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- ルイ・マル監督(モーリス・ロネ主演、ジャンヌ・モロー助演)『鬼火』(1963年)
- アーサー・フリード監督(エバ・ガードナー主演)『ショウ・ボート』
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『ショウ・ボート』のほうは途中で厭きてろくにみていないが、『鬼火』はかなりキました。やばやば。半年くらい前に読んだ島田雅彦の『自由死刑』を思い出す。抑鬱男の自殺、なんてテーマは観ている自分の現状に嵌まり過ぎ。良くないなあ。
ロージーの『エヴァの匂い』でかなり印象的な貌・姿態をみるものの脳に灼きつけるジャンヌ・モローが『鬼火』でもちょっと(10分くらいかな)出てくる。役名も同じ「エヴァ」。
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毎年夏はかなりやばい。特に8月。日に日に何もしたく(でき)なくなり、寝てばかりになる。朝まで感情が縺れて眠れず、日中は無気力状態。夕方(6時前後?)に熟睡モードに入り、リアルな(悪)夢を毎日みる。考えることといったら、
奇蹟とか
不意の消滅といったことばかり。『同性愛と生存の美学』(哲学書房)というアンソロジーに入ってるエッセイでフーコーが提示していた、自殺志願者のためのユートピア ― モデルはなんと、東京・渋谷のラブホテル街! ― のことを考え、
目本とか
悦びの島といったありもしない土地を空想する。
そういえば去年も無力感に堪えられなくなり ― その理由はといえば、修士論文がどうしても書き始められないということだったが ― やはり8月末か9月頭ごろに完全にダウンしてしまったんだったっけ。そのときは、近所のコジマデンキに行ってCDラジカセを買い、母親を東京見物に連れていく、などして気晴らし ― 「気晴らし」の「気」は「
キ」、つまり「××××」の頭文字? ― したものだった。そんな安易な手段でとにもかくにも自分を誤魔化せるんだから大したことなかったというわけか。
全然関係ないが、チロチャンが日に日に弱っている。こちらは老衰。だってもう16年目だから、人間に直せば ― ってどういう根拠なのか知らないが ― 百歳を越えてるかも。足腰も立たず ― 十中八九自分で立てないので、腰を支え持ってエイヤッ! と起こしてやらないといけない ― ウンコをきちんとひり切ることさえもうできない。人間の側がチロチャンの目つきや態度で察知して、立たせて適当な場所(ベランダ、廊下等)に歩かせ(或いはそこまで抱えて運び)、おしっことかうんこをさせ、括約筋に力が入らず出きらないときには専用タオルで拭き取ってやらないといけない。ウンコまみれのタオルはまずトイレで水洗し、次いで専用の洗濯石鹸で揉み洗い・踏み洗いする。幾ら(r)es家が人間の習俗を逸脱しているからといって、犬のウンコ塗れの雑巾を自分らが着る服と一緒に洗濯機で洗う勇気はない。
それどころか、ここ1週間ほどチロチャンのウンコに血が混じり、タオルが血まみれになっている。いわゆる「下血」か? 内臓がどこか悪いのだろうか? ― 内臓が悪くなくとも足腰の様子や荒い呼吸から推して、体力がかなり落ちているのはわかるのだが、それに追いうちを掛けるような・・・。しかも昨日今日と出血が激しい。今日などは、ぼく自身がはっきりみてしまった。もう周りの毛も抜けてそこのピンク色の皮膚が露出している肛門の奥から、湧き水が出てくるように鮮血が沸いてくるのだ。どうも拭きすぎて切れたとかそういうレヴェルの話ではないらしい。消化不良の鳥の骨が細かく砕けてあちこちに刺さったり切れたりしたんじゃないか、と母はいう。ぼくは、尻などにできている大きな腫瘍めいた物と関係あるのではないかと推測している。いずれにせよ、どうしてやることもできないし
(獣医に保険適用を、というのは無理にせよ、保健所かどこかで安く診てくれればいいのに)・・・。
このところ終日無気力に過ごしているぼくも、チロチャンの排泄の世話とその処理だけは熱心にやる。というか、熱心すぎるようだ。昨日など、一日の大半がそれに費やされた。2時間おきにチロチャンを起こして排泄させ、汚れた雑巾を偏執狂的に洗いまくり、干す。するともう次ぎの排泄の時間になっていたりとかして。今日はそれで参ってしまった。ヒステリーの発作を起こし、あれこれ音程を変えて独り笑いの練習、元気だったころのチロチャンの甘える鳴声(「フンフンフンフンンフンフンフンフンフーーン・・・」)の物真似などに明け暮れたり、家族にあたり散らしたり、頼まれもしないのにご近所を巡視・巡回したりした。やばやば。正(気)に戻らないと。
