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夢目記


日記鯖システム管理者からのお知らせ

  • HTTPSに対応し、http://ds.sen-nin-do.nethttps://ds.sen-nin-do.net のどちらでも日記鯖にアクセスできるようになりました。 なお、当面はHTTPとHTTPSのどちらも利用可能としますが、将来的には http://ds.sen-nin-do.net へのアクセスは https://ds.sen-nin-do.net へ転送する予定です。
  • 都合により日記鯖のURLが http://ds.wa-mo.to/ から http://ds.sen-nin-do.net/ に変更となりました。 突然で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。(2019/01/27)
  • 日記鯖の仕様変更、不具合対応等については、こちらの記事もご覧ください。

元気です。

2000/08/01 高校生に戻る夢

(uou)
夢目記2「高校生に戻る夢」をアップロード。視覚的要素をも再現する夢目記を目指しつつ、まだスキャナが使いこなせずうまくいかない・・・。

(q_p)
 ついつい、他人に厭な思いをさせる棘のあることをいったり書いたりする癖が抜けない。何をそんなに苛だってるんじゃ。筋肉増強剤でも頭に打っとけってば!

[o_o]
 母が深夜に目を醒まし(相変わらず眠れない)ぼくにみたばかりの悪夢を話してくれた。




 母が死んだはずの夢

 あちこち体じゅうが痛く、「死んだほうがいいなあ、年取って苦しむよりも死んだほうがいいかも」と考える。
 ボーンと体が飛びあがったような感じがする。
 入院しているようで、お臍から注射を打って麻酔をし痛みをとる、これが最後の手段で、これで自然に死ぬまで痛みが無いから、と医者から言われる。直後に、痛みが無くなる。
 これで自然に死ぬんだなあと思う。
 映画みたいな高い台(戸板のような)にまっすぐ寝かされていて、指を組んでいる。それで自然に死ぬはずなのだが、頭の神経だけはしっかり起きている。
 いろんな人が「ご愁傷さま」とでも言うように群がってくる。皆は自分(母)が死んだと思っているが、実は死んではいない。誰かわからないけど来てくれた過去の知り合いに向かって、心の中で「ああ来てくれたな、ありがとありがと」と感謝している。
 広い野原のなかで、あっちに5人、こっちに7人と、高い戸板に乗せられた自分(母)の周りに群がってきているのだが、そしたらバスが来る。
 バスが来たら、お父さんが「バスに乗ろう」と言う。自分(母)は「もう死んでるし、立たれん、起きられん」と返事する。お父さんは、「痛みがなくなったんやったら、起きれるはずやから起きたら。それでバス乗ろう」という。それで起き上がったら、ほんとにどこも痛くないし、歩けるから驚く。
 「バスに乗ってどこに行くん?」と訊くとお父さんは「どこでもいいんや」と答える。「どこでもいいって、どういうこと?」と訊くと、「どっか北のほうに行ってる」という返事。「どこがいいか?」とお父さんが訊いてきて、「新潟かどっかの山のなかかな」と返事する。
 バスは、山の奥のほうの新聞屋に行く。お父さんは自分(母)の耳元でごちゃごちゃ指図し、「とにかく、辿り着いたところでいっぱいいろいろ話して、そこで粘ってみるしかないな」と言う。「何いってるの?」と訊き返したら、「もう年を取ってるからもういろいろできないから、新聞屋でどっか募集してるところないか。住み込みで行って、そこで二人でやればいいよ」という返事。自分(母)は「人が具合が悪くて死んでいて、せっかく痛みがなく死んでいける注射をしてもらったのに、それを無理矢理起こしてバスに乗せて、働き口を探せだなんて、鬼だ」と思うが、笑顔を作って新聞屋の人に「どこか、住み込みで募集してるところありませんか?」とたずねる。新聞屋のおじさんの返事は、「住み込みで募集しているところは、ないねえ」とのこと。
 おじさんはおじさんといっても普通のおじさんじゃなく、興行師みたいにちょっと派手な世話役みたいなタイプである。「あ、思い出した思い出した、ひとつどこかのプロダクションで、なんとかの役を一人募集していてまだ決まってない。もう募集はだいぶいっぱい行ってるだろうね」とおじさんが言う。父がまた耳元で、「よし、行ってみろ」と指図する。
 それでそこからまたバスに乗って、そこのプロダクションの募集現場みたいなところに行くのだけれど、そこで自分(母)と同じような病人に出会って、なんかどっかに入院してたら急にお腹の中が爆発したみたいにボーンとなって自分が飛びあがるような音がして、意識が朦朧としていたんだけれど、目が醒めたら痛みがなかった、という話を聞く。
 「すぐに死ぬんじゃないんだー」と自分(母)は相槌を打つ。すぐ死ぬんじゃなくて覚悟を決めて最後の手段をもうしたんだから、穏やかに静かに平和な時が来るまですぐに死なないで生きてるんだろうなー、まだ生きてるんでしょうかねー私たちは、という会話をする。ボーンボーン、というお腹が爆発するような音がして、それは無意識に感じてたんだけれど・・・。
 お父さんがまた会話する二人の間に入ってきて、何か仕事をさせようとするが、穏やかな気持ちになっていて腹が立たない。
 「入院したり療養したりとかそういう費用はないから、あちこちの痛みが止まったら自然に死ねばいいからそれで」と言ったら、「じゃあわかりました」と医者がお臍に注射を打ち、ボン!と爆発するような感じがして・・・

