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ここ1ヶ月ほど読んでいた本をメモ。
- ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』(阿部六郎訳、新潮文庫)
- 同『曙光』(茅野良男訳、ちくま学芸文庫)
- 同『悦ばしき知識』(信太正三訳、ちくま学芸文庫)
- 『ニーチェ解読』(早稲田大学出版局)
- クレイン『赤い武功章』(岩波文庫)
- D.H.ロレンス『現代人は愛しうるか 黙示録論』(福田恆存訳、中公文庫)
- エルヴェ・ギベール『幻のイマージュ』(集英社)
- ソフォクレス『アンティゴネー』(岩波文庫)
- 『ギリシア悲劇全集3』(岩波書店)
- 吉田敦彦『オイディプスの謎』(青土社)
- 同『ギリシア人の性と幻想』(青土社)
- レオ・ベルサーニ『フロイト的身体』(長原豊訳、青土社)
- 『ミシェル・フーコー思考集成V』(筑摩書房)
さらに、考えていたことがら。
- (諸々の)力関係によって必然的に規定されて生じてくるのに出現し始めるや否や呪詛と道徳的非難をもって迎えられている、一群の人間形態に属する諸個人に残された最後の抵抗、闘争ならぬ闘争としての全体的消滅。
- 裁判形態と正義(フーコー、ニーチェ)について。これは今日、ラカン掲示板での昇華(崇高化)の議論と図らずも繋がってきた。もっとも自分のなかで繋がってきただけで、実際には何らの関係もないかもしれない。
- オイディプースとスピンクスの問答。「妊婦」が答えだったかもしれないというのはめっちゃ面白い。もっとも、他人には面白くないかもしれない。
このところ、いろんな事件が相次ぐと、ついつい
同情(共感・共苦)モードに入ってしまう。例えば、金属バットで母親を殴り殺してしまった少年はピアノがうまく、中学や高校の文化祭などで弾いていたそうだ。これも、まったく弾けない人に比べればうまいが、専門的なレヴェルでは問題にならないぼくのピアノの技術と一致。さらに、今日やってたテレ東の特集番組では、このことを告げるバックで『熊ん蜂の飛行』が流されていたが、この曲はかつてのぼくの十八番だった『バンブル・ブギ』という曲の元ネタだ。
それはもちろん、犯罪行為という主題に比べればまったく重要性のない細部に過ぎないが、些細な特徴の偶然の一致というのが、迷信じみた不気味さを醸し出してしまう。
彼を
自分で置き換えたくなる誘惑に駆られる。ある知人がいっていたように、サリンばら撒きも大震災もたけしのバイク事故も全部自分がやったんだ、などと言ってみたくなるわけだ ― そう口に出して言ったからといって、どうなるわけでもないが。いや、まあ気休めにはなるだろうか。実際にはやらなかった(やれなかった)という気休め、ないし無力感。
2:14 00/08/20
さっき個人で編集の仕事をしている知人から電話が掛かって、某左翼雑誌が編集の手伝いを募集してるそうだけどやってみないか、と誘われる。まず思い浮かんだ重要事項 ― つまり金のことを訊いてみると、予想通りというべきか、「たぶんほとんど出ないんじゃないかな」とのこと。「じゃあ、駄目ですね」と返事するが、ふと思い直して「でも、人脈ができてそれで金になる仕事を紹介してもらえるかもしれませんね」と言ってみる。さらに話をしてみると、どうも正社員で迎えてもらえれば月収15万円にはなるらしく、しかも競争率は高くないらしい。競争率が低い理由は、ほかの仕事をすれば15万円以上稼げるからとのことだが、ぼくについていえば、現状では月収1万円未満 ― ちょっとした違法行為で得る小遣いだけ ― なので、15万円という額はそれなりに魅力ではある。
心が動いてはいるが、しかし25日には憲法改正を巡る極悪な主張で知られる保守系某新聞社の秋期採用試験を受けることになっている ― しかも、その新聞を両親がたまたま取っていたからという理由でだけ。右へ左へと節操など無いのか? と聞かれれば、「無い」と答えるよりほかない。憲法改正論議と同様革命についても、いっさいの情熱、信(仰)を欠いている ― 奉仕活動だの何だの比べたら集団自殺のほうが百倍もましだと思っているし。