~(・仝・)~
(上記の顔文字の出典はこのサイト。すごいなあ。)
チロチャンの鳴声について。
- 仔犬のころ、水(「ぶーちゃん」)とか食べ物、お菓子(「おいしーおいしー」)が欲しいとき、口を閉じたまま鼻を鳴らして「フンフンフンフンフンフンフンフーーン・・・」と悩ましげな声で鳴いたりしていた。子どものころぼくは毎日この声に合わせて自分も鳴いて遊んでいた。
- 元気な成犬になると、「ワン、ワン、ワン」という例の精悍な吠え声で吠える。これも真似した。
- このところウンコが出ずに苦しむと、まるで人間が苦しんで呻くような「ウォーン、ウォオオーン」という、なんともいえない声で鳴く。母親は「狼みたいな声」というが、ぼくは狼の鳴くのを聴いたことがないからなんともいえないが。ここしばらく、チロチャンは上記2つの鳴き方をほとんどせず、ほとんど沈黙の犬になってしまった。友達が遊びにきて家に入ってきてもしばらく気付かないほどに衰えてしまったのだ。耳が遠くなったらしいことと関係あるのかなー。で、全然鳴いたりしなくなったのかと思っていたところに、突然夜中にこの”狼”の声が聞こえてきたときには本当に驚いた。ショックだった。だって、本当に苦しそうなのだ。いまにも死にそうなのだ。結局ぼくはうろうろするばかりだったが・・・。その後この声について家族で話しあってみると、母親が、九州に居たころ ― もう6年以上も前 ― このタイプの鳴声を聴いたことがある、と言い出した。チロチャンの出産のときだ。陣痛で苦しみ、ぽこぽこ仔犬を何匹も産んだとき、こういう鳴き方をしたというのだ。なるほど、目から鱗。年老いて弱ったチロチャンは、なんということか、ウンコするのにも出産同様のフンバリが必要になってしまったのか。
6・ェ・6
(この動物顔文字(こいぬ)の出典はさっきと同じ。)
チロの鼻。
- チロチャンは兄弟姉妹数匹と一緒に大分県は別府市のどっかの山のなかで段ボール箱にいれて捨てられていたのを、母の知人で別府のホテル『キャッスル』の女支配人さんが箱ごと拾ってきたんだった。たまたま、そのころ母がぼくを連れて『キャッスル』に遊びに行った(温泉が素晴らしかったのを覚えている)。当時『星になったチロ』とかいう絵本を読んでえらく感動していたぼくは、段ボールの仔犬たちのうち一匹と目が合ってしまい、動物嫌いの父が盲腸炎で入院中なのをいいことに、貰いうけて帰った。あとで聞いた話だが、残った仔犬達は皆、貰い手が見つからず保健所に引き渡されてしまったという。幸か不幸か、同輩のうちチロチャンだけが生き残ったのだ。― 仔犬のころのチロチャンはすばしこく、あちこちでオシッコをしては叱られ、鼻は真っ黒でいつもべとべとに濡れていた。
- (贔屓目にみるからかもしれないが)均整のとれたからだつきのすてきな成犬に育ったチロチャンの鼻は、どんどん色が抜けて、ほとんどピンク色になった。(r)es一家は皆で、「レッドピンク、レッドピンク」と意味不明瞭な掛け声を発してチロチャンの鼻のことをからかっていた。母は、「チョンチョンチョンチョンSEXして、子どもをぽこぽこ産むからよ」と過激な(しかし説得力のない)理由づけをしていたが。
- 老いて死に近くなったチロチャンの鼻の色は、どうしたわけか仔犬のころのように、だんだん黒に戻ってきたのである。これはいったいどうしたわけだろう。散歩など外に出られなくなったから、アスファルトの道路に鼻を擦りつけてものの臭いを嗅ぐということがなくなった(できなくなった)からかも。
憲法改正論議に熱心な某保守系新聞社の秋期採用試験の受験票が送られてきた(両親が大喜びしているが、ぼく自身はかなり憂鬱だ)。試験は27日。ずっと25日だと思い込んでいたが ― 間違いだった。左翼系の出版社の仕事を紹介してくれそうな知人は終末の土日に会社に連れていくような話をしていたから、メールでも送っておかないと。最近、ちょっとした用事でもやり遂げられず、一日中独り笑いに没頭したりしているから、忘れないようにしよう。