2000/08/02 夢ばかり


=[o_o]=
 数日前にみた2つの気持ち悪い夢を記録。

 (1)イラスト画像の夢

 コジマ先生から、「随分前から、ネット上のイラストの著作権に注意しろっていってるじゃないか!」とねちねち注意される。(著作権に注意して、上手に画像をアップしたりコピーしたりしろ、とぼくの不器用さを責める内容の叱責だったような・・・もはやよく覚えていないが。)
 問題の画像は、犬のほかにも2、3あった。
 なぜか、ぼくは画像のなかの犬 − (r)es家が16年も飼っているチロということになっている − に手を伸ばして抱きかかえる。すると、チロは、脚や背骨が折れていて、ふにゃりとなり、気持ちの悪い感触が腕に残る。ここで目覚めた・・・。

 (2)切符を買い損ねる夢

 地下鉄の駅の券売機前にいる。先に知人が、改札をくぐってホームに向かっている。ぼくは券売機で170円切符を買おうとするが、ボタンを押し間違えてしまい、切符が出てこない。ところが知人は先に行ってしまっており、電車が出てしまう。170円損するのを気にしながらも、ぼくは、降りた先で乗車料金を払うことに決め切符なしでホームに向かう。

 知人の、妻との離婚・・・「どうして彼が、女性でなく男の子をスパイに使ったかということが明らかに・・・」

 男の子:「ぼくは3つのキンを切られているから・・・」

 妻の回想(発言?):「そういえば入浴のときに性器をみたことがあるけれど、小さかった」

 海中のシーン。男の子たちが次々に裸で泳いでくる。大きな蛇がいて、男の子たちは次々にそれを縦に引き裂く。眺めるぼくの視点はなぜか海の底にあって、眺めながら去勢が行われているのだと考える。

(+o+)/
 やっぱ何日か過ぎると、かなり忘れて抜けがひどくなるね。ほとんど筋とか追えないもの。

-o_o-
 夢が現実化するなんて馬鹿な、と思うけれど、いきなり著作権法違反を指摘されたりしたぞ。(r)es家は遺伝的に、著作権を保護しようとする連中とは犬猿の仲の剽窃・詐欺・虚言一家なのだが、今回もまた同じ問題が生じたようだ!

 ところであるドゥルーズ研究者から「詐欺師」と罵られたことがあるが、ソーカルによればドゥルーズ(ドゥルージアン)がそもそも知的詐欺(師)だということになる。否定の否定が肯定になるとかいわれるように、詐欺の詐欺は誠実になるのだろうか? そんな馬鹿な。詐欺(師)の2乗、「詐欺(師)'」になるのだ!

