転送・転載歓迎
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まるごと☆リンダちゃん #34
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■ご挨拶
こんにちは。リンダです。今日は音楽の話や哲学の話をしてみ
ますね。
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■ジャズ入門・その1
ジャズという音楽は難しいというイメージを持たれているよう
ですね。実際、難しい面もあるのですが、単に楽しく聴けると
いう側面も勿論あります。ここでは、これからジャズを聴いて
みようという人に何ならお勧めできるかというお話をしたいと
思います。
☆ソニー・ロリンズ『サキソフォン・コロッサス』
ジャズにおけるキリスト?みたいな存在は、言うまでもなくチ
ャーリー・パーカーですが、彼の音楽を一回聴いただけでその
素晴らしさが分かるということはないように思います。その点
、ロリンズのこのアルバムは誰にでも安心してお勧めできます
。それは大衆的?ということでは全くなく、全てが奇蹟的にバ
ランスが取れているのです。
☆アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ『モーニン
』
言わずと知れた、彼らの来日時に蕎麦屋が屋台でこのメロディ
ーを吹いていたという伝説?があるファンキーの名盤ですね。
僕はこの演奏は彼らの最高のパフォーマンスの一つではないか
、と思っています。ホーン陣も素晴らしいが、ブレイキーのド
ラミングも、そしてボビー・ティモンズのピアノも全てが最高
です。
☆ルイ・アームストロング『プレイズ・W.C.ハンディ』
ハンディはアメリカのブルースの父とも言われる作曲家ですが
、この演奏を聴いて涙したと伝えられています。そのくらいこ
こでの「セント・ルイス・ブルース」は素晴らしいです。ジャ
ズというのもの粋を表現した演奏といってもいいでしょう。
ジャズに関しては高橋悠治の辛辣な批判(当たっていないこと
もない)がありますが、僕は基本的にジャズが好きだし、ジャ
ズをやっていきたいと思っています。多くの人にもっと気軽に
ジャズを楽しんでもらいたいです。そのための一助となればと
思い、名盤案内みたいなことをしてみました。
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■哲学入門・その1
これから哲学書を初めて読もうという人に何を勧めればいいの
か、というのは結構難しい問題です。が、僕ならデカルトの『
方法序説』(岩波文庫)から読むことを勧めます。近代哲学の
始まりを告げる書物であるのみならず、ものを考えようという
人なら一度は読んでおいて損はない名著だからです。
古代哲学、例えばプラトンなどは、はっきり言って接近するの
が難しいと思います。フーコー流にいえば、現代に生きるわれ
われとは「エピステーメー」が違うのです。プラトンの対話篇
の意味を(通俗プラトニズム風にでなく)理解することは大変
だと思います。が、デカルトの『方法序説』は、少なくとも誰
にでも読める(という可能性を開いている)のです。
カント以降のドイツ哲学は、基本的に原語(ドイツ語)ができ
ないと分からないという側面があるのではないか、と思います
。(僕もドイツ語はさっぱりです。)ジジェクによれば、ヘー
ゲルの『大論理学』では重要な移行の際に駄洒落や言葉遊びが
行われているということですが、それは原語が分からない日本
人にはなかなか理解できないところでしょう。
近代哲学は、デカルトの『方法序説』によって開かれ、ニーチ
ェの『この人を見よ』によって閉じられます。それらが小説的
?な外観を持っていることは偶然ではないでしょう。近代哲学
とは生そのものがまるごと哲学され、「問題化」される一つの
過程だともいえそうです。デカルトの懐疑、ニーチェの受苦な
り歓びこそ哲学的な感情というべきでしょう。デカルトは「学
」の可能性を開き、ニーチェはそれを焼尽した、とも言えそう
です。厳密に根拠づけられた、真理を目指す精神の運動として
の学、という理念は、永遠回帰の狂気的?な体験に置き換えら
れます。すべからく哲学には、それが本物の哲学であれば、「
狂人への生成」が含まれているものです。デカルトであれば『
省察』、ヒュームの『人性論』、スピノザの『エティカ』、カ
ントの『純粋理性批判』、ヘーゲルの初期論考や『精神現象学
』、ニーチェの『この人を見よ』などは過剰な思考が過剰に意
味を生産している工場であるともいえるでしょう。
分析哲学なり現象学は、過剰に生産される意味(=形而上学)
を批判し、「オッカムの剃刀」で過剰な存在者を剃り落とそう
という試みでしょうが、それは哲学の身を細らせることにしか
ならないのではないか、と僕は思います。カント風にいえば理
念を思考することは理性にとて越権行為なのですが、しかし人
間はその越権行為を犯さざるを得ない問題的な存在者だという
ことがいえそうです。例えば神という概念にせよ、今なお時代
