正(気)。
「正」というのがぼくの下の名前。「正気にもどる」ということは、幼い頃にその名前で呼ばれていた子どもに戻るということのような気がしていて。「正君」「たーちゃん」などと呼び掛けてきた人といえば祖母などだが、祖母は亡くなったし、その他の人たちとはすっかり疎遠になってしまった。環境や人格の変化に伴う人間関係の変化を、第2次性徴がはっきりしだした頃から悲しみ始めたけれども、どうにもならないことだというのは当時既にわかっていた。
「正(気)にもどらないと」という声は、懐旧の念の声でもある。かつての自分、すっかり変わってしまう前の自分に戻りたい、人生(の一部分)をリセットしたいという無理な願望の実体化。無理なことなので、
「正(気)にもどらないと」という呟きには、ほぼ
自動的に
「正(気)にもどれませんでした!」という言明が続くことになる(事実確認的? 行為遂行的?)。
「気違い分析」
ガタリの「スキゾ分析」というのがあるけれど、基体としての「気」が「違う」(差異化する、変様する・・・)のだから、文字通り「気違い分析」と訳して何がいけないのだろう。PC?
?
『アンチ・オイディプス』の頃は違うけれど晩年のガタリはホワイトヘッド哲学に凝った。盛んに「過程的(プロセシュエル)」とかいっている。杉村昌昭氏はこれを「自己成長的」と訳す方針(『3つのエコロジー』)だ。そういうふうに「意味を読み込む」訳が許されるなら、「スキゾ分析」を「創造的な生の分岐(スキーズ)という相において分析を進める立場」、「創造的で自己生長的な分岐の過程にあるものとして生を捉える立場での分析」と砕いても許される気がする。但しこれは「気違い分析」とは逆の意味でまずいだろう。「気違い分析」が、必ず誤解されるような(そして差別のニュアンスも含んだ)表現による定式化という問題性を孕んでいるとすれば、「創造的な云々」といった上記の「訳」は、残酷・臨界・破局・葛藤等々の破壊的な相をまったくなくしてしまって、何か調和的で美しいヴィジョンに成り上がって(成り下がって?)しまっているのだ。
真実は中間にある、のかもしれないが、その「中間」が果たして「分裂性分析」なのかなあ。
psycho and queer
似たような事例としてヒッチコックの『サイコ』があると思う。植草甚一のエッセイか何かで、この映画の原作小説の題を『きちがい』と訳してあるのがあって、それをみたとき何のことかわからず当惑した記憶がある。もちろんヒッチコックのあのノーマンの映画の話のことだった。驚いたあと考えてみると、なぜ『サイコ』という原題の音をそのまま写しただけの邦題にしたのか理由がわかる気がした。どぎつすぎたのだ。しかし、原題がどぎついものを邦題でなぜ薄めなければならないのか。政治的な配慮・・・。
???
もう一つ、「クィア理論」が日本で紹介されはじめた頃、もとのqueerという語がもつ「おかま」「変態」というニュアンスを前面に出すべきか、原語の音を写すだけにしておくべきか、等々の議論が(どこかで)なされていたことも想起。
屠殺願望。
不要な犬のように、保健所で注射一本で薬殺(ないし、ガス室で他の不用個体とともに「処理」)されたいという空想。ここ暫くつづいている。
生きたい者には生を、死にたい者には死を。苦しみたい者には苦痛を、傷つきたくない者には安全を。
???
というようなことを考え始めると、自分がファシストに思えてくる・・・。まじでそうかも。
「そこでは出迎えの大勢の人々が賑やかにしている。その人たちは結婚式で集まったのであり、輪の中心には幸せを満喫しているといった様子の新郎新婦がいるが、実はこれは全部偽装。結婚も嘘なら幸福も嘘。たんに麻薬(?)を運んできたおばさんと接触するために工作だったのだ。おばさんは、以上のことを回想しながら寂しい裏切られたような気持ちになっている。」
「おばさん」だけが(偽りのものではあるが)幸福の輪の外にいる、というところに、更年期じみた嫉妬というぼくの夢の恒常的な要素がみられる・・・。「全部偽装」というのは嫉妬からくる悪意の表現ではないかと思うくらい。「寂しい裏切られたような気持ち」というのは幸福が偽装だからか。或いは他人のものだからか。
???
「体の大きいまるまる太った男」は2人の人物を想起させる。ひとりは、×さんが大学時代に属していたアナーキズムの団体の指導者である。もうひとりについては、沈黙することにしたい。
???
疑問。「気軽」と
「尻軽」とはどう違うのだろうか。
「気違い」「気狂い」とはいうのに
「尻違い」「尻狂い」とはいわないのはなぜだろうか。
「尻違い」とはいえないのに
「腹違い」とはいえ、
「尻拭い」とはいえるのに
「腹拭い」「気拭い」とはいえないのはどうしてか。
???
まったく関係ないが、サルトルが『想像力の問題』で夢に言及したくだりで、「夢はそれぞれひとつの世界である」といっている。ドゥルーズは『シネマ2』など何箇所かでこの言葉を取り上げていた。読んでいてなんとなく実感できないでいたのだが、今朝、これは夢を忘れてしまった場合の感慨なのではないだろうかとふと思いついた。というのは、何かひどく長い夢(ガタリの著作が出てきたような気も・・・)をみたのに、目覚めて親に「おはよう!」といい、頭を動かして脳内の味噌スープを攪拌した途端、漠然として捉えどころのない印象を残してすべてが消えてしまったからだ。こういうことはよくあるが、ひどく寂しいものだ。何か貴重なものをとりかえしのつかない仕方でなくしてしまったような気持ち。もちろん、
「へろへろ」なまでに子どもじみた固執だが。確かに、子どもの頃はこうした感じをいつも抱いていたような気もする(いわゆる回顧的な錯覚かもしれないけれど)。なにかひとつの別の世界が失われてしまったような喪失感だ。大袈裟かつ大甘にいえば「我々の内なる
アトランティス」が忘却の暗い沼に沈み込んでしまったというか。或いは穢ない喩えでいえば、汲み取り式の便所のなかに想い出の品(指輪など)を落としてしまったときの悔恨というか。
???