 そもそも否定の否定は肯定にならず、「地獄」になるのではなかろーか。

(*O*)
 やばーい、また朝だ・・・。
 小鳥が鳴きはじめた。
 はやく正気に戻らないと。(しかし実はもちろんまるで戻りたくなんかないのだ。)

(OoO)
「タコでありたかったが、譫妄がそれを妨げた」

 パーティ(大学のサークルなどのOB会だったかな)で面識がある人何人かが、雑誌などの執筆・翻訳で活躍しまくっている。もちろん、単に奇矯な言動を繰り返していたばかりのぼくのことなど、向こうは忘れているだろうけれど。ぼくのほうは相変わらず奇行を繰り返しているばかりなのに、彼らは精力的に活動し、言論界の一翼を担っている。正直なところ、この相違に直面すると、激しい嫉妬に駆られざるを得ない。自分の場合は、「左翼でありたかったが、譫妄がそれを妨げた」のかな。

 脳神経系がパンクすると、数時間(ないし数日、数週間、数ヶ月、数年・・・)、機能停止、無能力状態に陥る。

 これがあるから、激昂、憤怒、不意の衝動の高まりがあっても、これまで何もしないでこられたんだろうなと思う。つまり、外に向かうんじゃなくて、自分のなかで何かが壊れ、機能が停止する。暫くは自分の部屋から、ベッドから出ず(出られず)、天井の模様の数を数えたりとか・・・。

 ほとんど「へろへろ」に近いが、自分が壊れるだけで他人を壊さないという点で、優れた機構だと思う。どういうわけでこういう機構が作動するようになったのかは、もはや自分でも思い出せないが。

 自分と同じような憎悪の発作に駆られる人達というのは結構いると思うんだけど、彼らの多くは成年に達するまでに「自然死」「事故死」等々の穏便な方法で消えて行くのだと思う。或いは何か事件を起こして(=パンクして)一般社会から間引きされ・隔離されて消えるとか。ぼくも彼らと大して(心情/信条において)変わらず、一種の分身関係にあるとつねづね感じている。事件を起こし、間引かれたのが自分であってもおかしくない・・・。この感情を引き伸ばしていくと、とめどもない妄想になってしまう。(「サリン事件も大地震もたけしのバイク事故も全部俺がやったんだ」)

 このところほとんど、監視人付きで外出している。いきなり擦れ違う誰彼を殺傷したりすると怖いから。といってもそんなことはしないのだが、用心に用心を重ねないと! あと、独り笑いもやめないと。

 そこにくるとネット上の掲示板等での会話は、鉄格子越しの会話みたいなもので(もちろん、鉄格子のなかに監禁されているのは(r)esのほうである)、憤激してしまっても相手に危害を加える心配がないのがいい。本当に安全で、害がない・・・。

2000/08/03 『CUBE』


 ヴィンチェンゾ・ナタリ監督『CUBE』をみる。そこそこ面白かったが、それほどでも・・・。やっぱ衝撃的だったのは、脱獄のプロが酸で顔面を溶かされて死ぬシーン。人間ドラマ風の筋立ては、そんなに怖くないしリアリティもないような。「実は独裁者などいない」とかいうのももはや当たり前のことで、強調する意図がわからないぞ。

[u_u]
 周期的に何もできなくなる。実際何もできず何もしないし、またしたくもならない。休養というのとも違って、なんだか本当に空っぽな感じ。ここ10年ほど、周期的に・・・。

 躁と鬱というのともちょっと違って、譫妄と常同というか。緊張と弛緩というか。《かなりの能力に恵まれ、前途洋々だったはずの人が、幾度となく増悪期を経た末に人格荒廃してしまい、子供みたいに目先にだけこだわって、治療にも頑強に抵抗するような状態を前にすると、「こんなにヘロヘロになっちまってはなぁ…」と言うため息しか出なくなるのも人情というもの》webmasterさんが書いているが、これはまさしくぼくのこの10年の過程そのものではないか。「かなりの能力に恵まれ、前途洋々だったはずの人」っていうのは当て嵌まらないだろうって? まあ客観的にみればそうなんだけど、自分自身、そして親など極めて狭い範囲の限られた人たちは、「何かがあるはずだ」と根拠がない信仰と期待をもっていた時期もかつてはあったのです。今は(r)es家では皆が皆過去の追想と無邪気で現実離れした夢想に精を出し、どんな将来計画をも顧みないのだけれど。一家揃って、現実から離脱してしまったのだ。家族の誰かが安楽死のことを言い出さない日はないし、皆が皆ボケ始めており、労働意欲もまるでないというのは困ったものだ。どんなに反目し合っていても、一家はやはり同じ根株から出た植物群でしかない、と今ほど実感している時期はない。昔は、環境からの離脱が可能かもしれないと思ったこともあったのだ。今ではそういう気概は誰ももっていない。皆が自分の写真を集めては見入り、突拍子もない意味不明な独り言を言い、欺瞞のうえに欺瞞を塗り重ねては悦に入り・・・。それが果てしなく続いている。一家心中という終わり方さえないだろう。もっとずるずる、ボケボケ、たらたらした終わり方がきっと・・・。

