{!!)
このところ、時間が過ぎていくのがものすごくはやい。というか自分の反応速度が遅くなっただけかもしれないんだけど。例えば、フランス語の文章を1頁日本語訳すると、それだけで一日が終わってしまう、とか。かなり味気ない。これは
友だちがいないとかそういうことと関係あるのだろうか。明けても暮れても同じ顔と同じ風景、同じ声……。しょうがないけどねえ。
{!!)
そういえば以前、鬱病で長いあいだ精神病院に通っている知人からこんな愚痴をきいたことが。医者がいらいらした感じで
「友だちとか、いないんですか?」とかきいてくるんだって。
「いたらこんなところになんかこないよ、って言い返したかったけど... 」もちろん彼は、言い返したかったけれど言えなかったのだ。
僕もご近所の医者に(精神科専門じゃなかったけど、身体的には異常ないからとかいう理由で安定剤を処方してもらっていた)、
「気晴らしになるようなことって君にはないのかな? 楽器弾くとか運動するとかさ」とかいわれて厭な思いをしたことがあるけれど。当時毎日ピアノで即興演奏の練習をしていたが、
それとこれとは無関係、っていうかそんなことで気分爽快になるんだったら、それこそ
医者のところになんか行かないでしょ!
{!!)
精神的な(ないし心身的な)問題を喰いものにするやつらは多くて ―
自分たちはその仲間じゃないのかということは置いといて ― 中学・高校の頃には母親に連れていかれたご近所の悪徳信仰宗教の尼さんに
修行料200万円を払うよう脅されたこともあったのだ。といっても、もちろん金が無くて払えなかった(払いたくもなかった)が。
尼さんは、
「いま滝に打たれて修行しないと、どうしようもなく孤独な末路を迎えることになるよ!」と脅したのだったが、みるからに頭がおかしく協調性のなさそうな餓鬼の将来を言い当てることなんか、超能力なんかなくたって簡単きわまりなかったろう。宗教はいんちきだったが、予言は実現した
(ような気がしてならない)。
{!!)
そういえば(義)父は、
「”カラオケ教室”から”室”の字を取っちゃって”カラオケ教”を開いて金儲けしよう!」とついこないだまで盛んにいっていたが、この頃あまりいわなくなった。諦めたのかな。
日本語学校の先生をしているフランス人の知人にこの話をしたら、
「”カラオケ教”というのは”唐法華経”に聞こえますね!」というお返事。あー、そんなに立派なものだったらどんなにいいことだろうな。
{!!)
確か
『精神分析入門』で
フロイトが紹介していた女性の強迫神経症患者の例だったと思うけれど、
夜の決まった時刻に花瓶を割らないと不安で眠れない、というのがあった。本も手元にないしうろ覚えなんだけど、新婚初夜の失敗 ― 夫のほうが性的に不能になって、その失敗を
女中に隠すために赤インクをシーツに垂らす、という姑息な工作をやった ― というできごとが問題になっていたと思う。その女性の心のなかで、花瓶を割る行為と処女の喪失とが重なり合い・響き合っており、自分が本当に初夜(性的試練?)を果たしたのだ、ということを確認するために花瓶を毎晩割らざるを得なくなったのだ、とかいうような説明。
僕が眠れずに毎晩インターネットをやっているのも、似たような
挫折 ― ないし
試験の失敗(性的能力試験?)の糊塗という動機があるような気がする。虚勢を張っている、というか。
{!!)
深夜3時だからそろそろ寝ないと。
「明日に差し支える」といいたいところだけど、差し支えるも何も、なんにも予定がないんだよな。
{!!)