追加。「手違い」「手拭い」「手軽」とはいえるのに、
「手狂い」とはいえないのも謎。
目本語って難しい!
???
さらに追加。「手切れ(金)」「尻切れ(トンボ)」「ハラキリ(=切腹)」とはいうのに、
「気切れ」とはいわない。とはいえ、最近しばしば耳にする「キレる」とかいう意味がよく解らない表現があるが、あれは一体何が切れるというのだろうか。神経の糸が切れるのか。それとも、まさしく「気」が切れるのか。或いは、刃物で誰彼構わず切り捨てるという意味なのだろうか。
鬱病など。
数少ない友人・知人のうち5人までが、重度の鬱病と診断され、ある日突然(「都落ち」などと称して)奇蹟のように消え失せてしまった。それと、なんとも印象ぶかい、正真正銘の犠牲者としかいいようのないご夫婦がいた。ぼくは彼らのほとんどすべてと連絡と交際を絶ってしまった。あるとき、堪えられなくなったからだ。そしてこのことに、強い罪悪感を覚えている。「友だちに見棄てられる夢」は、それに対する
自己懲罰なのだろう。とはいえ、彼らが次々に限界に達してある日突然「消えて」しまったり、或いは疲労のためにこちらの側が遠ざかったりする
以前からこのタイプの夢がぼくの夢の恒常的要素だったのではあるけれども。
罰。
知人から、彼の知り合いの死の状況をきく。悲惨なものだった。彼との約束で詳しくは書けないが、忘れないようにしないと。
罰
出来事がすべて悪意のある
誰かの仕業だという深い確信が襲い、偶然というものが無くなってしまう。すべてが「腑に落ちる」。危険きわまりない徴候だ。
罰罰。
想像の産物と「現実」との区別がつかなくなることがあって、そういうときには現実(感)がかなり希薄になってしまう。例えば、事故か病気か知らないが、顔面がどろどろに溶けたり焼けただれたりした人たちに遭遇したことが3度4度ある。電車のなか、大学祭をみにいった某国立大学の門の前、鬱病が昂じて「都落ち」と称して実家へ帰っていった友人の引っ越し手伝いに赴いた彼のマンション等々で。そのうち最後の機会においては、部屋の暗闇のため「見る」ということがそもそもできず、くぐもったようなよくききとれない抑揚のない声を耳にしただけだったが、後でその「大家さん」が原因不明の病気でほとんど顔というものが無いのだということを友人から聞いた。その他の2つの機会は、ぼくが実際に目で見たのだが、これが現実知覚なのか幻覚なのか解らない不安に駆られ、暫くしてから一緒にいた知人にぼくが見たものを見たかどうか訊ねてみた。結果は、一度は「私もみた」という返事が、もう一度は「自分はぼんやりしていて気付かなかった」という返事がかえってきたのだけれども。結局のところ、「事実」とは何なのだろうか。想像力による脚色を削ぎ落とした経験だろうか。時間を巻き戻したり、他人の体験流の中に入ったりすることができない以上、諸経験を比較して「事実」を確定することができるのは、
誰なのだろうか。
罰罰罰。
一年ほどまえのことだが、指導教授の先生が、有名な都市伝説である「人間達磨」の話をした。舞台はイタリアということになっていた。ある商社に勤める夫と新婚の妻がイタリアに旅行に行き、服屋の試着室に入ったきり妻が帰ってこない。夫は警察に届けるが、服屋の店員は「そんなお客はこなかった」と言い張り、結局どうにもならない。数年後、夫が商用で他の外国に行き、両手両足のない人間が見世物になっているという場所に行く。みてみるとそこにいたのは、両手両足を切り取られたうえ目を潰され、発狂していた自分の妻だった。夫は妻を引きとって帰国したが、世間体を憚り、ことを内密にしたのだという。
関係ないが、大学のそばの交差点でまだ有名になる前の乙竹氏にはじめて遭遇したとき、ぼくの現実(感)は大きく揺らいだ。顔の無い人たちに遭遇したときと同様、自分がみているものが現実なのか夢なのか解らなくなったのだ。もし、彼の姿をみたのが一度だけであれば(そして彼のことをテレビ等でその後知るにいたることがなかったならば)、延々と疑いつづけていたことだろう。キャンパス内や大学近くで多くの友人知人に囲まれて楽しげに談笑する彼、テレビで聡明そうに語る彼の姿を何度もみることで、自分のみたものが幻覚ではなく確かな現実であったという信念が漸次に形成された。また、シオラレオネ(シオラ・レオーネという表記もみるが)の内戦で、反政府軍の少年兵が、まったく
無関係の市民たちの手足を無差別に切り取っているという報道に最初に接したときも、第一直感としては、「これは、誰かが流した悪意あるデマではないのか」という思いが頭をかすめた。その後の報道で、それが事実であることを疑うことはできなくなったが、その信念の形成と反比例して、ぼくの現実(感)は薄らいでいった。まったく理解できず、ファンタスムの中にしかありえないはずのこと(無差別の手足の切り刻み)が実際に起きていたということ、つまりありえないはずのことが「現実」に帰属させられたということが、現実から実感を奪ったのだ。ドゥルーズは、人間と世界を結ぶ絆が断たれ「普遍的な精神分裂病」に陥ったので、われわれには
この世界への信(仰)が必要になったと説いた(『シネマ2』)。エキセントリックで根拠が判然としないように思われるその主張も、戦争及び資本主義(金銭)という2つの要因を考慮に入れるとき、その真の照準が露わになるのではなかろうか。
Porc en rondelles !