その某新聞社を何故受けるのかといえば、受けるだけで両親の気休めになるだろうし、万一受かれば金銭にアクセスする機会を得ることになるかもしれないからだ ― 宝くじを買うようなむなしい期待だが。というのも、筆記であれ口述の面接であれ、心にもないことを書いたり言ったりすることはできないからだ。家族の犠牲や若者達の禁欲を代償にして介護を充実させるより、皆が好きなときに楽に死ねる設備を保健所で提供すべきだ、という持論。「少子化」を巡る愚論 ― 若者達を
洗脳して産みたい気持ちにさせる等々 ― を直ちにやめて、海外の飢えて死を待つばかりの子ども達を
輸入すべきだ、という持論。これらの持論を隠して、出口のない糞壷のような道徳的な「世論」を鸚鵡返しにすることなどどうしてできようか。もちろん、
試験という観点からすれば自殺行為だろうが。しかし、どんなに反社会的な情念で神経を一杯に満たしていても、
誠実の美徳だけは最後まで失いたくないものだ。犬のディオゲネスのように(高過ぎる理想かもしれないが)。
この新聞社の受験には、何らの現実的な希望をもっていない。だから今日の知人の申し出は本当にありがたかった。しかし、これに応じることさえ、やはり欺瞞というほかはない。なぜなら、ぼくは
左翼になりたかったのかもしれないが、実際には
タコでしかないからだ。多過ぎる足でついつい通行人を殺害しては悲しみのあまり眼球が飛び出て流れ去ってしまい、罪責の念から自ら酢浸けになって、太陽から「らぴー。らぴー。」と嘲弄される目が3つクンそのものだ。― つまり、何かに参与しようとする真正な情熱をまったくもっていない。ぼくが求めるのはただ2つ、気休めと金。それだけだ。
「男芸者」という言い回しがぴったりくる、と思う。だが、それを別に恥とも感じない ― というわけではないが、そうありたいものだと願っている。有力者に阿諛追従し、ご機嫌をとっては生活を援助してもらう、というのは、物心ついたときから今にいたるまでずっとやってきていることだし、違ってきているのは、年齢を重ねて偏屈になればなるほど媚態の
技術が劣悪化する一方である、という一点だけだ。男芸者、しかも芸がない芸者 ― といって低劣な冗談を思いつくが、あまりに卑俗なので、言わないでおこう ― で何が悪いのだろうか。あちこちで嘲弄の的になっている某氏にさえ、下級詐欺師仲間、男芸者仲間として心から同情する ― 彼の過ちはただ一つ、自分が精通していると称する事柄(「殺人」)を主題化して極めることをせず、よく知らない分野において自分を商品にしようとした、ということだろう。(科)学の言説のみが是認されるべきだ、とはまったく思わないので、言語や心理について各人が好きなことを好きなように語って何も悪いことはない、と思う。ただそれが唯一的な「真理」の意味価をもって提示されるときに問題が生じるのだろう。話題にされている某氏の場合はどうだか知らないが、例えば『シュレーバー回想録』における主張 ― 自分の身体において女性神経が繁茂しているから科学的に検証してもらいたい ― に直面して、ユーモア的な解放感を覚えないものがあろうか。某氏が(嘲弄されているとおり)「男芸者」であるならば、そのことを自覚して、自分自身の真の概念と一致するよう努めればいいはず。もう一歩進み、数段ハードルを飛び越えて、
シュレーバー的な道を独り犀の如くに歩めばいいはずだ。
大学時代の知人で、どこかの島からやってきて、大学入学後アナーキストになり ― といってもこれまで幾度か言及してきた人とは別の人だが ― ある時東郷健氏の講演会を大学構内で執り行った人がいる。その後彼は左翼のグループを離れ、今は確か弁護士を目指して猛勉強を続けているはず。
その彼があるとき、東郷氏が経営しているバーに連れていってくれた。朝まで飲んで、東郷氏から氏が書いたサイン入りの本 ― 回想記 ― を戴いて帰った。その本はとても面白くてこれまでに何度か読み返したのだが、一番気になっているのは、男性同性愛者のことを指す「男ガマ」という呼称が頻繁に用いられていることだ。いま広く用いられる俗語は、もちろん発音が似てはいるが別の言い方をしている。「男ガマ」という表現はある時代には広く用いられていたのだろうか。どういう意味価を帯びていたのだろうか。何が問題なのか、容姿か声か、それともただの語呂合わせなのか。 ― というようなことを、以来もう4年にもなるが、たまにぼんやり考えている。「男芸者」という意味深長な嘲罵の表現も、謎めいた「男ガマ」 ― 今でも誰かは自然な態度で用いることができるのだろうか? ― を直ちに想起させる。