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夢目記


日記鯖システム管理者からのお知らせ

  • HTTPSに対応し、http://ds.sen-nin-do.nethttps://ds.sen-nin-do.net のどちらでも日記鯖にアクセスできるようになりました。 なお、当面はHTTPとHTTPSのどちらも利用可能としますが、将来的には http://ds.sen-nin-do.net へのアクセスは https://ds.sen-nin-do.net へ転送する予定です。
  • 都合により日記鯖のURLが http://ds.wa-mo.to/ から http://ds.sen-nin-do.net/ に変更となりました。 突然で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。(2019/01/27)
  • 日記鯖の仕様変更、不具合対応等については、こちらの記事もご覧ください。

元気です。

2000/08/11 試験の夢


(@o@)
 『ロイドの一番槍』、ルネ・クレール監督、モーリス・シュヴァリエ主演『君とひととき』、『評決のとき』をみる。このところ、頭が重い。またしても、脳が妊娠しているような感じだ。やばやば。興奮し過ぎっちゅーの。(そういえばパイレーツって今どこで何してるんだろう? 「コカマのせいちゃん」は?)

(@O@)/
 まさかチロ公に噛まれて狂犬病になってんじゃあるまいなー。ところで「狂人病」ってのはないのかなー。

(@v@)
 それにしても、嫉妬心を抑えるにはどうしたらいいのだろう。特定の誰かに対する嫉妬ではなくて、不特定多数への、ほとんど万人に対する嫉妬。数年も続いていて、夏になるとボルテージが一気に高まる(性欲の高まりと軌を一にしているような気が)。何日も何週間も悩んだ挙句、結局たて続けに映画をみることで、「昇華」とまではいかないにせよ苦痛の緩和を得ることになる。暫定的な慰めでしかないのだけれど。

(@o@)
 キング・ヴィダー監督の『城塞』をみる。

(@o@)
 『ロイドの要心無用』をみる。

2000/08/12 僕も終身犯

(@v@)/
 ジョン・フランケンハイマー監督/バート・ランカスター主演『終身犯』(Birdman of Alcatraz)を見てえらく感動。展開が不自然だったり釈然としないところが幾点かみられたけれど。

 不自然の最たるものは、老いた母親が態度を豹変させて、突然息子の仮釈放に反対し始め、生涯刑務所にいるほうが息子のためになるのだなどと記者達の前で言い始める場面。ところが、みていて一番どきりとさせられるのもこの場面なのだ。

 また、孤島の刑務所に移されて後、刑務所の歴史を書こうとする主人公の姿は一種フーコーとダブってみえるが、神父に口を滑らせて計画が駄目になるところは何ともお粗末という感じ。でも嫌いじゃないんだけど。

 1ヶ月ほど前にスティーヴン・キング原作の刑務所の映画(『ショーシャンクの空に』)をみた。いずれも、感動すまいと思ってもやっぱり泣けてしまった。根が単純なんだろうなあ。

 『終身犯』にかなり感情移入してしまったのは、映画とはもはや関係ない個人的な理由によると思う。そのことについてはまだ考えが未整理だし、もう遅い(深夜3時を過ぎてしまった・・・)ので翌日以降に。

2000/08/13 スフィンクス尽くし

p_p)
 すっかり熱中して、スフィンクス(スピンクス)について以下の抜粋・コメントを作成。

2000/08/14 スフィンクス追加


2000/08/15 グルーチョってかっこいい!

(!v!)
 マルクス兄弟主演『オペラは踊る』をみる。って最近BS11の『懐かし名画劇場』を追ってるだけじゃないか。

^v^/
 最近、長い夢を毎日みても、記録する元気がまるでない。端的に、弱っている、という感じだ。起きているときもボケっとしてるし ― 監視者つきで商店街に買物に行く・老いて足腰の弱ったわんちゃんの世話をする・衛星放送か図書館で借りてきたヴィデオで映画をみる、という3タイプ以外の行動をまるでしていない(とまでいうといいすぎか)。周期的に、どうにもならない気分の落ち込みがあるんだけど、今はなんというか、これに自足してそれなりの幸福感と満足を覚えてしまっている、という点がなにより違う。もはや何かに期待する、ということがまるでないのだ。その逆に、過去の幾つかのイメージを毎日毎日反芻して過ごしている。