へろへろ状態であちこちをみて廻って偶然みつけた言葉。どれもこれも、自分に向けられているような気が。(出所は省略。まず無理だと思うけど、探せばネット上の無数の日記や掲示板のどこかでみつかるかも??)
- 《被害者意識が強い人間に限って加害者意識が弱い。》 実際、その通りだと思う。ぼくも、他人からの悪意や嘲罵に過敏に(というか妄想・幻覚的に?)反応するくせに、「××××」「×××」などといった差別用語をがんがん使ってしまう。一種のSMじみた捩れた感情があって、(自他への)嘲罵の声(現実のものであるときもあればそうでないこともある)に憤激等々の否定的な感覚を覚えるとともに、その感覚を楽しみ待ち望んでもいる。何か消毒された清潔なコミュニケーションや人間関係を望んでいるわけでは全然ない。
- 《私がこういうへろへろ状態になったのは、ごく最近のことです。》 ぼくは10年前からだけど、よくもまあ今まで隠しおおせてきたものだと思う。というか隠せていなかったのかも。どっちでもいいけど。
- 《良いものと悪いものはきちんと識別しなければいけない。迫害不安が強いとそのメカニズムが正常に働きません。》 これも、自分に完璧に妥当する。例えば、シオラレオネ(シオラ・レオーネ)内戦の残虐行為の報道について、それに対して心底から憤激する自分と、残酷な光景に身が震えるほどに憧れる自分がいる。あらゆる悪やあらゆる残酷について、この両面価値的な感情をおぼえ、それを逃れることがない。Porc en rondelles! というのは、「(幾つもの肉片に)輪切りにされた豚(肉)」という意味。知人の知人にあたるあるフランス人(Fさん)の考えでは、「牝豚!(Truie!)」という嘲罵の幻聴を聴いた女性患者は心の底では豚肉屋での豚(肉)のように身体を輪切りにされる悦びを望んでいたのではないか、とのこと。結局この解釈の当否はわからないのだけれど、「意識的には嫌悪し・恐れ・しりぞけるものを心の底では(無意識的な願望のレヴェルでは)望んでもいる」という両面価値性にはかなり実感できるものを感じている。
悪。
個人的には、破壊(攻撃)衝動の行く末は以下の4つしかないと思う。(1)他人の身体を切り刻む。(2)自分の身体を切り刻む。(3)他人の魂を切り刻む。(4)自分の魂を切り刻む。(1)は衝動の犠牲者=幻想を実行行為に移してしまう人達、(2)はBMEの人達、(3)は誰かさん、(4)は自分に妥当するのではないか。
そもそもそういう衝動をなしにすますことのできる人がいるかどうかはわからない。また普通「良心」といわれるものの多くは、主に(3)(4)の領域にある(戦時や宗教的熱狂のさなかでは(1)(2)にも道徳的ないし宗教的価値づけが与えられることもある−例:左翼セクト間の抗争が激しかった時期の文献にみられる、敵の脳や膝を叩き潰すことに陶酔せんがばかりの描写。ラスプーチンの時代のロシアに実際にあった、去勢の宗教的価値をカルト的に称える宗派〔この宗派は自分たちの性器を切除したのみならず、関係ない他人も監禁して無理矢理去勢したため、帝政政府から弾圧された〕)。
そういう「病理的な」良心とは区別される「真の良心」、「崇高な(=昇華を経て浄化された)良心」というのももしかしたらあるのかもしれないが、万人に共通に配分されているものではないと思うし、ぼくはそういうものを理解(ないし実感)できない。だから(4)に甘んじているのだが。
悪悪。
「悪」をどのようなものとして想定しているのか、という点が重要。道徳的言説における「悪」の主要なモデルのひとつは嗜癖、特に飲酒に関わるそれだった(ロック、ジェイムズ、サルトル、ベイトソン)。そこでは、一杯の酒を飲むか飲まないかという些細な問題に、神学的ないし実存的な選択の全重量が掛け(=賭け)られる。意志と傾向性(或いはヘクシス〔習慣の力〕)との抗争、ないし後者による前者の被覆(=頽落)を描くのに、飲酒という事例は非常に好都合なのだ。上記の論者たちの議論を纏めてみるとこうだ。われわれは目先の善のみをみて、総体的かつ長期的な善を忘れる(「よくないのはわかっているが、しかし・・・」)。或いは、酒を飲まない自分になるという決断もできるはずなのに、その可能性から目を逸らし、習慣の力には抵抗できないと言い訳する。こういう非本来的なあり方からの覚醒、ほとんど宗教的な転向(=魂の向け換え)に等しい態度変更を帰結しうるのは、徹底的な恥辱・汚辱の体験だけである、等々。
フロイト『精神分析的研究からみた2、3の性格類型』「第III節 罪の意識から罪を行なう者」の冒頭部分の抜粋。〔人文書院版著作集6、134−135頁〕《若年期、とくに思春前期の年代についての諸報告の中で、のちには真面目な人間になった人たちが、そのころ盗みや詐欺や放火などの、許しがたい罪悪を行なった事実を述べていることがよくある。これまで私は、この年代には道徳的抑制力が弱いということだけをいって、そういう報告を軽く片づけていた。そしてそれらのあいだに、意味深い関連を求めようと試みたことはなかった。ところがついに私も、はっきりとした非常に好都合なケースにいくつかぶつかって、そういう事件を根本的に研究せざるをえなくなった。というのは、患者たちは私の治療を受けていたあいだに、しかも、あの若い年代をとうに越している人たちであるのに、上に述べたような犯罪が行なわれたのである。分析すると、次のような驚くべき結果が出てきた。つまりそういう行為は、なによりもまずそれが禁じられていたため、また、本人はそういう行為によって精神的な負担を軽くするということができるということのため、まさにそのために行われたのであった。患者は、わけの分からない強迫的な罪の意識に苦しめられていたが、犯行ののちは、この圧迫感が薄らいだのである。罪の意識は、少なくともなんらかの方法で、どこか安全な場所に移されたのである。