さて、試験対策としてまずやったことは、近所のスーパー(マルエツ)の100円均一コーナーに行って100円の時計とベルトを買うこと。みるからにチープで、非常に素晴らしい印象だ。次いで、答案の草稿を練る。憲法9条については、それを変えて交戦権を回復するくらいなら、国民の生存権を否定したほうがましだろう、と書くことにしよう。あぁ、
左翼じゃなくて、
タコなのだ ― そうしたほうがなぜましなのかという合理的根拠はどうしても思いつかない。強いていうなら、そのほうがぼくの
好みだからということにでもなろうか。憲法を変えるくらいなら
刑法を廃止したほうがいい、といったほうがインパクトがあるかな。或いは、どっちもインパクトもくそもないのか。
まあそれはどうでもいいが、こんがり日焼けしてピアスだらけのかっこいい茶髪の男女に対する嫉妬、呪詛のことばをぶつぶつ呟きながらスーパーに行ったおり、こんな考えが思い浮かんだ。凶悪事件を起こしたやつが逮捕され拘禁されると奇矯な言動を呈し始めることがあり、そうすると、いやあれは精神病じゃなく
拘禁反応なのだ、とか、もっとひどい場合には、責任能力がないふりをするための
演技なのだ、といったことが語られたりする。で、そのことについてだが、そういう行為というのは、責任能力がないふりをしている、というのではなく、もっと積極的に、自分には責任がないと主張し、責任を負うつもりがないのだということを身振りと態度で示している、ということなのではないだろうか。こういうことを考えたのは、某新聞社の試験日が近づくにつれて、音程を変えた独り笑いの練習など奇矯な言動を繰り返しているここ数日の自分の観察からだけれど。演技ではないが、「本当」でもない。単にごくごく自然にそういう奇行が出てきてしまうのだ。あぁ、
タコなのだ。足の数が多過ぎて、しかもヌメヌメしている・・・。
タコ男はともかく、今日はついつい、鏡の前で笑顔の練習などといったぞっとするような気持ち悪いことをやってしまった。めざせグルーチョ・マルクスの詐欺師ぶりっこ、ジェリー・ルイスのお下劣ぶりっこ。
(*_*)
- ロバート・アルドリッチ監督(ゲイリー・クーパー、バート・ランカスター主演)『ヴェラクルス』〔懐かし映画劇場〕とフランク・キャプラ監督(クラーク・ゲーブル、クローデット・コルベール主演)『或る夜の出来事』をみる。
(?o?)
母がみた夢。
「大阪なんやけどな、うちの中に居るんやけど仕事が入ってるんや。普通の、歌手の伴奏なんやけど、それをしにいくのに、そこでお母さんはギターで仕事をすることになってるんや、(バンドの)メンバーと一緒にな。それなのにな、うちの中のこととか雑用とかで忙しくて、化粧もギターのチューニングもしてなくて仕事の準備ができないんや。時間ばっかり気にして、『早く行かんと、行かんと』って思って、(仕事の)場所はすぐ近くなんやけど。お化粧しようと思っても、慌ててマスカラしたら乾かないうちに次パチパチやるもんやから、くっついて取れ掛けたり、すごくおかしな化粧になりかけるわけよ。それでおかしな顔になってな、厭やなあ、と思って、でも(客には)遠くからしか見えないからこれでいいかなあ、と思って、それでギターの音を簡単に合わせて置こうと思ってポンポンポンポンとやって、2弦を急いで合わせようと思ったらさ、テレビに出てくる有名なタレントで、ロックか何かやってる人が、『照ちゃん、チューニングするとき、紙をこう切ってぱっと挟むと、ポンポンっていう音よりかポォオン、ポォオンっていう音になって音に幅が出て音が変わるよ』って言うんや。それで、爪で厚紙を切ってぱっと挟んで入れたんや。そしたらなるほど、ポンっていう音がポォンってなったんや。(ロックのタレントに)『ほんとや、ほんとになった』って言うと、(タレントが)『僕はいつもこうしてるんや』と言う。6本の弦に全部挟み込むと時間が掛かるし、でも1本だけでも面白い音になってこれでいいかと思って、簡単に支度してギターもって正君連れて行くわけよ。その(仕事の)場所に行ったら、大宴会場みたいな食事の場所になってて、そこのひとつのテーブルにお母さんのバンドの連中が山ほどのご馳走を食べてるわけよ。『はいどうぞ、なんぼでも食べてやー』なんて(支配人が言う)。イントロで始めのところ、ギターソロが4小節ばーっつとかまして出るところがあるから、でも2弦だけ変な面白い音でほかのバランスが取れないかな、2弦の紙を外すのとほかの弦にも紙を入れるのとどっちが早いかな、でも1本の弦だけ違った音でも面白いかな、とか考えているところで起こされて目が醒めたんや。」