遅れではないわけです。今生と盛んに呼ばれているものは、か
つてならば神といわれていたもの、特にスピノザの神即自然に
近い概念だと思います。超越的な神への信仰は放棄するとして
も、われわれの内在的な生それ自体をどう捉え、どう倫理的に
生きるかという問いが残っています。われわれが生ある存在で
ある限り、哲学という営みは終わらないといっていいでしょう
。
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■今日のお言葉
生きること、それは自己の享受なのである。たとえば、強制収
容所で、理不尽な命令と乏しい栄養によって痛めつけられ、い
つやってきても不思議ではない死の影に脅かされながらも、一
日の強制労働が終わると疲れ果てて眠りに落ちてしまうような
とき、生は外部を知らず、ただ自分自身だけを享受している。
快楽 pleasureは、外界の対象との関わりのなかで感じ取られ
るものであり、触覚の存在と切り離せない動物的な生に属する
。それに対して享受 enjoymentは、動物的生よりも深いところ
で、栄養的生によって生きられるものなのである。生き物は、
みな、自己を享受している。自分自身を生きている。そこには
、外部はないし、したがって他者もいない。生きるということ
はナルシシスティックなのだ。そこが「自己」と「自我」の違
いである。
(田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ』岩波書店、p15
)
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まるごと☆リンダちゃん #35
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■ご挨拶
こんにちは。リンダです。今回は、性について哲学的に考えて
みました。
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■生/性を問い直す〜本質主義/構成主義論争に触れて
ジェンダー/セクシュアリティについて考えたり、運動に参加
している人なら誰でも、本質主義と構成主義の対立について聞
いたことがあるでしょう。簡単にいえば、本質主義とはわれわ
れには不可知の原因(時にそれは生物学的なものと想定された
りもする)によって、同性愛/異性愛が決定されているという
立場です。それに対し、構成主義とは一定の社会的・歴史的環
境において「同性愛」なら同性愛が構成されてきた(言説的実
践や非言説的実践を通じて)という説です。
構成主義は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの『性の歴
史』(特にその第一巻『知への意志』)によって初めて提起さ
れたと言われます。が、問題はそう簡単ではありません。
われわれが「ゲイ・アイデンティティ」と呼ぶ何か或るものが
あり、「クィア」はそれに対する脱構築的批評として提起され
たものです。が、このあたりにある問題性を丁寧に見ていかね
ばなりません。
●そもそも「アイデンティティ」とは何か
そもそも「アイデンティティ」というカナ書きの言葉は何を意
味するのでしょうか。インターネット百科事典であるWikipedia
には以下の記述が見られます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3
・同一性
・心理学でいう自己同一性。
・共同体(地域・組織・集団など)への帰属意識。例として、
コーポレートアイデンティティ、アイデンティティ政治など。
英語圏のWikipediaでの記述は以下のようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Identity
Gender identity is the gender with which a person
identifies (or is identified by others).
とありますね。つまり、われわれが自分のことを男だと思った
り女だと思ったり、或いは男でも女でもないと思ったり、また
は同性愛者であるとか異性愛者であるとかバイセクシュアルで
あるなどと思う時、アイデンティティの問いが出てくると言っ
てもよさそうです。
●そして、「ゲイ・アイデンティティ」とは?
では、以上のことを踏まえた上で、「ゲイ・アイデンティティ
」とは何なのでしょうか。
先ず、他者(異性愛者)からのラベリングなり想像なりによっ
てではなく、当事者(同性愛者)が自らの経験から自己をそれ
として知り、自己の在り様を肯定し主張していくその闘争的な
仕方がそうなのだ、と言えそうです。これまで異常・病気・犯
罪などとして貶められ、差別され否定されてきた存在としての
自らが肯定的な声を挙げることで、政治的に闘争していくその
中で生み出され獲得される言葉と観念が「ゲイ・アイデンティ
ティ」だと言ってもよいでしょう。
●では、その「ゲイ・アイデンティティ」が何故問題なのか?