ひどく逆説的に聞こえるかもしれないが、私はこう主張せざるをえない、つまり、罪の意識のほうが犯行よりも前に存在していたのである。罪の意識が犯行から生じたのではなく、逆に、犯行が罪の意識から生じたのだ、と。だから、これらの犯罪者たちを、罪の意識からの犯罪者と名づけることは、きわめて正しいことだと思う。とはいえ罪悪感の先在は、むろん罪悪感とは関係のない別の一連の言動をとおして証明された。
というのは、患者たちは私の治療を受けていたあいだに、しかも、あの若い年代をとうに越している人たちであるのに、上に述べたような犯罪が行なわれたのである。これは、精神分析が、行動化のひとつの原因になったということだろうか。衝動の内的抑制に、精神分析的手続きを用いることは無理なのだろうか。
\\\...
(深夜で日付が変わってるから)おとといになるけれど、両親の知りあいの墓石屋の社長さんがいらっしゃった
(お金借りたから敬語)。家のローンがはらえないエス一家のために、72万円を貸してくださったのだ
(しつこく敬語)。期限は5年で、利息は3%。両親は社長さんに焼酎と刺身を振る舞う。自宅前にあるからっぽの事務所で石材店の出店(?)みたいなことをするためのポスターのようなものを作るために、パソコンで字を打ち出す、ということをする。何でもないことだが、社長さんはそれなりにご満悦だし、ご機嫌をとるためならなんでもやろう。数ヶ月前から出ていて曖昧なままにとどまっているほとんど詐欺に近い話、つまり、社長さんの息子さん(ぼくよりひとつ年下だとのこと)にパソコンの使いかたを教える(もちろん金銭を受け取って)という話も一気に具体化してきた。ぼくだって大したことは何も知らないのでちょっと罪悪感を覚えるが、「電源の入れ方から教えてやってほしい」と熱心に言ってくるので、請けちゃおうと思っている。どうせ何もせずにボケっとしてるわけだし。
社長さんのご機嫌をとるために、ひさびさにピアノで演歌をひく。もう覚えているのは3、4曲しかないからそれを弾く。夜霧のブルース、有楽町で逢いましょう、赤と黒のブルース。9歳のころからなんの進歩もないというのはちょっと自分で自分にうんざりだけれども・・・。
\\\...
(日付が変わってるから)昨日ということになるけれども、借りたお金を払い
(=祓い)込みに銀行に行ってきた。銀行に入るたびに緊張してしまう・・・。自分には適わず、そぐわず、ふさわしくないところに迷い込んでしまったという感じ。帰り道に、不況下で墓石店がはやるためのキャッチコピーめいたものが脳の隙間から漏れ出てきて、頭蓋のなかで反響していた。
「はやく逝こうよ」「みんな揃って、バタンキュー」「こっちへ来い、待ってるぞ」「生ける屍から本物の屍へ!」。
外を歩いているとき、突拍子もない思いつきが次から次に出てくることがよくあるが、正気のふりをするためには、ここで決して笑ってはいけない。
「独り笑いはやめようね!」と親からも注意される始末だが、無意味なフレーズや情景が突然思い浮かんできて、笑わずに耐えているというのは、くすぐられてつつ笑うのを我慢し続けるというのにも似ていて、ちょっとした苦行ではある。やっぱり少々顔面の筋肉が不自然に強ばったり痙攣したりするのか、通りの前から歩いてくる子ども連れの母親などは、目が白くなったり足早に通り過ぎたり、子どもに何やら呪文めいた文句を言い聞かせたりしているのが観察される。
ほらほら、ばけものじゃないってば。
SPINOZA.
One day he came back from a drag contest and said that a Mexican boy named Spinoza had won it (his drag name, Gigi). 'Bunny, there were all these other tired numbers with their falsies and pancake and falls, but Spinoza just walked out with his tough little mug unpainted and his duck's ass haircut and his young boy's arms with the tatoo in the web of skin between his thumb and index finger and his bare wetback feet and just a dumb black dress on, zipper broken down the back, and he looked like a teen killer someone had forced into a frock at gunpoint and - Oh' Lou let the intensity of his stare melt. He lowered his eyes, while a smile, a shy smile dawned : 'Oh, Gigi. Women in the night moan your name.' (Edmund White, The beautiful room is empty, Picador. p.108.)