(*O*)/
 信(仰)といえばガタリの信(念)は、もうどうにもならないへろへろ状態、最低の強度でたらたら生存が引き伸ばされるだけという「最終状態」の存在を否定するという点にあったのだと思う。中井久夫は、木村敏と一緒に出てた『批評空間』誌の座談会で、「ガタリは本当に分裂病患者を診てあんなことをいっているのか」と発言していたが、確かに分裂病患者を診てはいたのだろう。ただ、医学(医師)の視点でみていたというよりは、むしろ看護の視点でみていたのではないだろうか。そもそも彼は(なぜか薬剤師の免許はもっていても)医師免許をもってなかったはずだし、ラボルド精神病院では人間関係調整みたいなことを中心に働いていたはずだ。(このへんのところについて、信頼できる客観的な評伝が出ないかなあ、フーコーには2冊もあるのに!)(科)学の視点ではないのだ。信(念)、信(仰)なのだ。つまり、究極的な診断を下し、分類し処置する視点ではない。究極的な診断(判断、判決、裁き・・・)そのものを拒否し、生が変わりうる潜勢力を信じ続ける視点なのだ。

(8O8)/
 ちょっとしたこと、例えば料理などを通じて生の可能性が急に開けることもあるかもしれない、というようなガタリの意見、過去を変えることさえできるかもしれないという意見は、ぼくにはとても魅力的に感じられる。しかし、まさにどうにもならない最低な気分のときにもガタリの信(仰)を自分でも共有できるか、といわれれば、もちろんそんなことはできないのだ。空しいかもしれない最後の期待としか感じられない。これは仕方のないことだ。「体質がすべてです」とビンスヴァンガーに語ったというフロイトの(決定論的)視点を自分自身に関して肯定できないのは、(科)学ではなく信(仰)の遠近法をすでに選択してしまっているからだ。なぜなら、自分は医師ではなく、その反対のものだからだ。他人の状態についてどういう判断を下すか、というようなことは、まるで問題にならないし、そんなことを気に懸けたことは一度もない。

(9o9)/
 ↑はちょっと論旨が乱れて意味不明になっている(いつものこと?)。要するに、一定の状態にあるときには一定の希望を抱かざるを得ないように必然的に決定されているが、しかしその希望が空しいかもしれないということを感じながらしかそうできない、ということがいいたい。信(仰)によくありがちな逆説で、反証されればされるほど希望にしがみつくという例のあれだ。

 # ちっとも望ましいことじゃないぞ、これは。やばやば。今日はもう寝てしまおう。

(.*<>*)
 まるで眠れない、困ったものだ。もう朝なのに。

 青空文庫で読める芥川龍之介『河童』には、以下のような有名なくだりがある。
河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆(さんば)などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。(引用は青空文庫から)
 河童は、人間の根本的な条件である出生後長い間の他者(親)への依存を必要とせず、産まれてすぐに神について講演したりする。つまり、一種の「可想界の人々」だといえよう。そもそも産まれる産まれないということをいうことが馬鹿げている、一挙に出来上がるのであって、教育・形成等々の概念を適用できない存在だ。

 人間の場合は、(譫妄や或いは他の特別の場合を除いて)親から生まれ、暫くの間全面的な依存状態において生き、漸次の形成/被形成を通じてのみ生きていられるので、河童のように、出生時に「生まれるか、生まれたくないか」という選択はできない。人間の場合は、そんな選択は根源的な選択、つまり「私」が生じる前にあるためにこの私が自由に選択したわけではないが、現に生きている以上「生まれる」ほうを自由に意欲し決断したはずだと推定するしかないような選択であるよりほかない。