ところが、その「ゲイ・アイデンティティ」はわれわれの旅の
終着駅ではありません。生/性を巡る冒険はまだ続くのです。
今度は、主体的に構成された「ゲイ・アイデンティティ」に対
し脱構築的或いは壊乱的に作用する別個のカテゴリー、「クィ
ア」が問題になります。
再びWikipedia(英語)を見てみましょう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Queer
In contemporary usage, some use queer as an inclusive,
unifying sociopolitical umbrella term for people who are
gay, lesbian, bisexual, transgender, transsexual,
intersex, genderqueer, or of any other atypical sexuality,
sexual anatomy, or gender identity. It can also include
asexual and autosexual people, as well as gender normative
heterosexuals whose sexual/pleasure preferences or
activities place them outside the mainstream (e.g. BDSM
practitioners, or polyamorous persons). Queer in this
sense (depending on how broadly it is defined) is commonly
used as a synonym for such terms as LGBT or 'lesbigay'.
「ゲイ・アイデンティティ」が批判され、代わって「クィア」
というより闘争的で論争的なカテゴリーが登場してきた背景に
ついて、もう少し考察してみましょう。
⇒経験的理由。性的少数者の経験は、レズビアン/ゲイの経験
と同一視されません。狭義の「同性愛者」ではない多数多様な
マイノリティがわれわれのコミュニティにはいるのであって、
そうした人達を疎外しない呼称なりカテゴリーが求められます
。
⇒哲学的理由。アイデンティティという語はどうしても「同一
性」を意味してしまいます。しかし、同一性ではなく「生成」
から性を考え直すとどうなるでしょうか。ドゥルーズ=ガタリ
において「生成」には、マイナーなものへの生成しかありませ
ん。メジャーなものへの生成はないのです。それは彼らの論理
というよりも倫理です。女への生成はあっても男への生成はな
く、性別横断的な越境はあっても異性愛男性である自己同一性
の確認はないのです。
もう少し掘り下げてみましょう。最近、TOKYO Prideがパレー
ドの名称を「東京レズビアン&ゲイパレード」から「東京プラ
イドパレード」に変更しました。
http://www.tokyo-pride.org/
彼・彼女らの言うところに耳を傾けてみましょう。
「【名称変更の理由】
東京プライド理事会は、パレードがさまざまなセクシュアリテ
ィの人によって担われている事実をふまえ、「ゲイ」「レズビ
アン」にとどまらず、パレードがすべてのセクシュアリティに
開かれ、すべてのセクシュアリティを祝福するものであること
を、名称においても表明したいと思います。
プライドという言葉は、性的少数者の運動において世界中で用
いられている言葉の一つであり、欧米では、一般的に、プライ
ドパレードという言葉がそのまま性的少数者のパレードを指し
て使われています(昨年、海外から寄せられたメッセージにも
、私たちのパレードを指して、プライドフェスティバル、プラ
イドマーチ、プライドセレモニーなどの表現が使われています
。TLGP2006公式ガイドブック参照)。
東京プライドの団体名称もそれに依ったものであり、その実施
するパレードも、このたびそれに倣(なら)うことにした次第
です。」
ひびのまことさんの批評を聞いてみましょう。
http://barairo.net/
「もちろん名前だけ変えても実態が変わらなければあまり意味
がありません。また、名前を変えただけで同性愛者以外の性的
少数者が対等に扱われるように直ちになる訳ではありません。
しかし「『私たち』が何かをする時には『レズビアン&ゲイ』
という看板ではもう動くことが出来ないのだ」ということを、