訳本ももっていたけれど、今は倉庫の奥深くで眠っている。英語ができるわけでもないんだから、もっていればよかった! もちろん、哲学者のスピノザとは何ら関係がないけれど、偶然の一致が面白かったのでメモすることに。
罰
『哲学の劇場』掲示板でフーコーについて考えているうち、脳内の密度が異常に高まり、頭部に鈍い痛みを感じる。
「正(気)、正(気)、正(気)、正(気)・・・」とおまじないの文句を(頭のなかで)唱えて、急場をしのぐことに。
罰罰
脳内で何らかの物質の濃度が高まったり圧力が増したりするのを感じ、眠れないまま朝を迎えるたびに、
「お迎えがくるよ」という感慨に襲われる。老人たちにとってはお迎えとは死のお迎えだが、ぼくにとっては別世界、××××(差別用語なので自己検閲)の世界へのお迎えのような気が。目と頭部の痛みが合図になっていたりとか。「向こうの世界」に一足先に行ってしまった知人が真面目に語っていたのと同様のことを感じ考えている自分に気付く。(
「サリン事件も大震災もたけしのバイク事故も、全部俺がやったんだ。なぜなら、そういうふうに考えることにしたからだ。」)
罰罰罰
議論の主題になっているのは、衝動の自己抑制と裁きの問題であり、怨恨や疚しさ抜きの裁きという論点を経て、裁判形式そのものへのニーチェ及びフーコーによる批判ということに移っていった。強烈な享楽を与える
残酷は、imageの内にだけ存するものなのか? それとも端的な
事実、体験、現実としてあるのか? 口先だけの言葉に終始したり、芸術の領域に移行したりすることなしに、後者の残酷を肯定できるのだろうか。(政治的なテロやイラン革命時の粛清、サリン事件や少年犯罪、シオラレオネでの残虐行為・・・)
罰罰罰罰
サリン事件が起きたときも少年らによる明白な動機のない殺人が起きたときも、被害者の方々に対する同情も犯人への憎しみも、ついぞ感じなかった。その後の報道をみても、彼らは端的に社会に対して暴動を起こし、戦争を遂行しているのだとしか感じなかった。彼らは追い詰められ、殲滅され、徹底的に根こそぎにされるだろうが、その帰結も含めて肯定すべきものにしか思えなかった。
罰罰罰罰罰
うまくいえないが、不意の死という観念、特に瞬時のうちのそれほど苦しまない死という観念には、
善以外のものを見出せなかったからだ。それは端的に救済ですらあるのではないか、とさえ感じていた。だから、それらの事件の報道は、ぼくには何らかの躁的な熱狂をもたらした。地下鉄サリン事件が起きてからほぼ半年間、ぼくは殺人の話以外の話をしなかった。人に厭きられ、自分でも疲れるまで同じルーティンを際限もなく繰り返していたものだ。
罰罰罰罰罰罰
突発した事件は、躁病的な要素の源泉でもあったけれども、同時に極端な非現実感の源泉でもあったと今から振りかえれば思う。似たことを感じたのは、セリーヌ『夜の果ての旅』で語り手が軍隊に志願する場面を読んだときだ。語り手は、徹底したペシミストであり、非戦主義者である。高潔な理想があるからそうなのではなく、戦争など疲れるし無意味だと思うからそうなのだ。ところが、通りを軍楽隊が行進してきて、ラッパの音が響く。彼は音楽に合わせて踊りだし、友人が制止するのもきかず、行進の後に就いて行って軍隊に入ってしまう。
罰罰罰罰罰罰罰
ラッパの音に誘われるように、テレビから毎日流れてくる某教団の歌舞音曲に惹きこまれ、毎日それを口ずさんでは
「賛成、賛成! ×××××××にも賛成!」(自己検閲により伏字)と繰り返していた記憶がある。人間の数が減ることはそれが増えることに比べるなら遥かに素晴らしく悦ばしいことだ、と思ったので端的に賛成していた。ましてやそれが不意で瞬時の移行であるならなおのこと・・・。但し、これはもちろん夢想に過ぎなかったのを後で知ることになる。
罰罰罰罰罰罰罰罰
社会のまるごと全部による某教団への轟々たる非難に対してぼくは激しい反感をおぼえていた。その理由は、テロという行為そのものに対してのみならず、そもそも現にあるこの
支配的現実のみを唯一正当なものとして万人に強制し、それからいささかでも逸脱するいっさいのものを抹殺しようとしているようにみえたからだ。すべてが「正常化」の要請を無理強いしているようだった。一定の言動、一定の思想、一定の身振りをしなければ、(潜在的に)許しがたい悪人(の一味)だとされる。例えば、これは当時の報道の一部に本当にあったのだが、「某教団信者と一般人の見分け方」などという狂った特集があり、それによれば、電車の中などで頭のてっぺんに手を置かれて嫌がる者は信者なのだとされた。この
識別法それ自身が馬鹿げているが、このような識別法が話題にされるということそのものが何か不穏な画一化の徴候だと思っていた。このことについては、今でも取り消す必要はないと感じる。行為において人を裁くのが仮に必要悪だとしても、行為が生じる前から身振りや信念、態度、価値観において裁く(判断する)ということまで必要悪だとはいえない・・・。
罰罰罰罰罰罰罰罰罰
毒ガスによるテロや、「14」とか「17」とかいう数字への神秘的惑溺に陥っているとしかいえない偏った説明が与えられてきている一連の事件の報道に接して抱いた非現実感は、自分の知らないところで自分の分身が矯激な行動を起こし、その咎でぷちんと内からはじけて潰れてしまう、というイメージと結びついていた。ある人から、サリン事件や地震やたけしの事故は全部俺がやった、なぜならそういうことに決めたから、と告げられたときに似た
