりによっ
てではなく、当事者(同性愛者)が自らの経験から自己をそれ
として知り、自己の在り様を肯定し主張していくその闘争的な
仕方がそうなのだ、と言えそうです。これまで異常・病気・犯
罪などとして貶められ、差別され否定されてきた存在としての
自らが肯定的な声を挙げることで、政治的に闘争していくその
中で生み出され獲得される言葉と観念が「ゲイ・アイデンティ
ティ」だと言ってもよいでしょう。

●では、その「ゲイ・アイデンティティ」が何故問題なのか?
ところが、その「ゲイ・アイデンティティ」はわれわれの旅の
終着駅ではありません。生/性を巡る冒険はまだ続くのです。
今度は、主体的に構成された「ゲイ・アイデンティティ」に対
し脱構築的或いは壊乱的に作用する別個のカテゴリー、「クィ
ア」が問題になります。

再びWikipedia(英語)を見てみましょう。

http://en.wikipedia.org/wiki/Queer

In contemporary usage, some use queer as an inclusive,
unifying sociopolitical umbrella term for people who are
gay, lesbian, bisexual, transgender, transsexual,
intersex, genderqueer, or of any other atypical sexuality,
sexual anatomy, or gender identity. It can also include
asexual and autosexual people, as well as gender normative
heterosexuals whose sexual/pleasure preferences or
activities place them outside the mainstream (e.g. BDSM
practitioners, or polyamorous persons). Queer in this
sense (depending on how broadly it is defined) is commonly
used as a synonym for such terms as LGBT or 'lesbigay'.

「ゲイ・アイデンティティ」が批判され、代わって「クィア」
というより闘争的で論争的なカテゴリーが登場してきた背景に
ついて、もう少し考察してみましょう。

⇒経験的理由。性的少数者の経験は、レズビアン/ゲイの経験
と同一視されません。狭義の「同性愛者」ではない多数多様な
マイノリティがわれわれのコミュニティにはいるのであって、
そうした人達を疎外しない呼称なりカテゴリーが求められます


⇒哲学的理由。アイデンティティという語はどうしても「同一
性」を意味してしまいます。しかし、同一性ではなく「生成」
から性を考え直すとどうなるでしょうか。ドゥルーズ=ガタリ
において「生成」には、マイナーなものへの生成しかありませ
ん。メジャーなものへの生成はないのです。それは彼らの論理
というよりも倫理です。女への生成はあっても男への生成はな
く、性別横断的な越境はあっても異性愛男性である自己同一性
の確認はないのです。

もう少し掘り下げてみましょう。最近、TOKYO Prideがパレー
ドの名称を「東京レズビアン&ゲイパレード」から「東京プラ
イドパレード」に変更しました。

http://www.tokyo-pride.org/

彼・彼女らの言うところに耳を傾けてみましょう。

「【名称変更の理由】
東京プライド理事会は、パレードがさまざまなセクシュアリテ
ィの人によって担われている事実をふまえ、「ゲイ」「レズビ
アン」にとどまらず、パレードがすべてのセクシュアリティに
開かれ、すべてのセクシュアリティを祝福するものであること
を、名称においても表明したいと思います。

プライドという言葉は、性的少数者の運動において世界中で用
いられている言葉の一つであり、欧米では、一般的に、プライ
ドパレードという言葉がそのまま性的少数者のパレードを指し
て使われています(昨年、海外から寄せられたメッセージにも
、私たちのパレードを指して、プライドフェスティバル、プラ
イドマーチ、プライドセレモニーなどの表現が使われています
。TLGP2006公式ガイドブック参照)。

東京プライドの団体名称もそれに依ったものであり、その実施
するパレードも、このたびそれに倣(なら)うことにした次第
です。」

ひびのまことさんの批評を聞いてみましょう。

http://barairo.net/

「もちろん名前だけ変えても実態が変わらなければあまり意味
がありません。また、名前を変えただけで同性愛者以外の性的
少数者が対等に扱われるように直ちになる訳ではありません。
しかし「『私たち』が何かをする時には『レズビアン&ゲイ』
という看板ではもう動くことが出来ないのだ」ということを、
明確かつ公式に確認したということは、まずは必要な第一歩だ
と思います。東京プライドやこれまでの過程に不充分な点があ
ったとしても、まずは名称の改善を素直に喜びたいと思います
。」

