転送・転載歓迎
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
まるごと☆リンダちゃん #41
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ご挨拶
おかまもやるメルマガ。絶賛発行中!!!!
友達500人できるかな?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■年金ではなく、ベーシック・インカム(基本所得)を!
社会保険庁の問題が取り沙汰され、連日マスメディアを賑わ
している。実際、払ったはずの年金記録が消失し、しかも立証
責任を国民の側に負わせる役人のやり口が、多くの市民の憤り
を招いたことは当然のことだ。が、われわれはここで、福祉な
り社会保障に関して自明の前提になっているモデルを批判的に
捉え返す必要がある。
その自明のモデルとは、保険なり年金というシステムである
。つまり、事前にリスクに関して当事者が負担金を納付し、後
にそれに応じて給付を受けるという仕組みがそれだ。生活保護
は別だが、障害年金や老齢年金、医療保険等は全てこの仕組み
である。このような仕組みは、20世紀に完成をみた福祉国家の
理想的形態といってもいい。
が、それは、もろもろの限界を露呈している。先ず、大きな
政府を前提する福祉国家は財政的にもはや成り立たない、との
右派(ネオリベ)からの批判がある。この場合、個々人は「自
己責任」を負わされ、不安定な市場にただ投げ出される。例え
ばアメリカ社会などを見れば一目瞭然だが、金持ちの守られる
べき命と、貧者の棄てられるべき命が差別化されるのは全面的
な市場化の必然的な帰結である、といえる。批判は右派からだ
けではない。ラディカルな左派からの批判もあり得る。それこ
そここで主題にしようとしているベーシック・インカム(基本
所得)だ。
ベーシック・インカムを主張する論者は、福祉国家体制が不
可避的に採用する「選別の政治」を批判する。福祉国家は、保
護されるべき者らを特定する際、彼・彼女らをスティグマ化し
、差別に晒す。また、憲法の生存権の規定などからも貰って当
然である生活保護に関しても、貰っている人は申し訳ないとい
う感情を抱かされるし、またケアワーカーらも、受給者の生活
を監視する。そんな窮屈な世の中を変えようではないか、とい
うのがベーシック・インカムの基本的な主張である。
つまり、ベーシック・インカムという理念によれば、あらゆ
る市民は無条件で生きるためのお金を国家から給付されるべき
である。ベーシック・インカム(基本所得)を徴づけるのはこ
の無差別性・平等性である。例えば、障害年金であれば、その
人が本当に生活に支障をきたしている障害者であるのか否かと
いった審査があり、生活保護に関しても、ミーンズ・テストと
呼ばれるもろもろの審査がある。資産があったり、親兄弟など
頼る人がいるならば受給させないというのが行政の方針なので
ある。しかし、そんな審査に掛けるコストがあるならば、それ
を全員に分配したほうがいいのではないか。誰が「本当に困窮
した人」であるかテストするより(それはしばしば苦痛と屈辱
を伴う)、全ての人に生活できるだけのお金を渡したほうがい
いのではないか。
しかし、すぐにこう反論する人がいるだろう。ただでさえ危
機的な状況にある日本の財政は、そのような高負担には堪えら
れず、破綻するだろう、と。しかし、本当だろうか。われわれ
が例えば軍事費などに掛けている法外なお金を回せばいいので
はないだろうか。また、適正な所得税や法人税の課税も必要だ
。要するに、真の「勝ち組」=セレブには彼・彼女らの分け前
を少し減らして貰い、それを困窮者に回すということだ。つま
り、所得の再配分を行うということだ。
ベーシック・インカムに関しては、思想誌『VOL』の最新号
が特集を組んでおり、山森亮が精力的に各地でワークショップ
を催している。私も山森を通じてベーシック・インカムを知っ
た者の一人だ。生きることそのものが政治的闘争の課題である
今日、ベーシック・インカムは最先端の思考である。私は皆さ
