Michel Camilo / Michel Camilo→Bill Evans with Philly Joe Jones / Green Dolphin Street。昨夜と同様、三島由紀夫『金閣寺』の新潮文庫を読み続け、読了。
僕が考えていたのは、何故悪が可能でなければならないか、何故人間は「行為」せねばならないか、どうして主人公が鹿苑寺の住職になって金閣を「所有」するといったハッピー・エンディングではいけないのか、ということだった。
三島由紀夫が大江健三郎の『個人的な体験』の結末を批判した顛末はよく知られている。しかし、二人のいずれが正しかったのか、僕には判然としない。文学は、「文学的」でなければならぬか? 言い換えれば、悲劇的でなければならぬか?
話は飛ぶが、川上未映子の『ヘヴン』。この作品が、コジマ的なものに留まっていたなら、それは単に文学であるということだったと思う。しかし、この作品のラストで「僕」は手術で斜視を治す。いわば、「しるし」を消し去る。「僕」は僕には脱-文学的な次元にいるように思える。百瀬は哲学的な次元にいる。しかし恐らく、文学も哲学もそれからの「脱」を必要とするものなのではないのか?
また、しみじみと感じたのは、『金閣寺』が比類のない「青春」小説だということだ。もう青春というものの終った僕にはそれが痛いほど分かる。よく「イタい人」などと言うが、その意味でこの主人公もイタい人である。しかし、青春というものは、特に暗い青春というものは、イタいものであらざるを得ないのではないのか?
僕自身は、暗さ、青春の暗さを既に脱している。もう老人であると言っても良い。「行為」でなく「認識」を選び、単に生きること、生存を選択する。悪よりも小さな善を選択する。金閣寺を焼くより、鹿苑寺の住職になろうとする。言い換えれば、非文学的である。非悲劇的である。僕の人生は悲劇などというものではない。恐らく喜劇だ。或いは、笑劇。僕は自分のことを、自虐芸人と表象することがままある。お笑い芸人が挫折すると悲惨だという話をよく聞くが、僕などはさしずめ千度も挫折したお笑い芸人といったところであろう。何者でもないし、今後何者にもなれないことが確定している。言い換えれば、金閣寺を焼かぬことを決意している。
精神科医のデス見沢は、最後はみんな頃して自分も氏ぬ心意気で、という意味のことをどこかで語っていたが、僕は「みんな頃す」つもりがない。言い換えれば秋葉原の加藤智大君や別の事件の金川真大君のような大きな「行為」を為すつもりがない。それは僕が善人だからではない。単に、そんなことをしても無益だと考えているだけだ。
核ボタンを握っている権力者ででもなければ、そもそも「みんな頃す」ことなどできない。人間の行為は有限であり、破壊できる物の数は限られている。まして日本は銃社会でもない。オウムのようにサリンでもばら撒くなら別だが、そうでなければ大量殺人など不可能なのだ。そして大量殺人に何か意味があるわけでもない。人生の他の事象が無意味なように、それもまた無意味である。
僕は僕の健康と希望とを、醜悪なものと看做す。しかしそれで別に悪いと思わぬ。開き直っている。僕は自分の非悲劇的な、夭折なき人生をだらだら生きるつもりである。鈍い、しかし確かな決意である。