要するに、われわれの経験自体が後戻りできないかたちで変容
したということ、これが決定的です。論理的ないし哲学的には
、ひびのまことさんがかねてから主張しているように、われわ
れが政治的に運動を創るさい、「属性別」ではなく「課題別」
で動くべきことを意味します。貴方は男か女か、男でも女でも
ないとしたらゲイなのか…等々と続くツリー状の尋問・同定か
ら自らを解放し、誰でもない者として、或いは単に自分自身で
あるものとして生き、語り、運動することを目指すのがクィア
政治なのです。それは脱アイデンティティの政治とも、脱政治
のアイデンティティとも言えます。脱アイデンティティの政治
という意味は、もはやわれわれが属性ではなく課題で動く根本
的に差異を孕んだ絶対的に多数多様な存在だという意味であり
、脱政治のアイデンティティというのは、力関係においてヘゲ
モニーを握ろうとするタイプの「政治」とは縁を切る(が、ニ
ーチェらが予告していたような「偉大な政治」=意味の生産を
創始する?)ということを意味します。

●集団的主観性と倫理の問い
われわれは「アイデンティティ」ということばよりも、むしろ
「集団的主観性」(フェリックス・ガタリ)という言葉を採用
したいと思います。それは同一性ではなく、差異と生成へと送
り返される概念ですし、始原にある原因ではなくむしろ結果(
効果)として生産されるもの=「意味」です。

ガタリ流にいえば、知でも権力でもなく、「自己」の声を聴く
ところから集団的主観性の創出は始まる、といえそうです。つ
まり、誰か他者をロールモデルにしてそれを模倣するのではな
く、端的に自己自身を(のみ)参照するところから。ここには
、プラトニズム(範型/コピー/シミュラークル)を巡る問いが
潜んでいそうです。

そうした概念上の組み換えから、倫理の意味も異なってきます
。先ず、ガタリと親交のあった科学哲学者イザベル・スタンジ
ェールの発言を聞いてみましょう。

「ガタリがわれわれに語っていたのは、西洋では新しいもので
はないかと私には思える。それは存在論的な責任というテーマ
であるが、これはけっして他者と向き合う個人状の主体が持つ
べき責任ではない。そうではなくて、われわれ自身の行為に対
する、われわれ自身の実践に対する、われわれ自身の進み方に
対する、われわれ自身がどのようなものになるかということに
対する、われわれ自身の責任なのである。ガタリと私が言う意
味の存在論的な責任は、個人の自由の周りに位置づけられるも
のではなく、また人間の権利を持つ主体、自分で決定する主体
に関わるのでもなく、われわれの選択によって何ごとが生じて
くるかということに関するものなのである。」

美術理論家ダグラス・クリンプの語る以下の発言にも耳を傾け
てみましょう。(高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』による。)

「……逆に「責任」という名にふさわしい唯一のものは、諸々
の基盤を取り払ったところ、われわれが決定を下す時に頼る規
則や知識を取り下げるところにこそ現れる。基盤がないという
ことは、存在証明(アリバイ)がないということで、われわれ
の決定事項のための参照の拠り所がないということである。今
まで「責任」とは、常に静養の倫理的、政治的、文学的伝統の
中で、「なされること」を「知っていること」によって分節化
する形で思考されて来た。だが、それに対してわれわれは、「
責任」を認識と行動の秩序の非対称、あるいは切断において再
定義しようではないか。むしろ何をするべきか分からない時、
われわれの行動の効果と条件がもはや計算不能な時、そしても
はや「自分」というものも含めどこにも頼る所がない時、われ
われは初めて「責任」というものに出会うのである。」

高祖は続けて次のように述べています。

「まさにこれこそAIDS危機の頂点において「闘う情動」が直面
した状況であった。だからこそクリンプは、「真の責任は、む
しろ性行為(セックス)の方向感覚を喪失した高揚においての
み経験しえるのである」と言い切り、また「私は、このような
真の責任をクイアーと呼ぼう」と主張するのである。」

倫理という言葉を、共同体内的な道徳規範(習俗)としてでも
、超越的で形式的な法(例えば、カントの定言命法)としてで
もなく、いわば襞として理解すること。「死の経験」(ドゥル
ーズ=ガタリ)の真っ只中で、新たな主観性を生産し続ける営
みとして理解すること。「…である」式の言表から「…になる
」式の言表に移行すること。端的にいえば、生/性を絶え間な
い創造と発明の場として把握することが求められているのだと
思います。

●もう少し掘り下げて考えてみる
本質主義/構成主義の対立は、私の考えでは、生物学的決定論
と社会学的決定論の対立に過ぎません。倫理ないし政治は全く
別の平面にあるし、嗜好ないし美意識やら欲望の問題はまた別
の平面にあります。倫理や美といったものは科学に還元できな
いのです。

ここで、本質概念の歴史を哲学的に振り返ってみましょう。「
同性愛的である」という形相があるのかどうかは分かりません
が、ともかく、アリストテレスにおいて本質とは、事物の在り
方をあらかじめ決定するような概念(形相因)だったと考えら
れます。それは永遠不変なものだとされます。