 こういう事柄では普通の意味での「選択」が問題にならない、ということなのだが、それは仕方がないにせよ、第2の出生、つまり成年に達するときにはどうだろうか。すべての市民が市役所で「生まれるか、生まれないか」の選択をし、「生まれたくない」と思う人は保健所に直行して犬猫を死なせるように死なせてもらう、というのはどうだろうか。昨日も中央線に誰かが飛び込んでひどくダイヤが遅れたそうだが、行政も市民もたらたら不平不満を述べたり憎悪をぶつけたりするばかりで、死にたい人が最小コストで死ねる環境を整備するという当然の方向に進もうとはしない。最初の出生と同様、第2第3・・・の出生に際しても、選択が問題にならないかのように感じ考えているのだ。それはなぜなのだろう。さっぱりわからない。

(*<>*)/
 頭のなかで架空の会話が進行し、とめどもなくなることがしばしばある。こないだこんな情景の空想が自動的に進んだことがある。

 ぼくがあちこちで言いまくっている非道徳的な主張が、マスメディアで道徳的な発言を垂れ流している連中に発見されてしまい、糾弾されることになる。ぼくは、他人の生命を尊重する「本能」などと呼ばれているものを信じない出来損ないの代表として、ワイドショーに喚問される。道徳的な連中は、生命を大事にする感情は、理屈抜きのものであり、本能的なものであるが、最近は種々の要因でその本能が遺伝子レヴェルで(!)壊れてきた、などと狂ったような発言を繰り返す。ぼくは、そういう「本能」や「感情」はあなたがたにはもしかしたらあるのかもしれないが、自分の中にはどこを探しても見当たらない、だから少なくともそういうものが普遍的・必然的であるという主張だけは取り下げて貰えないか、と言い返す。すると、道徳的な連中は憤慨し始め、他人の苦しみに対する共感や想像力はないのか、あなたは被害者の身になって考えたことはないのか、などとお決まりの愚言を垂れ流し始める。ぼくは、そんなことができると思うほうがむしろ傲慢でしょう、と皮肉に告げる。道徳的な連中の血圧があがり、ワイドショーは、異端狩りのような雰囲気を呈してくる。道徳的な連中の一人が、やはり「教育」が、特に個人だの自由だのを強調する戦後民主主義の教育が誤っていたのだ、この気×いの存在が何よりの証拠だ、だからこそ教育を右寄りに偏向させ、地獄のようなボランティア強制、愛国心の吹き込み、反共、皇室への敬慕等々の規律・訓練を徹底せねばならないのだ、などとまたしてもお決まりの愚言を垂れ流す。ぼくは、強制される奉仕などていのいい強制労働であり、自分がもはや二度と教育を受ける必要がない年齢であるのを感謝せざるを得ない、といって相手を嘲笑する。また、自分は「人間を増やすのは厭わしいことである」との確信に基いて生物学的な手段によって自分を複製することはしないから、自分の「子ども」などと称される諸個体にそんな強制労働が課される憂き目に遭うこともなく、そのこともまた天(皇)に感謝せねばなるまい、と言う。道徳的な連中は騒ぎ始める。教育だ、教育が問題なのだ。親の顔がみたい、教師たちの顔がみたい・・・。ぼくは彼らの騒動をあざ笑い、教育など問題ではない、そもそも自分は形成された者ではないのだから、と告げる。道徳的な連中は、しかしそうはいっても君はもともとそういう極悪な思想を抱いていたわけではないだろう、種々の影響や体験をもとにしてそうなったんだろう、などと訊いて罠を仕掛けてくる。もちろん誘いには乗らず、そんなことは問題にもならない、自分は一挙に、一切の条件づけや制約なしに唐突に生じてきたのだ、それも今のままの姿、今のままの思想で、と告げる。自分は親の陰門から産み落とされたのでもない、虫のように汚穢から涌いて出たのだ、と言う。道徳的な連中は、ぼくと会話しようとする意志を失い、ひたすら嘲笑・非難の嵐を浴びせ始める・・・。混乱の只中でワイドショーは終わる。

(*<>*)/
 もちろんこれは妄想でしかないが、サディズム的というよりマゾヒズム的なものだという気がする。つまり、際限なく嘲罵を浴びせられる事態を、恐れつつも望んでいるのだ。

(+<>+)/
 法や正義、人倫、道徳、慣習といったものを日々踏みにじっているので、このところ道ばたで子ども連れの母親や若い女性、或いは小学生の群れなどと擦れ違うとき、相手のほうが足早で逃げるように去っていく。恐らく顔に「餌をやらないでください」「この顔みたら、119番」「悪」等の文字が刻み込まれてしまっているのだろう。恐らくはぼくが寝静まっている頃、自宅に密かに公安の刑事たちが上がりこみ、額に「悪」の文字を刻むのだ。本当ならば、なんと素晴らしいこと・・・。