明確かつ公式に確認したということは、まずは必要な第一歩だ
と思います。東京プライドやこれまでの過程に不充分な点があ
ったとしても、まずは名称の改善を素直に喜びたいと思います
。」
要するに、われわれの経験自体が後戻りできないかたちで変容
したということ、これが決定的です。論理的ないし哲学的には
、ひびのまことさんがかねてから主張しているように、われわ
れが政治的に運動を創るさい、「属性別」ではなく「課題別」
で動くべきことを意味します。貴方は男か女か、男でも女でも
ないとしたらゲイなのか…等々と続くツリー状の尋問・同定か
ら自らを解放し、誰でもない者として、或いは単に自分自身で
あるものとして生き、語り、運動することを目指すのがクィア
政治なのです。それは脱アイデンティティの政治とも、脱政治
のアイデンティティとも言えます。脱アイデンティティの政治
という意味は、もはやわれわれが属性ではなく課題で動く根本
的に差異を孕んだ絶対的に多数多様な存在だという意味であり
、脱政治のアイデンティティというのは、力関係においてヘゲ
モニーを握ろうとするタイプの「政治」とは縁を切る(が、ニ
ーチェらが予告していたような「偉大な政治」=意味の生産を
創始する?)ということを意味します。
●集団的主観性と倫理の問い
われわれは「アイデンティティ」ということばよりも、むしろ
「集団的主観性」(フェリックス・ガタリ)という言葉を採用
したいと思います。それは同一性ではなく、差異と生成へと送
り返される概念ですし、始原にある原因ではなくむしろ結果(
効果)として生産されるもの=「意味」です。
ガタリ流にいえば、知でも権力でもなく、「自己」の声を聴く
ところから集団的主観性の創出は始まる、といえそうです。つ
まり、誰か他者をロールモデルにしてそれを模倣するのではな
く、端的に自己自身を(のみ)参照するところから。ここには
、プラトニズム(範型/コピー/シミュラークル)を巡る問いが
潜んでいそうです。
そうした概念上の組み換えから、倫理の意味も異なってきます
。先ず、ガタリと親交のあった科学哲学者イザベル・スタンジ
ェールの発言を聞いてみましょう。
「ガタリがわれわれに語っていたのは、西洋では新しいもので
はないかと私には思える。それは存在論的な責任というテーマ
であるが、これはけっして他者と向き合う個人状の主体が持つ
べき責任ではない。そうではなくて、われわれ自身の行為に対
する、われわれ自身の実践に対する、われわれ自身の進み方に
対する、われわれ自身がどのようなものになるかということに
対する、われわれ自身の責任なのである。ガタリと私が言う意
味の存在論的な責任は、個人の自由の周りに位置づけられるも
のではなく、また人間の権利を持つ主体、自分で決定する主体
に関わるのでもなく、われわれの選択によって何ごとが生じて
くるかということに関するものなのである。」
美術理論家ダグラス・クリンプの語る以下の発言にも耳を傾け
てみましょう。(高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』による。)
「……逆に「責任」という名にふさわしい唯一のものは、諸々
の基盤を取り払ったところ、われわれが決定を下す時に頼る規
則や知識を取り下げるところにこそ現れる。基盤がないという
ことは、存在証明(アリバイ)がないということで、われわれ
の決定事項のための参照の拠り所がないということである。今
まで「責任」とは、常に静養の倫理的、政治的、文学的伝統の
中で、「なされること」を「知っていること」によって分節化
する形で思考されて来た。だが、それに対してわれわれは、「
責任」を認識と行動の秩序の非対称、あるいは切断において再
定義しようではないか。むしろ何をするべきか分からない時、
われわれの行動の効果と条件がもはや計算不能な時、そしても
はや「自分」というものも含めどこにも頼る所がない時、われ
われは初めて「責任」というものに出会うのである。」
高祖は続けて次のように述べています。
「まさにこれこそAIDS危機の頂点において「闘う情動」が直面
した状況であった。だからこそクリンプは、「真の責任は、む
しろ性行為(セックス)の方向感覚を喪失した高揚においての
み経験しえるのである」と言い切り、また「私は、このような
真の責任をクイアーと呼ぼう」と主張するのである。」
倫理という言葉を、共同体内的な道徳規範(習俗)としてでも
、超越的で形式的な法(例えば、カントの定言命法)としてで