それに対し、ロックは実在的本質と唯名的本質を区別しました
。前者は自然の実在的構造であり、後者は人間が言葉で慣習的
に区別するところのものです。

ダーウィンの進化論とともに決定的な切断がもたらされます。
もはや種は永遠不変の形相ではなく、変化するものなのです。Wikipedia
で確認してみましょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

ロックにおいて未知であった実在的本質は、ダーウィン以降、
さらには分子生物学以降、遺伝子(の微細な変異)として理解
されることができるようになります。同性愛の問題に引き付け
て言えば、遺伝子や脳など何らかの生物的・身体的要因が同性
愛という性行動を惹き起こすのか否か、ということが議論の焦
点になります。が、これについていえば、現在のところ最も正
確な答えは、「科学はそこまで解明していない」でしょう。人
間の性は複雑な事象であり、単なる生物学的な要素によって説
明され尽くすものとは思えません。が、生物学的基盤が無であ
るかといえばそうではないでしょう。個々の個体が無限に微細
に変異した身体を持っているということ、これが基本的なこと
です。

次に社会構成主義を見てみましょう。これはロック流の区別で
言えば、唯名的本質に関わるものでしょうが、単に恣意的に構
成されるのではなく、一定の権力諸関係、言説と行為(非言説
)のダイナミズムの只中で或る意味必然的に構成されるカテゴ
リーであると言えるでしょう。イアン・ハッキングの『何が社
会的に構成されるのか』(岩波書店)は社会構成主義の認識論
的基盤を批判的に吟味した本ですが、ジュディス・バトラーの
言うようなパフォーマンスによってジェンダーのみならずセク
シュアリティも構成されるのだという考えに対しては、いろい
ろな議論があります。

http://en.wikipedia.org/wiki/Judith_Butler

『身体こそが問題だ』の中でバトラーは次のように主張してい
ます。

「Performativity cannot be understood outside of a process
of iterability, a regularized and constrained repetition
of norms. And this repetition is not performed by a
subject; this repetition is what enables a subject and
constitutes the temporal condition for the subject. This
iterability implies that 'performance' is not a singular
'act' or event, but a ritualized production, a ritual
reiterated under and through constraint, under and through
the force of prohibition and taboo, with the threat of
ostracism and even death controlling and compelling the
shape of the production, but not, I will insist,
determining it fully in advance.


要するに単発の行為(一度だけ好奇心で同性と寝てみたとか、
一回異性装をやってみたとか)ではパフォーマティヴィティと
いうのには不十分だということです。行為は反復されなければ
ならず、その反復そのものが主体を構築するのだ、と言われま
す。問題は「習慣」というイギリス経験論及びアメリカのプラ
グマティズムが論じてきた問題に送り返されます。生命/記憶/
死というドゥルーズのいう3つの反復とも関わってくるでしょ
う。

われわれは皆、極めて複雑な複数の原因に規定されて、これこ
れの存在として構成され、そして事後的にそのことを「選択」
していると言えます。選択というレベルでは、サルトル流の実
存主義──「実存は本質に先立つ」──が問題にされます。人
間の自由は、無を基盤にしているわけではないにせよ(サルト
ル自身がどう考えたかはさて措き、現実問題として)様々な生
物的要因・社会的要因によって「基づけ」られていることは確
実でしょう。しかし、「基づけ」られているからといって、自
由が想像物なり欺瞞であるわけではありません。われわれが自
分で自分のことを「クィア」と名乗る時、われわれは単に自由
なのであり、自分の責任において語っているのです。構造/自
由という対から再びこの問題を語り直せば、もろもろのレベル
での構造的因果性(生物的、言語的、社会的、歴史的…)によ
って規定されていることは疑いないとしても、ドゥルーズが「
襞」と呼ぶ微妙なレベルでわれわれの自由の領域があることも
また疑えないということです。ガタリなら「機械状自由」と呼
んだことでしょう。何ものにも条件づけられない、白紙の状態
からの自由が問題なのではなく、もろもろの紋切り型やステレ
オタイプで満たされたキャンバスを切り裂くような壊乱的且つ
創造的な営みとしての自由が問題なのです。

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転送・転載歓迎

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 まるごと☆リンダちゃん #36
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■ご挨拶

こんにちは。リンダです。前回#34と書いたのは#35の間違いで
した。訂正してお詫びします。今日は性を考えるシリーズの二
回目です。

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■生/性を問い直す〜異性愛者の眼差しから

『未完結の問い』(大西巨人 聞き手・鎌田哲哉、作品社)p179
以下に以下の議論がある。

===
──ただ、一つ疑問もあるんです。倉数茂さんも「ヤコブの末
裔」〔『早稲田文学』二〇〇二年五月号〕で指摘していますが
、それは同性愛の問題(註)です。大西さんは、同性愛の行為
やその芸術上の表現について、法律上の権利を完全に保障すべ
きであることを再三確認している。ただその上で、社会的な水
準ではやはり反自然的であり、人間社会の発展にとって推奨さ
れるに値しない、とも書かれていて、そこでは先に言った相互
性の原則がない、異性愛と同性愛が対等に扱われていないよう
に感じます。これは今日の社会的な了解と比べてやはり時代的
な制約があった、ということでしょうか。