既視感があった。彼らが咎められるのならば自分も咎められる必要がある、なぜなら自分が願望したり夢想しただけで実際にはやらなかったことを彼らはやったという違いしかないから。バスをジャックした子どものように「先をこされた」という感じではないが、起こるべく定められていたことが起こすべく定められていた任意の個体によって起こされた、という漠然とした印象だ。誰かがやったのだが、それは自分だったかもしれない。責めるつもりになるどころか、メディアが繰り返す非難がすべて自分個人に向けられたもののように思えてきて、自分自身も戦争を起こすべきではないかとさえ感じられる。
(ここまでくると、例の呪文「正(気)、正(気)'、正(気)''、正(気)'''・・・」を繰り返して魂の動揺を鎮める必要が出てくる。)
罰罰罰罰罰罰罰罰罰罰
imageとしてある−というよりも、テレビが連日imageとしてばらまき押しつけてきた−残酷への肯定というか熱狂はかなり長期にわたって持続していたけれども、そのうちあるドキュメンタリに接した。サリン事件で重度の脳障害を負い、身体の自由と記憶を失い、迷惑を掛けることになるからという理由でつきあっていた恋人とも別れることになってしまった若い女性とその兄についてのドキュメンタリだ。また別のときには河野さんとサリンで重い脳障害を負って寝たきりになったその奥さんについてのドキュメンタリもみた。瞬時で不意の死というimageは大きく揺らぎ、覆された。不可逆で重い障害を心身に追い、しかも生きており生き続けなければならない・・・。この残酷まで肯定することはできないと思った。まったく罪がなく無関係な人々を、死なせるのではなく、とりかえしのつかないほどまでに生を損ない、生き続けることを
強いるということ。最大の残酷、決して肯定できない残酷があるとすればこれ以外にはありえないだろう。シオラレオネ内戦での残虐行為の報道に接しても、そのことを痛感する。
彼らは無関係な住民を無差別に殺すのではなく、手足を切り取るのだ。しかも自分ではやらず、誘拐してきた子どもたちの皮膚を剃刀で切ってそこに麻薬を埋めこんで洗脳し、その子たちにやらせる。これはまさしく地獄のような光景ではないのか。少年兵に両手を切り取られた14歳の子どもが「ぼくには仕事の口もなく結婚もできない、ぼくの人生は終わってしまった」と嘆く姿が報道されていたが、ダイヤモンド採掘の利権争いといった大義のかけらもない紛争の動機と、あまりにも不釣合いだと感じる。
(釣り合いが取れていればいいのか、という問題でもないが、そのような残虐行為を命じた者たちが同様の目に遭っても当然だと思う。)うまくいえないが、何かこれらのことには心底ぞっとさせるものがあるのだ。これらの事例も、ぼくを人間主義者・人道主義者に変えるには到っていないが、残酷の種々の位相について考えさせてはいる。それで、
「他人や自分の魂を切り刻むことは隠微であるがためにいっそう耐え難い残酷かもしれないが、たとえそうであっても、他人の身体を理由もなく切り刻むよりは自分の身体を切り刻むほうが百倍もましな選択ではないだろうか」と日々考えている・・・。
罰罰罰罰罰罰罰罰罰罰罰
ある人が述べたように、残酷には2つの異なるレヴェルがあり、それを区別する必要がある。imageとしての残酷というレヴェルと端的な現実としての残酷というレヴェルがそれだ。明らかに残酷(な光景)は享楽を与える。万人にというわけではないかもしれないが、そのことを認める人々にとってはそうなのだ。その場合の多くは、imageとしての残酷のレヴェルにとどまっており、幸か不幸か、端的な現実は常と変わらず穏和に過ぎていく。ところが時に一線が超えられる。犯罪以外の例を挙げてみよう。日本(目本)のサイトを遍歴すると、「玉潰し」サイトの一群に出会う。異性や同性から、睾丸を潰してもらうという幻想を主軸にして幻想の満足を満たすために人々が集うサイトだ。ところがアメリカには、BMEのサイトがあり、本当に自分の性器や手足を切り取った人々の写真、インタビュー、それらの行為に関するfaqなどが公開されている。一方には果てることのない幻想があり、他方には端的で瞬時に尽きてしまう行為がある。両者の間で移行や相互浸透は確かにあるのだが、歴然とした断絶もある。異なった流儀、ないし異なった強度においてそれぞれ残酷が肯定されているのだ。
罰罰罰罰罰罰罰罰罰罰罰罰
人間主義や人道主義、調和的なヴィジョンや既存の感受性への全面的な追随を選択するのでないならば、肯定可能な残酷とそうでない残酷を分ける必要がある。ここしばらく、そんなことばかり考えているが、結局のところそういう分離は可能でないのかもしれない。悩んでいるふりをしているだけであり、一線をこえること、××××になることが怖くて躊躇しているだけかもしれない。(イラン革命時における同性愛者等の粛清、サリンによる不知の脳障害、シオラレオネにおける手足の切断といった)ある種の残酷をimageとしてでなく端的に現実として肯定しようと思うと、狂ってしまうのではないかという不安が、極度の非現実感とともに生じる。非現実感というのは、imageとして
のみあるべきものが現に端的な事実として起きてしまいそれを現実として受け入れ肯定することが、逆に、それまで自分が「現実」だと思っていたもののimage化をもたらすといった感じだ。陳腐な比喩だが、鏡のなか世界が現実になるのと同時に現実の世界が鏡像になってしまう、とでもいうべきか。
?