んに、『VOL』を購読し、ベーシック・インカムへの理解を深
めることを勧めたい。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■クィア問題
「クィア queer」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
日本語に訳すと、おかまとか変態などという意味である。「ク
ィア理論」と呼ばれる理論、正確には立ち位置がある。それは
、相手から見下され嘲られた時、相手の嘲罵の言葉(「オカマ
!」)を逆手に取ってそう名乗り、「そう、私はオカマだよ。
それで何が悪い?」と言い返すようなありようだ。レズビアン
/ゲイ・スタディーズが大学の学問として制度化するとともに
、狭義の同性愛者に収まりきらない多数多様な性的少数者を呼
ぶ言葉として「クィア」が持ち出され、学問的また商業的な、
或いは政治的なもろもろの言説で用いられているのが現状だ。
だが、時代がそうなる遥か以前に、アメリカの前衛作家ウィリ
アム・バロウズは堂々と自作長編の題名を『おかま』と名付け
ていた(ペヨトル工房から山形浩生訳で公刊されている)。ま
た、西洋からの輸入以前に、東郷健は選挙で(!)「おかまの
東郷健」と自称し、投票を呼び掛けていた。或る意味で、現在
のクィア状況は、東郷健的アナーキズム=八方破れの追い詰め
られた底辺の者らが絶望的な状況で声を挙げるようなものの再
現といえるのかもしれない。
クィア政治とは何か。それは、アイデンティティの政治とあ
りとあらゆる選別の拒否である。例えば、ゲイ・アイデンティ
ティを声高に語る時、そこからはバイセクシュアルやトランス
ジェンダーなど狭義の同性愛者でない人は排除されざるを得な
い。また、運動内部の女性嫌悪や性差別などが隠蔽されること
も多々ある。クィア状況においては、私は他者と識別し難い者
であり、顕れているとともに隠れている者である。私は、絶え
ざる行為とパフォーマンス、位置ずらしで他者からの捕捉を逃
れる。クィアとは「顔を消せ!」というドゥルーズ=ガタリ的
な政治を生きる者である。クィアとは自らの生/性を個体の変
化可能性がどこまで辿りつけるかを測る実験と化する者であり
、或る意味極度にストイックな修道的な者でもあり、且つまた
、とんでもない尺度外れの外道、理解不能な好き者でもある。
が、そのような者らこそ、歓待されねばならないのだ。
幾つかの事例を挙げよう。少年愛と売買春(セックス・ワー
ク)とSM。まず、少年愛を論じよう。同性愛の権利を主張する
政治活動家であっても、少年愛には生理的且つ道徳的な非難を
浴びせる場合が多々ある。はっきりいえばそれは、ヒステリー
である。例えば1990年代後半、レズビアンやゲイの国際組織ILGA
が少年愛者の団体NAMBLAを除名した手続きは、明らかに論理的
に破綻しており、正当化不能なものであった。当時ILGAの活動
家が来日して事情を説明したが、彼によると、そういう事態の
収拾は「政治的」なものだったというのだが、こういう場合の
「政治的」排除が正当化されることはないし、あってはならな
い。
同性愛は、成熟した成人の雄同士の正常な性行為であり、少
年愛は、病気であり倒錯であり犯罪である、と言われる。が、
しかし、本当にそうなのだろうか。同性愛の性行為でも通常の
行為もあれば犯罪行為もあるように、少年愛もそれと同じだけ
ではないだろうか。まず、少年とセックスすることを「欲望」
すること、純粋な幻想の世界は全く裁かれる必要がない。問題
はその欲望を言語化して他者と共有し、さらに行動化するのが
どこまで許されるかということである。そしてそれは、個々の
ケースに即して繊細に判断されるべきである。少年愛の欲望を
抱く人は「危険人物」でも何でもない。貴方の共同体から彼な
いし彼女を排除することは問題にならない。或いは、監視カメ
ラで監視することも。
次に売買春(セックス・ワーク)に移りたい。異性間の売買
春は売春防止法で規制されているが、同性間のそれに関する規
定はない。同性愛には「売り専」と呼ばれる売買春(セックス