「何日か前には、(九州でやっていた)結婚式でエレクトーンを弾く仕事の相場が下がって登録制になって、それ(夢の舞台)は大分なんやな。相場が下がってもしょうがないなあと思って、でもママには1本3万5000円で仕事がきたんや。それでママに仕事来てくれ、っていうからな、高いからな、みんな5000円くらいで行くものを3万5000円やからな。で、どこかってゆうたら鶴見荘(母がいつも結婚式の仕事をしていた場所)なんや。行こうと思ったら、混んでてなかなか着かんのや。鶴見荘に入ったら、夢やからな、改装して迷路みたいになってるんや。結婚式場になかなか行き着かんで、人にきいて、遅れるかなーなんて思いながら、やっと探し当てたら、一杯人がいるんや。間に合って良かったなと思いながら『どうしたの?』ってゆうたら、『今日はだいぶ混んでて、午前中の組からずっとずれこんできた』って返事やから、『そんなばかなことないやろ』って。お母さんの仕事は午後の1番。午後は幾つも組があるけど午前中は1組しかなくて、それがずれこむなんてあるはずないと思うけど、仕方ないから待とうと思って。『今日の結婚式は、ギャラも多いけど、人も多いなあ』って言って。それで、いつも結婚式の世話をする仲居さん達がお母さんを見つけて、お母さんが行ったらな、冷や(=冷酒)をお客さんのツケでもってきて、それを飲んでから仕事するんやけど。なんでいつもこんなせわしく仕事せんといかんのかなあ、と思って。」
(?<>?)
ところで ― 母の夢とも映画ともまるで関係ないが ― どうして「いのちの電話」があって「死の電話」がないんだろう。死にたい人を止めたり脅したり、その人に説教したりするんじゃなくて、皆で(その人が思うように死ねるように)励まして祝う、という習慣が根付いたらどんなにいいことだろう。
みんなで寄ってたかって、死を惨めで汚らしい、はた迷惑なもの ― そして
費用という純効用的な観点からしても高くつくもの ― にしている。死にたい人や死にたい人を援助したい人達を、ほとんど
実力行使をもって脅迫・処罰したりして。鉄道自殺が相継ぐと乗客達は「死ぬならどっかよそで死んでくれよ!」と毒づき ― まあ気持ちもわかるが ― 、鉄道会社は莫大な損害賠償を遺族に請求する。今もなお、自殺は道徳的にも社会的にも悪とみなされているのだ。
近頃、(romしてるだけだが)ぼくが入っているとあるメーリングリストでは、路傍で死ぬホームレスの葬儀代や死体処理に”私たちの”税金が使われている、などという理由でホームレスへの嫌悪感・反感が口々に吐露される、という醜悪な出来事があった。でもこういう場合筋が通るのは、費用の掛からない死体処理の方法を行政に提案する、ということであって、一定の生き方 ― それも自分で望んだとはかぎらない生き方 ― を誹謗することではないのではないのか。単に死ぬ ― 自然死するというのは人間の最後の権利だと思うのだが、それさえ断罪されるのか。だったら人間的な葬儀とか死体処理 ― 金の掛かるやり方 ― を廃棄することにして、死ぬ人達を道徳的に非難・断罪するのをやめたらどうか。
同じことが鉄道自殺にもいえると思う。四散した肉片を取り集める作業の堪えがたさや手間、遺族に課せられる重すぎる負担などを強調して脅かすことや、まったく馬鹿らしいことだと思うが、ホームに鏡を設置したりする ― なんのためだかわからない ― ことではなく、もっと安価かつ適法的に死ねる場所や機会を提供することのほうが効果があるし、倫理的にいっても優れているのではないか。「渋谷のラブホテル街みたいなファンタスティックで素敵な場所」を提供するようにと主張したフーコーほどユートピア的な提案をしているわけではない。ぼくは
保健所を、といっているのだ。犬猫同然に、注射一本で・・・。これなら誰も税金のことで文句をいわないだろうし。(それにしてもホームレスについての議論は、思い出すだけで胸がむかつく。某新聞社の社説を毎朝読むときと同じ気分だ。)
(~o~)
「リビドーの氾濫」は(ぼくの場合は)ひどい抑鬱と苛立ちを生じさせる。ついつい周りにあたってしまったりとか。
(*_*)
- ブニュエルの『自由の幻想』をヴィデオで借りてきてみる。1年ほど前に衛星映画劇場のブニュエル特集でみているから、二度目。かなり退屈した。
{?)