今日こんなことがあった。友達から電話が掛かり、完全犯罪や暴力の小説のお勧めがないかときかれた。理由をきくと、彼の行きつけの船橋の古本屋でこんな出来事があったのだという。
??
彼と古本屋の主人が親しげに話していると、いかにも成金という感じの中年女性が興奮した様子で入ってきた。そしていきなり身の上話を始めたというのだ。それによると、その中年女性は10年間も船橋駅近くで居酒屋を開き、某大手新聞社に勤務する内縁の夫と一緒に暮らしていた。ところが最近、内縁の夫は某新聞社からの退職金5000万円を持って、別の若い愛人
(ソープランド嬢であり、かつ金貸しも兼ねている人だというがそんなことありうるのかな)と逃げてしまった。彼女がいうには、自分はその内縁の夫を探し出して、気が済むだけの残酷な方法で殺したい。殺すのでなくても、手と足とを一本ずつ切り取るくらいのことはしてやりたい。やくざに頼むと高いから
(相場は1000万円くらいなどと話したらしい)、中国人や韓国人に頼むつもりだ
(つもりだっていったって、コネとかあるのかね)。その女性は警察で捜索願を出したさい、なんと捜査員に向かって、自分は夫を見つけたら殺すつもりだ、などと宣言したそうだが、捜査員は(本気に受け取らなかったのか)笑って「お金をとることだけを考えなさいよ」と宥めるように言ったという。中年女性は、ぼくの友達に向かって、「あんたバイクの免許ある? 探してくれるなら、時給1500円は出すよ」と誘ったが、幸いにも友達はバイクの免許をもっていないので誘惑を免れた。その後女性は、古本屋の主人に向かい、殺人の参考にしたいから適当な小説を選んでくれないか、と頼み込み、本の山を抱えて帰っていったという。
???
ぼくは電話を掛けてきた知人のことは信頼している。彼が嘘をついたことはないし、作り話をする理由もない。しかし、そもそもの問題の女性については、かなりいかがわしいものを感じる。内縁の夫といっても、5000万円の退職金は自分が働いてきた報酬だから、彼に帰属しても当然ではないだろうか。捜索願を出したというのはわかるが、捜査員に対して殺人宣言したというのも、(本当のことなら)到底正気の沙汰とは思えない(殺人を実際に計画しているのなら、なおさらだ)。やくざや裏社会の知識などもただの聞きかじりのように聞こえるし、そもそもそういう計画を(初対面の)古本屋の主人や学生にペラペラ喋り、協力を求め、挙句の果てに推理小説や暴力小説をモデルに計画を練ろうとするというのは、本気だとしたら、かなりやばいものを感じる。とはいえ、女性が告げたことがすべて本当だった、という可能性も完全に消えてしまうわけではないわけで、もし本当ならばと思うと、imgeと現実を分かつもの、すなわちあの「現実感」が大きく揺らいできてしまうのだ。
(*\*)
(今よりも)かなり気が違っていた頃、つまりおよそ3年ほど前に毎日かき殴っていたのは
こんな人物(?)。地獄のように、重い・・・。
(*x*)
*掲示板の夢
『哲学の劇場』掲示板にニーチェについて投稿した記事に、誰かがかなり辛辣に反論する。最初、遣り取りしている相手の人(村上さん)からの反論かと思うが、投稿者名に「〔・・・〕通りすがり」とあり、「・・・じゃないでしょうかね。」というような皮肉な言い回しの特徴が相手の人のものでないことから、別の誰かによる投稿だなと考える。
(夢のなかで考えて)思い当たる人物は3人。『哲学の劇場』掲示板で遣り取りしている「魔王」さん、以前
フロイト掲示板で突然悪罵を浴びせてきた「素人の分身」氏、及び、数日前
ドゥルーズ=ガタリ掲示板で
(ロトマン及びタグ文法について)親切に情報提供してくださった「(*_*)」さんである。この最後の人は、ぼくを罵ったことなどないので、この文脈で想定するのは変かもしれないが、顔文字の「*」の部分が、じっと見つめて監視するまなざし、ないしは刳り抜かれて空洞になった眼窩を連想することから、夢のなかで脅威の感情を抱いたのではないかと思う。
ぼくは「通りすがり」氏の反論に再反論しようとして、
(『哲学の劇場』掲示板でもフロイト掲示板でもドゥルーズ=ガタリ掲示板でもない)どこかの掲示板で誰かの質問に答えて
管理マンさんが投稿した記事を参照しようとする。その記事の内容は(「通りすがり」氏の反論とともに)忘れてしまったのだが、どうも「水子」についてだったような気がする。
「水子」について連想するのは以下の3つ。
(1)フロイト掲示板で文学研究に携わる方が「水の精神分析」について質問したのに管理マンさんがレスしていたのを、寝る前に見たこと。前日の晩、
NACSISで検索したらどうかとその人にレスしようかと迷い、結局、何か卑猥なことのような気がしてきてやめた。20分ほど逡巡していたので、印象に残っている。
(2)母がぼくを産んだのは40歳のときだが、水子地蔵などの前で熱心に掌を合わせる母を(子どもの頃)みて、自分が産まれる前に母は何人もの子どもを堕胎したのではないか、という疑惑を覚え、結局曖昧なまま現在に至っている。若い頃は仕事が忙しくて子どもどころじゃなかった、というような話を聞いたことがあるようなないような。この疑惑は、若い頃の母が進駐軍の将校、CIAの職員、オーストラリアの富豪等々と派手に交際していたのではないか、という疑惑と結びついている。
(3)小学生の頃、オカルト雑誌『ムー』の水子霊特集の挿絵(頭部が異様に長大化して歪み、妙に訴えた目つきでこちらを見遣り、口を半開きにした無数の水子地蔵たち)にひどく怯えていたこと。よく夢に出てくる、歪んだり崩れたりした顔(頭部)のもとになっているイメージの
検索エンジンで「切腹」を検索して、こちらにいらっしゃっている方が数名。しかし、きっとがっかりしたでしょうね。切腹について実質的に何も語ってないし、興味もないから。
去勢についてならともかく。
去勢と切腹(?)がセットになった残酷描写のある2冊の小説について簡単に紹介したい。切腹に興味のある方々が、(あるわけないとは思うが)万一にも再訪してくださったら、少しは満足してお帰りになるかもしれないし・・・。
1冊目は十数年前(中学生の頃)に読んだ、
式貴士さんというSF作家が書いた連作長篇
『虹のジプシー』(角川文庫/当時)。最後近くのエピソードで、主人公は、暴走族のリーダーのお稚児さんだった少年を(暴走族同士の殺戮の場から)救出し、彼と恋仲になる。ベッドシーンで、主人公は少年に正常位で