大西──いや、そうは思わんね。これは詳しく言わないと誤解
を招くけれど、人間の性行為というものは、どうして考えてみ
ても、やはり種族保全と快楽と、両面がある。それが一方で言
えば、人間が一般動物よりも上位のものであるということだろ
うし、他方で言うと、恨めしいものであると思うが、同性愛は
、種族保全の意味から言って、ゼロなんだな。だから推奨すべ
きものではないと思う。しかし、これを法的に差別することも
また反対であると、あの時書いたし、今でもそう思っている。
今の世の中で、同性愛にはいろいろ功罪があるというようなこ
とを言うと、いい加減な馬鹿者が、同性愛を差別していると思
いかねないが、そういうことではないんですよ。偏見はないけ
れど、今言ったような二つの面があるから、決して世に推奨す
るべきものではない。それは今も思っている。

註・同性愛の問題…「同性愛および『批評文学』の問題」にお
いて大西は、「同性愛に関する学問的研究ないし芸術表現の自
由は確保せられるべきであり、その自由に対する性的・検閲的
禁圧が不正不当であることは原則的に公認せられなければなら
ない」と確認しつつ、「同性愛は、社会的・政治的には、まさ
しく反自然的・反倫理的な現象なのである」という判断を下し
ている。
===

私は大西巨人の良い読者ではない。のみならず、文学一般に関
してもやはり良い読者ではない。が、若い頃、船橋の古本屋で
大西巨人のエッセイ集を手に取った際、大江健三郎の「性的」
小説を批判する文脈で同性愛否定的な言辞があるのを見て激昂
し、当然購入はせずに店を出た記憶がある。

上のような大西の立場に異を唱えると、「いい加減な馬鹿者」
と言われるのかもしれないが、大西の作品が文学としていかに
高い評価を得ていようと、上のような言説は単に差別的なイデ
オロギーとして退けられるべきだとしか思えない。「決して世
に推奨するべきものではない」と言い続けながら、「偏見はな
い」と言っても説得力はない。同性愛は「反自然的・反倫理的
」であるというのは最もありふれた同性愛反対論である。それ
は今もなお、同性愛者を含めた性的少数者、クィア達と苦しめ
縛りつけている言説なのだ。自然及び社会に対して壊乱的であ
るから、という理由での同性愛排斥に対しては、それがどんな
権威者の発言であれ、断固反対せねばならない。

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2007/03/07 まるごと☆リンダちゃん #37

転送・転載歓迎

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 まるごと☆リンダちゃん #37
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■ご挨拶

こんにちは。リンダです。今回は緊急行動要請を送ります。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急行動要請:イランで33人の女性人権活動家が逮捕

イランで女性の権利活動家(32人とも33人とも)が、平和的な
集会の最中に逮捕されました。急ぎ、釈放を求める緊急要請に
署名をお願いします。

ここからオンライン署名ができます。

http://www.meydaan.com/English/petition.aspx?cid=52&pid=11

以下、まめたさんによる抗議文の翻訳。

賛同の署名をした私達は、「最近のイランで起きている、女性
人権活動家の拘束につぐ拘束」に憂慮していることを貴方に強
く訴えたいと思い、これを書いています。

2007年3月4日、テヘランのイスラム革命裁判所の前で平和的に
開かれていた集会において、女性の人権活動家たち38名が逮捕
されたという報道に、私たちは驚愕しています。驚愕どころか
、国家治安警察官たちが彼女達に不必要にも暴力をはたらき、
そのうち数名に怪我を負わせたことに対して心を痛めています


イラン憲法の27条には「公な集会や行進は、武器が持ち出され
ない限り、あるいはイスラムの基本的な教えに反していない限
りにおいて自由に行ってよい」と書かれています。そして今回
の彼女達は平和的な集会を行い、企画者の5人の女性と共に連
帯感を深めていたのです。

私達は今回逮捕された全ての人たちの身の安全を、貴方が保障
することを、ただちに彼女達を解放することを含めて求めます


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■映画『Nanking』へのネガティブ・キャンペーンおよび南京
事件否定論に反対する日本のネットワーカーの共同声明

声明への賛同をよろしく頼む。

http://homepage.mac.com/biogon_21/www/jnt_statement_jpn.html

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