 『終身犯』に共感したのは、毎日決まりきった範囲をひと廻り散歩し、基本的に家族(といっても映画の囚人も現実のぼくもほとんど母親だけだが)とのみ面会・会話する ― それ以外の他人達は基本的に無いも同然 ― という単調な日々が、自分のとぴったり重なってみえたからだ。唯一の気晴らし・生きがいが動物 ― 終身犯氏の場合は鳥、ぼく(達)の場合は犬(チロ)という無視しうる違いはあるが ― というのも、同じ。

 終身犯氏も、はじめ他人一般に対して人を人とも思わぬ傲慢な態度を取り、侮蔑・嘲弄・挑戦といった調子でのみ応対していたわけだが、これまた現在の自分の態度に重なる。他人達に関心をなるべく持たないように気をつけていても、ついつい攻撃的な態度に出てしまったり ― もちろん、ぼくがどんなに攻撃的な態度をとろうと相手にとっては痛くも痒くもないだろうが。

^o^/
 そういえば数日前、ひさびさに激しい金縛り(+入眠?幻覚)に遭った。からだが冷えたのか、あるいは理由もなく朝まで起きていたのが神経に悪かったのか。

 特徴は、眼は醒めていて意識ははっきりしているが、ものすごい速さで鮮明な映像や音が生じては消え、生じては消え・・・といったことが繰りかえされ、それと身体がちぎれるような妙な感覚が重なる、という点だ。念のために言い添えれば、麻薬はもちろん酒もやっていない状態で、のことだ。

 夢は実際には数秒のあいだに生じるイメージなのに、目覚めてから思い起こすとずいぶん長いあいだ続いていたように感じられる、とよくいわれるけれど、この入眠時幻覚のめまぐるしい転変というのは、目覚めた(ないしは半分目覚めた)意識でその過程を体験しているようなものなのだろうか? なんとなく、ヴィデオを早送りの状態でみているような感じなんだけど。映像とか音声とか。急にばーっとリアルになったかと思ったら、数秒後には消えてしまう。そして体験しているあいだは、「覚えていよう、覚えていよう」と決意しているのに、目が醒めるとイメージも意味も色褪せて消えてゆく。

 子どもの頃もよくこういう体験をしていたが、その頃は、本当に幽霊とかお化けがあらわれたのだと思っていた(『ムー』の愛読者だったから・・・)。ついこないだこんな面白いサイトをみつけたし、体験自体がどんなに不気味でも恐れる必要はないらしい、とは思うのだけれど。やはり心配なのは、夢や幻覚と狂気の関係を考えるとき、体験そのものよりも、意味づけのほうが重要なのではないかと感じるからだ。

 例えば、10歳前後のころみた悪夢ないし幻覚では、悪魔にとり憑かれた友達が追ってくるのから必死で逃れる夢からめざめると、天井に雲のような黒いものが浮いていて、何か読経のようなくぐもった声で語り掛けてきていた。逃げようと思っても起きられないし、手が動いたから耳を覆ってみたが、声はかえって明瞭になるばかりだった。だんだん声がはっきりしてきて、「悪いことをしろ、悪いことをしろ」といっているのがわかった。そのまま布団のなかで怯えていて、いつのまにかまた眠り込んでいた。翌朝目覚めて、大人達にこの体験を話したが、誰も信じてくれなかった。

 大学生の頃の悪夢ないし幻覚では、自分の姿を映画の画面をみるようにみていて、それを解説するナレーションの声が延々ときこえた。

2000/08/17 フランコ・チッティってかっこいい!

~v~)/
 パゾリーニの『アポロンの地獄』を図書館で見、帰宅して衛星第2放送で『マルクス一番乗り』をみる。いい一日だったかもしれないが、夏風邪をひいてしまった。