(つまりface to faceの体位で)挿入するが、行為のさなかで少年のほうが「こんなふうにしてると、アタシたち
(少年は女言葉で喋るという設定)、アンドロギュヌスみたいね!」と言い出す。主人公は、相手の勃起したペニスを指で弾いて、「いいや、これが余計だな」と戯れに応じる。ところが数日後、少年がもと属していた暴走族集団の残党が、もとの愛人(=抗争で首を刎ねられて(!)死んだリーダー)に仁義を尽くさなかったとかいう滅茶苦茶な理由で、少年を誘拐し拷問する。主人公は、超人的な能力で少年が監禁されていた場所(どこかの使われてない倉庫とかいう設定)を特定し駆けつけるが、少年は裸にされて逆さ吊りにされ、股間から性器がすっぽり切り取られて血を流している。主人公は、光速瞬間移動、怪力など超人的な戦闘能力を行使し、拷問者たちも少年同様に完全に去勢することで復讐してやる。縄を解いてやるが、少年は失血のため瀕死である。と、拷問者のひとりが、ナイフを手に突進してくる。「危ない!」と叫んで少年が主人公をかばう。ナイフは少年の臍の下あたりに深々と刺さる。主人公は拷問者たちの息の根を止める。少年はいよいよ助からなくなるが、なんと、自分をこの場で抱いてくれるように主人公に頼み込む。もう邪魔なペニスもないし、ナイフの傷口に挿入して、本当にアンドロギュヌスのようになりながら死にたい、と言うのだ。主人公は最初は拒むが、少年のほうが執拗に頼むので、望みの通りにしてやる。最初は、気が乗らずに萎んだままだった主人公の男根も、少年の内臓の蠕動が妙に快楽を誘い、体内でオルガスムに達する。少年は、激痛のさなか、満足げな表情で死んでいく。
2冊目は、やはり中学生の頃に読んだ、
ポール・ボウルズの『優雅な獲物』(四方田犬彦訳、新潮社)。女の子と戯れるのが大好きな男の子が、伯父の率いる通商団に参加して、砂漠を渡ることになる。ところが、旅の途中、男が助けを求めてきて、通商団は彼を受け入れる。ところがこの男がとんでもない人間で、皆が寝静まった夜、麻薬に興奮して強盗に豹変し、少年の伯父をはじめ通商団を皆殺しにする。最後に少年がひとり残るが、麻薬で興奮しきった男は、少年を岩に縛りつけ、剃刀でペニスを切り取り、さらに下腹部に剃刀で切り込みを入れてそこから切り取ったペニスを挿し込み、とどめにそんな状態の少年をレイプする。
(ちなみに物語の最後で町の人々に犯罪がばれ、男は、灼熱の砂漠で首だけ出して地中に埋められそのまま放置される−太陽に照りつけられ虫に食われて死んでいくままにされる−ことになる。)
(ろくに英語を読めもしないのに)この小説の原書をもっている
(訳書のほうは図書館で読んだだけだから手元にない)ので、決定的な場面だけ引用してみる。
The man moved and surveyed the young body lying on the stones. He ran his finger along the razor's blade; a pleasant excitement took possession of him. He stepped over, looked down, and saw the sex that sprouted from the base of the belly. Not entirely conscious of what he was doing, he took it in one hand and brought his other arm down with the motion of a reaper wielding a sickle. It was swiftly severed. A round, dark hole was left, flush with the skin; he stared a moment, blankly. Driss was screaming. The muscles all aver his body stood out, moved.
Slowly the Moungari smiled, showing his teeth. He put his hand on the hard belly and smoothed the skin. Then he made a small vertical incision there, and using both hands, studiously stuffed the loose organ in until it disappeared.
As he was cleaning his hands in the sand, one of the camels uttered a sudden growling gurgle. The Moungari leapt up and wheeled about savagely, holding his razor high in the air. Then, ashamed of his nervousness, feeling that Driss was watching and mocking him (although the youth's eyes were unseeing with pain), he kicked him over onto his stomach where he lay making small spasmodic movements. And as the Moungari followed these with his eyes, a new idea came to him. It would be pleasant to inflict an ultimate indignity upon the young Filali. He threw himself down; this time he was vociferous and leisurely in his enjoyment. Eventually he slept. (Paul Bowles, Pages from cold point and other stories, Abacus, p.125.)