もなく、いわば襞として理解すること。「死の経験」(ドゥル
ーズ=ガタリ)の真っ只中で、新たな主観性を生産し続ける営
みとして理解すること。「…である」式の言表から「…になる
」式の言表に移行すること。端的にいえば、生/性を絶え間な
い創造と発明の場として把握することが求められているのだと
思います。
●もう少し掘り下げて考えてみる
本質主義/構成主義の対立は、私の考えでは、生物学的決定論
と社会学的決定論の対立に過ぎません。倫理ないし政治は全く
別の平面にあるし、嗜好ないし美意識やら欲望の問題はまた別
の平面にあります。倫理や美といったものは科学に還元できな
いのです。
ここで、本質概念の歴史を哲学的に振り返ってみましょう。「
同性愛的である」という形相があるのかどうかは分かりません
が、ともかく、アリストテレスにおいて本質とは、事物の在り
方をあらかじめ決定するような概念(形相因)だったと考えら
れます。それは永遠不変なものだとされます。
それに対し、ロックは実在的本質と唯名的本質を区別しました
。前者は自然の実在的構造であり、後者は人間が言葉で慣習的
に区別するところのものです。
ダーウィンの進化論とともに決定的な切断がもたらされます。
もはや種は永遠不変の形相ではなく、変化するものなのです。Wikipedia
で確認してみましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
ロックにおいて未知であった実在的本質は、ダーウィン以降、
さらには分子生物学以降、遺伝子(の微細な変異)として理解
されることができるようになります。同性愛の問題に引き付け
て言えば、遺伝子や脳など何らかの生物的・身体的要因が同性
愛という性行動を惹き起こすのか否か、ということが議論の焦
点になります。が、これについていえば、現在のところ最も正
確な答えは、「科学はそこまで解明していない」でしょう。人
間の性は複雑な事象であり、単なる生物学的な要素によって説
明され尽くすものとは思えません。が、生物学的基盤が無であ
るかといえばそうではないでしょう。個々の個体が無限に微細
に変異した身体を持っているということ、これが基本的なこと
です。
次に社会構成主義を見てみましょう。これはロック流の区別で
言えば、唯名的本質に関わるものでしょうが、単に恣意的に構
成されるのではなく、一定の権力諸関係、言説と行為(非言説
)のダイナミズムの只中で或る意味必然的に構成されるカテゴ
リーであると言えるでしょう。イアン・ハッキングの『何が社
会的に構成されるのか』(岩波書店)は社会構成主義の認識論
的基盤を批判的に吟味した本ですが、ジュディス・バトラーの
言うようなパフォーマンスによってジェンダーのみならずセク
シュアリティも構成されるのだという考えに対しては、いろい
ろな議論があります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Judith_Butler
『身体こそが問題だ』の中でバトラーは次のように主張してい
ます。
「Performativity cannot be understood outside of a process
of iterability, a regularized and constrained repetition
of norms. And this repetition is not performed by a
subject; this repetition is what enables a subject and
constitutes the temporal condition for the subject. This
iterability implies that 'performance' is not a singular
'act' or event, but a ritualized production, a ritual
reiterated under and through constraint, under and through
the force of prohibition and taboo, with the threat of
ostracism and even death controlling and compelling the
shape of the production, but not, I will insist,
determining it fully in advance.