2000/08/04 ロイド眼鏡に燕尾服

(O-O)
 昨日、ハロルド・ロイド主演『ロイドの巨人征服』をみた。とりたてて爆笑という場面はなかったが、心が和む。

2000/08/05 掲示板が割れる夢

(*O*)/  (夢の本文)世界全体がインターネットの掲示板になっており、ぼくはそこで迫害される。姿のみえない何者かにハンマーで打ちかかられる。からだがではなく、自分がそこに存在している掲示板(青い背景)そのものが硝子のように割れ、欠けたぎざぎざの箇所から混沌とした暗い色がみえる。

 この夢には出てこないが、画面をマウスでスクロールするときみたいに、文字や映像が滝のように滑り落ちる場面も最近しばしば出てくる。パソコンの遣り過ぎじゃろう。××新聞社に勤めて、真人間になろう! 取るから、採ってくれ!

2000/08/06 歌って健康

(o<>o)
 飲み会に。
 野球の審判兼自由業の学部生ひとり、大学院生2人、外資系の企業をやめて理系の大学院(博士過程)に入る人ひとり、それとぼく、という構成。
 「(r)es君は何やってるの?」
と訊かれて、「いや特には・・・」と答えると、間の悪い沈黙が後に。

 電車内で、スティーヴン・クレイン『赤い武功章』(岩波文庫)、ソフォクレス『アンティゴネー』(岩波文庫)、シェレール『ノマドのユートピア』(松籟社)を立て続けに読む。電車内でしか落ち着いて読書ができないというのは困ったことではなかろーか。

 それにしても、盆踊りのシーズンには素肌を多量に露出した少年少女達(日焼けしていたりとかする)が街路に繁殖・繁茂して、白豚というほかない肉体しかもたないぼくの嫉妬・羨望・悪意を誘う。ここ数日、盆踊りなどという性的享楽に興じる若者達の輪に突進してパラパラを狂ったように踊りまくる、という空想にとりつかれている。

 「へろへろ」、「ぽろぽろ」、「ばらばら」とかいう踊りはできないかなー。真っ先に布教者になるのになー。

 飲み会の席では、フランス現代詩を専攻してる知人が二の腕をまくって力瘤を作ってみせるなどマッチョな身振りを繰り返していたので、ぼくはその力瘤を指さし、「ここから子どもが生まれたらいいのにね、早産、流産!」などと掛け声を掛けてやった。すると彼は急に電波系な言動に陥り、「夕立ち。へへへ・・・」などとおやじギャグを呟いては自分独りで笑うといった壊れた反応を繰り返し始めた。うむむ・・・素晴らしい!

(*<>*)/
 ところで飲み会っていってもぼくは紅茶しか飲まなかった。酒でいろいろ失敗を繰り返しているから・・・。

 でも他の人は酒を飲んでいたから、壊れた反応を繰り返し始めたっていうのは酒が回ったからかも。

 「脳味噌に筋肉増強剤」、「職業・上司(部下より遥かに安い賃金で雇用され、形式的に部下達の業務を励ましたり叱ったりするだけの日々を送り、真っ先にリストラされるがためだけに存在している、贋の『上司』達)」、「日曜版で顔写真・氏名を公開され、暴徒百人が殺到して自宅に放火されたりして」、「『あのー部長、ぼくの家を盗聴してます?』『よくいわれるんだけどね!』」等々のネタを繰り返したが、悲しみに阻止されて、どれも今ひとつ受けなかった。

(0_0)
 あまりに太っていると、完全な脂肪の塊と化して、重力の法則に抗ってしっかり立っていられなくなり、自然に崩れてしまいそうな感じがする。他方、歩いているときなど、息を吸い込むごとにからだが風船のように膨れあがり、地に足がつかなくなって、雲の中の散歩のような感じになってくることがよくある。

2000/08/07 「切腹」で検索して来た方々へ

(*v*)/
 日記もくじ→「地獄のように重く豚よりも重い」での式貴士とボウルズの小説の紹介をどうぞお読みになってください。但し、満足が得られるという保証はできないけれど。どうしてここにくるかなあ。他に本格的な切腹サイト(こんな言い方はないかも)はないのかなあ。