気晴らしにと思って散歩してきたが、まるで無益だった。「真の(=現実と一致する)幻聴」、つまり実際のもろもろの声が聞こえて、苛まれる。結局のところ、一番の精神安定剤、というより情緒安定剤は、2個100円で買ってきた
洗濯石鹸で着た服を際限もなく洗い続ける、ということのようだ。まあ春先にやっていた
料理と同様、これだって数ヶ月を待たずして効果がなくなるのはわかっているが、今のところはこういうことを続けるしかないだろう。
{?)/
それにしても、「
僻み妄想」(”被害妄想”に掛けた某医師の洒落)とは言い得て妙。
{?)
某新聞社の試験、大丈夫かなあ。鉛筆をもつ手が震えるんじゃないか。博士後期過程の試験のとき、意識は明晰なのに、手が思うように動かない ― パソコンのキーボードを打つのに慣れ過ぎて、手書きの感触を忘れてしまっていたというのもあるが ー とかいうこともあったし。本心をいえば受けたくない試験とはいえ、まるでリラックスできない。いやだいやだ。それにしても、某左翼系出版社に紹介してくれるといってきた知人からはそれっきり連絡がないが、墓石店の社長さんがもってきてくれた旨い話同様、このまま立ち消えになるのだろーか。
{?)
(他)人に対する共感が、まったく欠けている。気に懸かるのは犬のチロチャンのことだけだ。他人達には、嫉妬、羨望、嫌悪のいずれかしか感じない。
("<>")/
嫉妬の感情を、どうにかできないものか。3、4年前からずっと、激しい嫉妬 ― 特定の誰かに向けられたものというよりは、不特定の大勢に漠然と向けられた嫉妬 ― を感じていて、それに対する無力のあまり、ときどき
機能不全を起こすほどだ。注射一本で嫉妬が消えて無くなればいいのに ― しかしそれは、馬鹿になるということでは? まあ、「下手の考え休むに似たり」ともいうし、馬鹿になるのもいいことかも。というか、いまはたちの悪い馬鹿で、もっと馬鹿になれば自他ともに幸福になれるのではなかろうか。あぁ、どうでもいい。どうでもいい。
嫉妬は、自分は苦しんでいるのにどこか他には楽しんでいる人達もいる ― 大勢いる、という想像に基いている。どうも「楽しむ」ということも能力にぞくするらしい。それをもともと欠いていたり、緩慢な過程を経て徐々に失ったりすることがあるらしい。
結局のところ、なぐりがき(画や文)は、情緒安定のための道具だった。いまはもう、それさえできない ― まるで楽しめないのだが。なぐりがきを始めるまえは、ピアノであれこれ音の戯れを試作する ― 「ダダイスト」などと称して ― ことが気休めになっていた。あるできごとがきっかけで、ピアノに向かうことは苦痛以外の何ものでもなくなってしまったのだが。
今は、何か結果 ― 安定した所産 ― をうまない活動、つまり純粋な空想が唯一残された楽しみのような気がする。だがそれさえ、時に激しい苦痛を帰結しもするから、効き目抜群の安定剤というわけではなさそうだ。或いは、映画をみること ― 純粋に受動的な過程で、何か批評的・主体的にとりくんだりすることはもうまるでない ― とかかな。大学院で映画学の授業にお邪魔していた ― 門外漢だったが ― ときは別のみかたをしていたものだけれど、今はもう
分析はできない。したくもない。
追想するだけだ。例えばロイドの右手の動きに注目するとか、グルーチョの詐欺師的喋りを真似するとか、ジェリー・ルイスの
可愛らしさに嫉妬するとか。
そういえば、春先にはしきりに料理をやっていた。野菜や肉や骨を買い、野菜炒め、チャーハン、鶏がらスープ、ステーキなどをつくる。最もまずいカップラーメンに鶏がらやとんこつのスープ、焼肉や野菜炒め、ニンニクなどをぶちこんで”特製インスタントラーメン”と称して深夜に独りで食べたりしていたものだ。3月ごろかな。それをしなくなったのは、飽きたというのもあるけれど、自分で作った(自分には)美味しい料理には脂が多過ぎ、肥満をさらにひどくしてしまったからでもある。鶏がらスープ抜きの料理なんて、やってて楽しくもないし。ちょっとした手仕事の快楽を失って、また鬱々とする日々が続いていた。
でもこの頃は、老いたチロリンの世話をきっかけに