@v@/
 『マルクス兄弟 珍サーカス』をみる。

2000/08/19 (悪)夢絵

@O@/
 1997年前後、最も頭がおかしかった頃にかき殴っていたのを取り集めてみた。ぼくおよび当時のぼくの友人以外に興味をもつ人間がいるとも思えないが。


#o#)/
 どうしたわけか、とてもだるい。ひどく長い厭な夢ばかりみている。

2000/08/20 男芸者、男ガマ

@<>@/
 ここ1ヶ月ほど読んでいた本をメモ。
  • ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』(阿部六郎訳、新潮文庫)
  • 同『曙光』(茅野良男訳、ちくま学芸文庫)
  • 同『悦ばしき知識』(信太正三訳、ちくま学芸文庫)
  • 『ニーチェ解読』(早稲田大学出版局)
  • クレイン『赤い武功章』(岩波文庫)
  • D.H.ロレンス『現代人は愛しうるか 黙示録論』(福田恆存訳、中公文庫)
  • エルヴェ・ギベール『幻のイマージュ』(集英社)
  • ソフォクレス『アンティゴネー』(岩波文庫)
  • 『ギリシア悲劇全集3』(岩波書店)
  • 吉田敦彦『オイディプスの謎』(青土社)
  • 同『ギリシア人の性と幻想』(青土社)
  • レオ・ベルサーニ『フロイト的身体』(長原豊訳、青土社)
  • 『ミシェル・フーコー思考集成V』(筑摩書房)
 さらに、考えていたことがら。
  • (諸々の)力関係によって必然的に規定されて生じてくるのに出現し始めるや否や呪詛と道徳的非難をもって迎えられている、一群の人間形態に属する諸個人に残された最後の抵抗、闘争ならぬ闘争としての全体的消滅。
  • 裁判形態と正義(フーコー、ニーチェ)について。これは今日、ラカン掲示板での昇華(崇高化)の議論と図らずも繋がってきた。もっとも自分のなかで繋がってきただけで、実際には何らの関係もないかもしれない。
  • オイディプースとスピンクスの問答。「妊婦」が答えだったかもしれないというのはめっちゃ面白い。もっとも、他人には面白くないかもしれない。




 このところ、いろんな事件が相次ぐと、ついつい同情(共感・共苦)モードに入ってしまう。例えば、金属バットで母親を殴り殺してしまった少年はピアノがうまく、中学や高校の文化祭などで弾いていたそうだ。これも、まったく弾けない人に比べればうまいが、専門的なレヴェルでは問題にならないぼくのピアノの技術と一致。さらに、今日やってたテレ東の特集番組では、このことを告げるバックで『熊ん蜂の飛行』が流されていたが、この曲はかつてのぼくの十八番だった『バンブル・ブギ』という曲の元ネタだ。
 それはもちろん、犯罪行為という主題に比べればまったく重要性のない細部に過ぎないが、些細な特徴の偶然の一致というのが、迷信じみた不気味さを醸し出してしまう。自分で置き換えたくなる誘惑に駆られる。ある知人がいっていたように、サリンばら撒きも大震災もたけしのバイク事故も全部自分がやったんだ、などと言ってみたくなるわけだ ― そう口に出して言ったからといって、どうなるわけでもないが。いや、まあ気休めにはなるだろうか。実際にはやらなかった(やれなかった)という気休め、ないし無力感。

2:14 00/08/20

 さっき個人で編集の仕事をしている知人から電話が掛かって、某左翼雑誌が編集の手伝いを募集してるそうだけどやってみないか、と誘われる。まず思い浮かんだ重要事項 ― つまり金のことを訊いてみると、予想通りというべきか、「たぶんほとんど出ないんじゃないかな」とのこと。「じゃあ、駄目ですね」と返事するが、ふと思い直して「でも、人脈ができてそれで金になる仕事を紹介してもらえるかもしれませんね」と言ってみる。さらに話をしてみると、どうも正社員で迎えてもらえれば月収15万円にはなるらしく、しかも競争率は高くないらしい。競争率が低い理由は、ほかの仕事をすれば15万円以上稼げるからとのことだが、ぼくについていえば、現状では月収1万円未満 ― ちょっとした違法行為で得る小遣いだけ ― なので、15万円という額はそれなりに魅力ではある。

 心が動いてはいるが、しかし25日には憲法改正を巡る極悪な主張で知られる保守系某新聞社の秋期採用試験を受けることになっている ― しかも、その新聞を両親がたまたま取っていたからという理由でだけ。右へ左へと節操など無いのか? と聞かれれば、「無い」と答えるよりほかない。憲法改正論議と同様革命についても、いっさいの情熱、信(仰)を欠いている ― 奉仕活動だの何だの比べたら集団自殺のほうが百倍もましだと思っているし。