 島田雅彦は三島の切腹に触れて「切腹は刀でやるオナニーだ」とかいっていたけど、式貴士やボウルズの想像力はそういう類比を遥かに超えちゃってますね。よくここまで考えつくなあ。特に式貴士のパラレル・ワールドを主題にした(ということになっている)『虹のジプシー』に到っては、science fictionというよりも、もはやsexual fantasyという感じです。

 そういえば大原まり子の『メンタル・フィメール』、『電視される都市』などにも性的幻想と残酷が結びついたゾクゾクするような場面があったような漠然とした記憶があるが、はっきり覚えてないし本ももう手元にないから、詳細な説明はできない。

 子どもの頃、少なくとも百回は繰り返し読んだ平井和正の狼男シリーズの暴力描写・性描写も凄かった。ぼくは無邪気にも、確か『人狼戦線』を中学時代友達に勧めて白い眼でみられてしまったことが・・・。

 『人狼天使』では、残酷+性描写が反ゲイ的な或る幻想に結晶していた。ニューヨークの街をさまよう茄子のような色をした巨大な男根をもった黒人男性(ここですでにPCの観点からすれば偏見にみちた設定として指弾されてしまうだろう)が、他の男性を無差別に襲って強姦し、その後肛門から腕を突っ込んで内臓を破り、殺してしまう、という場面。男は、上腕部に腕輪を嵌めており、それが「ここまで腕を突っ込んでやったぞ」という誇示の徴しなのだという設定だったが、幾らなんでもそんな阿呆な。結局黒人男性は、超人的戦闘能力をもつ狼男=犬神明に叩きのめされ、巨大な性器も折られて使用不能にされてしまうんだけど。(たぶんこれはフィストファックについての断片的な情報が、作家の頭のなかで殺人的で暴力的なイメージに転化してしまったんじゃないだろうか。作家が自分の想像力だけでこういうイメージに到達することがあるのかなあ。或いは、男の子の尻から手を入れて尻子玉を抜く河童の伝説を参照したりしたのか。そういえば、フロイトの『鼠男』症例に出てくる「鼠刑」をも思わせるが、これも一種の伝説、まことしやかな作り話なんだろうね。)

2000/08/09 子どもを産む

(*v*)/
 鈴木志郎康さんの詩。これも読んだのは10年以上前だけど、強烈な印象で忘れられない。
 一昨日あたりの日記で、飲み会で知人が二の腕をまくって力瘤を作って、ぼくが「その力瘤から子どもが生まれれば面白いのにね!」と言ったことを書いたけど、からだのあちこちから無闇に子どもが産まれてしまうというイメージのひとつの源泉は、この詩を読んだことあたりにあるのかもしれないと思っている。

  爪剥ぎの5月

  爪を剥ぐのは気分がよい
  それは新芽を出す気分だ
  焼け畳ごろり横寝で
  お膳に万力を設置する
  爪の一端をかたく止めて
  天井から下った一本の綱を頼りに
  くるりと、母親からもらった65キログラムの身体を回転させれば
  爪は見事に剥げてくれる
  全く、拭いても拭いても泉のように漢き出る鮮血は邪魔なものだ
  しかし
  血は地下水よりも諦めやすくて
  じきに止って
  私の指の先に
  感じやすくて柔らかい新生児が生れている
  中指の次は
  人差し指
  ああ、早く十人の新生児を
  指の先端に作ろう
  何がなんでも
  微風を鋭く痛みに変える
  指先の新生児たち!
  万才!

 (『新選現代詩文庫117 新選鈴木志郎康詩集』思潮社、18−19頁より)

(*o*)/
 ムルナウ『サンライズ』ハロルド・ロイド主演『ロイドの新婚』、ヘンリー・ハサウェイ監督、ジョゼフ・コットンマリリン・モンロー主演『ナイアガラ』を衛星放送でみる。

(*v*)
 『猛進ロイド』と『7年目の浮気』をみる。

 ところでロイドの映画って画面が綺麗で編集が細かい。そこら辺が好き! といいたいけど、そんなこと自信をもっていえるほど映画に詳しいわけじゃないです。ただ単に好き。

元気ですかー?