(何日か前書いたように、犬の汚れたお尻を拭いたタオルを洗ううちに、機械を使わないこういう遣り方なら自分の着た物も簡単に洗えると気付いたのだ)、「原始的」洗濯 ― ソフターや漂白剤、洗濯機の使い方が分からないので、洗濯石鹸を使って風呂場で洗っている ― に凝っている。料理も、原始的といえば原始的だったが、やっていて楽しかったし、少なくとも自分だけは満足していた。洗濯も同様。自分が着た物だけを洗う。単身赴任の王監督のように ― この空想はお気に入り。王氏のファンでも、野球好きでもないが。なんとなく気分がいいのだ。やってることはパンツやシャツを洗うということだけなのに、何か爽快な気分になる。この程度の快楽さえ稀なので、貴重だ。
{?)
ところで、19世紀の心理学では
知覚のことを「真の幻覚」と規定していたそうだけど、内実が
現実そのものの強迫観念のことを「真の妄想」とはいえないだろうか。つまり、「悪口をいわれている」「付き纏われ、監視されている」と思い込んでいる人が実際に悪口をいわれており、付き纏われ監視されているという場合である。でもだめかな。たまたま思念が現実と対応しても、
真の観念とはいえないのかも。(試験の不安を紛らわそうと、こんなことばかり考えている。)
{?)
今日の小噺。
ぼくのせいではない(と思う)のだが、不安に駆られると、突然、笑いをかき立てる ― ぼくに対してだけだが ― 場面が
思い浮かぶ。「思い浮かぶ」というのは楽しい表現だ。実際、
それは何処かから
来るもので、自発的に考え出したものではない。といって他人から教え込まれたり吹き込まれたものでもないから、情景なり想念なりが
独りでにやってきた、ということになるわけだ。
以前引用したボウルズの小説の殺人者も同じことをいっていた。何処かからきた
考え ― 不気味な自律的生命をもっている ― が主体を押し潰し、化物に変えてしまう。化物に変わる、というのは、思い浮かんだ想念に強制されてその通りに
行動する場合、ないしより軽微な例では、思い浮かんだ情景に独り
笑い転げて周囲から白眼視される場合などであろう。ちなみにぼくの場合は、歩行中や電車のなかなどで独り笑いを堪えるとき、妙な表情やぎこちない身振りになってしまい、やはり不審な目でみられることになるが。
小噺の本文。- 両手両足を切断されたドラえもんが、のび太、ジャイアンらのギャングどもに空地でfuckされて泣いている。のび太らは、普通の小学生を装っていたが、実は極悪なギャングであった。そしてその真のボスは出来杉 ― ジャイアンは贋のボスでしかない ― である。ドラえもんについていえば、彼は「四次元ポケット」などというものはもっていない。そこからいろいろな道具が出てきたかのようにみえたのは、手品である。彼は、その芸をギャングどもに仕込まれ、しくじるたびごとに指を切り落とされたので、ついには手にも足にも指が無くなった。これでは困ると思案したギャングどもは、これなら不自然にならないだろうと、猫の着ぐるみを着せたのだ。真夏などには地獄のような、死ぬまで脱げないコスプレだったのだ。ついでにいえば、しずかちゃんは女性ではない ― れっきとしたペニスをもっている。真のしずかちゃんは、極悪で残酷な、人間達磨にも比すべき身体改造を受けて、バイオリンに変えられてしまった。スカートを履いてしずかちゃんを装っているのは、したがって、ギャングどもの仲間なのである。
大学時代、
小噺好きの友人がいた。彼は、知人らの性的な失敗 ― 失恋やいざというときの不能など ― を小噺に仕立てては、本人がいないところでみんなの笑いを取ったり、インターネットで全世界に向けて他人の恥辱を発信したりしていた。そういうわけで、彼は次々に親友を失ったが、最後まで友達でい続けたのはもちろんぼくだった。何か卑小な悪への好みのようなものが、彼への消えない好意を持続させていたのだ。今では彼は某大手通信会社に就職しているが、互いの社会的地位や収入が違いすぎているためか、まったく連絡してこない。
ユートピア。もし住む世界を選んでいいなら、『パタリロ!』 ― 特にコミックス20巻台までの ― に住みたい。『パタリロ!』ほど何度も読み返した本はない。100回は読んだだろう。このごろ喜劇映画をみるとき、『パタリロ!』を可能にしたものの影を探している。
{!!)