 その某新聞社を何故受けるのかといえば、受けるだけで両親の気休めになるだろうし、万一受かれば金銭にアクセスする機会を得ることになるかもしれないからだ ― 宝くじを買うようなむなしい期待だが。というのも、筆記であれ口述の面接であれ、心にもないことを書いたり言ったりすることはできないからだ。家族の犠牲や若者達の禁欲を代償にして介護を充実させるより、皆が好きなときに楽に死ねる設備を保健所で提供すべきだ、という持論。「少子化」を巡る愚論 ― 若者達を洗脳して産みたい気持ちにさせる等々 ― を直ちにやめて、海外の飢えて死を待つばかりの子ども達を輸入すべきだ、という持論。これらの持論を隠して、出口のない糞壷のような道徳的な「世論」を鸚鵡返しにすることなどどうしてできようか。もちろん、試験という観点からすれば自殺行為だろうが。しかし、どんなに反社会的な情念で神経を一杯に満たしていても、誠実の美徳だけは最後まで失いたくないものだ。犬のディオゲネスのように(高過ぎる理想かもしれないが)。

 この新聞社の受験には、何らの現実的な希望をもっていない。だから今日の知人の申し出は本当にありがたかった。しかし、これに応じることさえ、やはり欺瞞というほかはない。なぜなら、ぼくは左翼になりたかったのかもしれないが、実際にはタコでしかないからだ。多過ぎる足でついつい通行人を殺害しては悲しみのあまり眼球が飛び出て流れ去ってしまい、罪責の念から自ら酢浸けになって、太陽から「らぴー。らぴー。」と嘲弄される目が3つクンそのものだ。― つまり、何かに参与しようとする真正な情熱をまったくもっていない。ぼくが求めるのはただ2つ、気休めと金。それだけだ。

 「男芸者」という言い回しがぴったりくる、と思う。だが、それを別に恥とも感じない ― というわけではないが、そうありたいものだと願っている。有力者に阿諛追従し、ご機嫌をとっては生活を援助してもらう、というのは、物心ついたときから今にいたるまでずっとやってきていることだし、違ってきているのは、年齢を重ねて偏屈になればなるほど媚態の技術が劣悪化する一方である、という一点だけだ。男芸者、しかも芸がない芸者 ― といって低劣な冗談を思いつくが、あまりに卑俗なので、言わないでおこう ― で何が悪いのだろうか。あちこちで嘲弄の的になっている某氏にさえ、下級詐欺師仲間、男芸者仲間として心から同情する ― 彼の過ちはただ一つ、自分が精通していると称する事柄(「殺人」)を主題化して極めることをせず、よく知らない分野において自分を商品にしようとした、ということだろう。(科)学の言説のみが是認されるべきだ、とはまったく思わないので、言語や心理について各人が好きなことを好きなように語って何も悪いことはない、と思う。ただそれが唯一的な「真理」の意味価をもって提示されるときに問題が生じるのだろう。話題にされている某氏の場合はどうだか知らないが、例えば『シュレーバー回想録』における主張 ― 自分の身体において女性神経が繁茂しているから科学的に検証してもらいたい ― に直面して、ユーモア的な解放感を覚えないものがあろうか。某氏が(嘲弄されているとおり)「男芸者」であるならば、そのことを自覚して、自分自身の真の概念と一致するよう努めればいいはず。もう一歩進み、数段ハードルを飛び越えて、シュレーバー的な道を独り犀の如くに歩めばいいはずだ。

 大学時代の知人で、どこかの島からやってきて、大学入学後アナーキストになり ― といってもこれまで幾度か言及してきた人とは別の人だが ― ある時東郷健氏の講演会を大学構内で執り行った人がいる。その後彼は左翼のグループを離れ、今は確か弁護士を目指して猛勉強を続けているはず。
 その彼があるとき、東郷氏が経営しているバーに連れていってくれた。朝まで飲んで、東郷氏から氏が書いたサイン入りの本 ― 回想記 ― を戴いて帰った。その本はとても面白くてこれまでに何度か読み返したのだが、一番気になっているのは、男性同性愛者のことを指す「男ガマ」という呼称が頻繁に用いられていることだ。いま広く用いられる俗語は、もちろん発音が似てはいるが別の言い方をしている。「男ガマ」という表現はある時代には広く用いられていたのだろうか。どういう意味価を帯びていたのだろうか。何が問題なのか、容姿か声か、それともただの語呂合わせなのか。 ― というようなことを、以来もう4年にもなるが、たまにぼんやり考えている。「男芸者」という意味深長な嘲罵の表現も、謎めいた「男ガマ」 ― 今でも誰かは自然な態度で用いることができるのだろうか? ― を直ちに想起させる。

元気ですかー?