」
要するに単発の行為(一度だけ好奇心で同性と寝てみたとか、
一回異性装をやってみたとか)ではパフォーマティヴィティと
いうのには不十分だということです。行為は反復されなければ
ならず、その反復そのものが主体を構築するのだ、と言われま
す。問題は「習慣」というイギリス経験論及びアメリカのプラ
グマティズムが論じてきた問題に送り返されます。生命/記憶/
死というドゥルーズのいう3つの反復とも関わってくるでしょ
う。
われわれは皆、極めて複雑な複数の原因に規定されて、これこ
れの存在として構成され、そして事後的にそのことを「選択」
していると言えます。選択というレベルでは、サルトル流の実
存主義──「実存は本質に先立つ」──が問題にされます。人
間の自由は、無を基盤にしているわけではないにせよ(サルト
ル自身がどう考えたかはさて措き、現実問題として)様々な生
物的要因・社会的要因によって「基づけ」られていることは確
実でしょう。しかし、「基づけ」られているからといって、自
由が想像物なり欺瞞であるわけではありません。われわれが自
分で自分のことを「クィア」と名乗る時、われわれは単に自由
なのであり、自分の責任において語っているのです。構造/自
由という対から再びこの問題を語り直せば、もろもろのレベル
での構造的因果性(生物的、言語的、社会的、歴史的…)によ
って規定されていることは疑いないとしても、ドゥルーズが「
襞」と呼ぶ微妙なレベルでわれわれの自由の領域があることも
また疑えないということです。ガタリなら「機械状自由」と呼
んだことでしょう。何ものにも条件づけられない、白紙の状態
からの自由が問題なのではなく、もろもろの紋切り型やステレ
オタイプで満たされたキャンバスを切り裂くような壊乱的且つ
創造的な営みとしての自由が問題なのです。
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まるごと☆リンダちゃん #36
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■ご挨拶
こんにちは。リンダです。前回#34と書いたのは#35の間違いで
した。訂正してお詫びします。今日は性を考えるシリーズの二
回目です。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■生/性を問い直す〜異性愛者の眼差しから
『未完結の問い』(大西巨人 聞き手・鎌田哲哉、作品社)p179
以下に以下の議論がある。
===
──ただ、一つ疑問もあるんです。倉数茂さんも「ヤコブの末
裔」〔『早稲田文学』二〇〇二年五月号〕で指摘していますが
、それは同性愛の問題(註)です。大西さんは、同性愛の行為
やその芸術上の表現について、法律上の権利を完全に保障すべ
きであることを再三確認している。ただその上で、社会的な水
準ではやはり反自然的であり、人間社会の発展にとって推奨さ
れるに値しない、とも書かれていて、そこでは先に言った相互
性の原則がない、異性愛と同性愛が対等に扱われていないよう
に感じます。これは今日の社会的な了解と比べてやはり時代的
な制約があった、ということでしょうか。
大西──いや、そうは思わんね。これは詳しく言わないと誤解
を招くけれど、人間の性行為というものは、どうして考えてみ
ても、やはり種族保全と快楽と、両面がある。それが一方で言
えば、人間が一般動物よりも上位のものであるということだろ
うし、他方で言うと、恨めしいものであると思うが、同性愛は
、種族保全の意味から言って、ゼロなんだな。だから推奨すべ
きものではないと思う。しかし、これを法的に差別することも
また反対であると、あの時書いたし、今でもそう思っている。
今の世の中で、同性愛にはいろいろ功罪があるというようなこ
とを言うと、いい加減な馬鹿者が、同性愛を差別していると思
いかねないが、そういうことではないんですよ。偏見はないけ
れど、今言ったような二つの面があるから、決して世に推奨す
るべきものではない。それは今も思っている。
註・同性愛の問題…「同性愛および『批評文学』の問題」にお
いて大西は、「同性愛に関する学問的研究ないし芸術表現の自
由は確保せられるべきであり、その自由に対する性的・検閲的
禁圧が不正不当であることは原則的に公認せられなければなら
ない」と確認しつつ、「同性愛は、社会的・政治的には、まさ
しく反自然的・反倫理的な現象なのである」という判断を下し
ている。
===
私は大西巨人の良い読者ではない。のみならず、文学一般に関
してもやはり良い読者ではない。が、若い頃、船橋の古本屋で
大西巨人のエッセイ集を手に取った際、大江健三郎の「性的」
小説を批判する文脈で同性愛否定的な言辞があるのを見て激昂
し、当然購入はせずに店を出た記憶がある。
上のような大西の立場に異を唱えると、「いい加減な馬鹿者」
と言われるのかもしれないが、大西の作品が文学としていかに
高い評価を得ていようと、上のような言説は単に差別的なイデ
オロギーとして退けられるべきだとしか思えない。「決して世
に推奨するべきものではない」と言い続けながら、「偏見はな
い」と言っても説得力はない。同性愛は「反自然的・反倫理的
」であるというのは最もありふれた同性愛反対論である。それ
は今もなお、同性愛者を含めた性的少数者、クィア達と苦しめ
縛りつけている言説なのだ。自然及び社会に対して壊乱的であ
るから、という理由での同性愛排斥に対しては、それがどんな
権威者の発言であれ、断固反対せねばならない。
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