屠殺場に引いていかれる牛みたいな、という言い方があるが、明日の試験に臨む気持ちはまさにそれだ。受けたくない、と数日前親に言ってはみたものの、結局両親の不愉快そうな顔を正視できず、すぐに前言を撤回してしまった。意志の弱さ、自己主張の弱さだ。思い返してみれば、何もかも他人に勧められ強制されるがままにやってきただけのような気がする。回顧的な錯覚だろうか。それとも
事実そうなのだろうか。
{!!)/
某新聞社の試験から帰ったところ。またしても、緊張のあまり鉛筆をもつ手が震える。書痙かなー?? 前回(大学院博士後期過程への入試)で癖になっちゃったのか。それにしても、時事問題まるでわからない。英語も駄目になってきてる。最初から乗り気じゃなかったとはいえ、能力低下を思い知らされたいやな一日だった。
{!!)/
ひさびさのマークシート試験。ちょっとだけ機械になった気分を味わえたが、それも束の間。それに機械だとしてもひどくぽんこつだ。全然性能よくないぞ。動作が遅く、誤作動も多い。ちょっとしたショックで止まっちゃうとか。
「国語」は楽勝と思ったが、「”常識”」と「英語」の試験がまるでだめだった。政治や経済、スポーツなどにはまるで興味がないので、さっぱりわからない。「短期市場」って何? ミロシェヴィッチとかそごうの前の会長がどうしたって? ・・・こういう人は新聞社なんか最初から受けなきゃ良かったんだけど。意志が弱くて、他人(両親)に強く勧められるがままついつい惰性で受けてしまった。成功の見込みなんかないのに。
操り人形になった気分。
といってもそれはいつものことで、たまに自滅的な奇行におよぶとき以外は、ずっと非充足感 ― 何かや誰かにいろいろ吹き込まれ、嫌々動かされている、という感じ ― をおぼえている。物心ついたときからずっと。それで思い出すのは、その頃から(つまり6、7歳のころから)「子どもをつくるのは良くないことだから、自分は大人になっても子どもをつくらないようにしよう」と考えていたことだ。当時は、あらゆる子どもが不幸なものだと思い込んでいた。人間の境遇なんていろいろなのに。その後成人近くなってからは、生まれてくる子どもがかわいそうかどうかということはまるで考えなくなったけれど、自分が
親になる ― 誰かに命令し・強制し・そいつを何かに
形成する役目を引きうける ― ことなど想像しただけでぞっとする、というのには変わりがない。
今日受けてきた某新聞社は何ヶ月か前の社説で、若者たちに再生産の意義を教育し、「意識変革」を促すとか書いていて、ぼくはそれを読んで暫くの間落ち込んでいた。「意識変革」なんていって、結局強制、洗脳じゃないか。絶対そんなことされるもんか、と憤ったんだけど、よくよく考えたら、某新聞社のイデオローグたちにせよ政治家たちにせよ、
ぼくに自分の遺伝子を複製し増殖させよ、と命令しているわけではなく、寧ろ逆だろう。彼らからぼくへのメッセージがあるとすれば、「頼むから、
あんたは増えてくれるな」のほうだろうね。
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ロバート・アルドリッチ監督(バート・ランカスター主演)『合衆国最後の日』をみる。