・ワーク)が存在しているが、それは法では裁かれない。ただ
売る側が未成年である場合、青少年健全育成条例との絡みで問
題になるくらいだ。が、法律的には違法ではないとしても、倫
理的には正当化され得るのかどうかが問題になる。仮に生/性
の自己決定権を最大限尊重する立場から、セックス・ワークの
非犯罪化に取り組む場合でも、しかし「買う側」の倫理を問う
必要は以前残っている。例えば、異性愛であれ同性愛であれ、
お金を持った中高年の男性が東南アジアなどに買春ツアーに行
くことはよく知られているが、彼らのそうした行為も正当化さ
れるのか。また、アメリカ本国で抑圧されていたバロウズやポ
ール・ボウルズら同性愛者は、旧植民地タンジールで男の子を
買い漁っていたわけだが、そうした行為は正当化されるのか。
これは難しい問いなので、敢えてここで答えは出さずにおこう
。
最後にSMについて考えてみたい。自らもゲイであった思想家
ミシェル・フーコーは、SMを、権力関係をゲーム化する戦略と
して捉えた。その是非は措くとして、当人の自己決定権(その
人固有の身体・生命に及ぶ)との絡みで、過激なSMプレイがど
こまで正当化されるのかを問うてみたい。
ご存知の方も多数いるとは思うが、アメリカにはBME(身体
を極端に変容させた人々という意味)という集団がおり、画像
などを一般公開している。それには、性器を含む身体を傷つけ
ることや、極端な場合では手を自ら切断することまでが含まれ
ている。自分で自分の身体を傷つけたり、或いはサディストと
契約して傷つけてもらうことが倫理的に正当化されるとするな
ら、では他者と契約して同意のもとに命を絶ってもらうことが
正当化されるかどうかを問うべきだ。生命倫理はこの問題の前
で長らく躊躇してきたが、生/性の自己決定の論理を極限まで
推し進めるなら、死の自己決定権を主張せざるを得なくなる。
それは敬虔な人々には、人間の自由なり我意のままにしてはな
らない「死」という崇高で神秘な次元を汚すものとして嫌悪さ
れ非難されるだろうが、しかし、それは必然的な帰結なのであ
る。貴方が自殺に反対であったり、身近な他者に死なないで欲
しいと願うことは別に構わない。が、死を選んだ人の選択を道
徳的に糾弾する権利は誰にもない。むしろ、「自ら」選んだは
ずの死が、実は社会構造に「選ばされた」ものだったのではな
いか、との不断の批判が必要だ。
わざと極端な例を挙げていると思った方もいるかもしれない
が、私が言いたかったのは、クィア政治なりクィア状況が旧来
の道徳観を揺るがす危険なもの、境界を越える、ないし一線を
越えるような行為と関係があるということである。クィア以降
、性は未知で危険なものになった。性は冒険であり、実験場な
のだ。もしかしたら、そこから何か新たな関係性が生まれるか
もしれないし生まれないかもしれない。が、それに注目し、絶
えず思考し続けることが必要だ。誰の権威にも頼らず、草の根
の思考を続けること。それがクィア化した性がわれわれに開い
た地平なのだ。
ーーー
だからクィアを問うことは、(暴)力を問うことなのである。
安定的な形態を歪ませ崩潰させるような外部の(暴)力として性
を考えること。暴力的な状況の只中でのサバイバル術を磨くこ
と。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■メールマガジンの登録・解除
以下からお願いいたします。
http://www.mag2.com/m/0000201547.html
◎まるごと☆リンダちゃんのバックナンバー
⇒
http://blog.mag2.com/m/log/0000201547/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
まるごと☆リンダちゃん
編集:リンダちゃん(攝津正)
tadashi_settsu@yahoo.co.jp
http://www.geocities.jp/tadashi_settsu/
http://geion.free100.tv/
http://cafelets.free100.tv/