Bill EVANS, Conversation with myself を聴いている。この多重録音アルバムには、
MONK の曲が3曲も入っている(
'Round midnight, Blue Monk, Bemsha swing)。MONK の曲は基本的に本人の演奏が一番好きなんだけど、EVANS の弾く
Bemsha swing もなかなか気持ちがいい。
そういえば今朝長い夢をみた。が、起きて少しするともうかなり忘れてしまった。残ったのは以下の断片だけ。
・夢の本文
海の家のシャワー室みたいなところにいる。カーテンを隔てた隣には大勢の男の子たちがいて、賑やかに談笑しているけれども、こっちのほうには自分ひとりしかいないようだ。やがて向こうで場を仕切っているらしい中年の男の人にカーテン越しに話し掛け、しばらく会話する。どんなことを話したのかは今となっては思い出せないが、話しているうちにその男の人が海の家のオーナーだということがわかり、「... えっ、オーナーさんだったんですかあ!」と素頓狂な声でいったのは覚えている。
その後海にひとりで入る。どうも、泳げることをそのオーナーや集まっている他の人に証明するという目的があるようだ。最初はいぬかきで必死に手足をばたばたさせているが、これでは恥ずかしいかもと思い、クロールに切り替える。呼吸や胸(心臓が)少し苦しくなってくる。
(……)
次に気づくと、横浜のどこかを歩いている。道から立ち並んでいる家々のなかをひとつひとつ覗き、親戚たちの家をみつけ、彼らの食事風景を遠くから眺める。(向こうは僕が訊ねてきたことに気付いていない。)
また別の街を歩いている。建物をぼんやりみて歩いているのだが、そのうちの1軒の窓越しに、若い男女(カップルか夫婦)がベッドの上で性交しているのがみえてしまう。男のほうは裸で、女のほうは着衣。男のほうが外から見られているのに気付き、窓(かカーテン)を閉めてしまう。(覗きたくて覗いたわけじゃなくて、開いてたからみえただけなのに)と思う。
{!!)
・この夢についての連想
「海の家のシャワー室みたいなところにいる。」
海にはずいぶん行ってない ― 最後に泳ぎに行ったのは10年以上前のことだ。確か、夢ででてくるいとこたちと一緒に
九十九里浜に行ったんだった。このときのことは、もうよく覚えていない。
海のイメージは、
溺死者の亡霊に足を引っ張られて人が死ぬところということと、
(自分とは無縁で、ほとんど生物学的種を異にするとさえいいたい)若い男女が「恋愛」(というか性交)を繰り返すところというもの。
独りで泳いでいる場面と怪談のイメージがもし結びつくならば、自分は泳いでいる人の足を引っ張る溺死者(の幽霊)の視点に身を置いているのではないか、と思った。別の一連のイメージにおいて、水子に自己同一視しているように。水子や溺死者の亡霊のイメージと実際の自分とで何が共通しているかというと、青白いぶよぶよに膨れあがった身体と、この世に恨みを残したまま成仏できずに死んでいるという感情だ。また、溺死者の膨れ上がった遺体のことを”土佐衛門”というが、”どざえもん” → ”ドラえもん” → ”両手両足を切断されたドラえもん(豚型ロボット)”と繋がっていく。
毎年夏にはダイエットや日焼けのために海やプールに行こう、と思うのだけれど、実行しないうちに夏が終わってしまう。その理由のひとつは、自分の醜い身体を他人の目に晒したくない、ということがある。
「カーテンを隔てた隣には大勢の男の子たちがいて、賑やかに談笑しているけれども、こっちのほうには自分ひとりしかいないようだ。」
蚊帳の外、というか何かで隔てられて賑やかな談笑の場に入っていけない、というイメージがこの夢には繰り返し出てくる。
現実そのものというべきだろうか。この頃の唯一の楽しみは、夕方買物に出たときに店員や買物客などを観察する、ということだし。
「やがて向こうで場を仕切っているらしい中年の男の人にカーテン越しに話し掛け、しばらく会話する。」
顔の印象はない。この人に心当たりはない。
「どんなことを話したのかは今となっては思い出せないが、話しているうちにその男の人が海の家のオーナーだということがわかり、『... えっ、オーナーさんだったんですかあ!』と素頓狂な声でいったのは覚えている。」
いつものような、他人のご機嫌をとるうわべだけの言葉。こういうことにだけは向いてるような向いてないような。
オーナー → webmaster と連想。日本語だと「管理人」にあたるんだろうけど、
master (主人;SM の
「ご主人様」)というのはずいぶん強い表現のような。もちろん、英語の語感などはわからないのですが。
「その後海にひとりで入る。どうも、泳げることをそのオーナーや集まっている他の人に証明するという目的があるようだ。」
よくわからないが、(不特定多数の)他人相手に自分が駄目でないことを証明しようとして無様なパフォーマンスをやり、当然のように失敗する、というようなことと対応しているような気がする。例えば、外国語や哲学の能力について。或いは、
恋愛能力(ないし、
社交性)について。
「泳ぐ」というのは世の中をうまく渡っていくことを指すのにしばしば使われる、ということにも気がついた。
高橋源一郎『ぼくがしまうま語を喋れた頃』(だったっけな)に入っている吉本隆明・高源の対談で、吉本が大江健三郎の文壇に対する態度を揶揄しているくだりで確か「泳ぐ」という言い方をしていたような気がする。といっても読んだのは10年以上前のこと
(頭が変になって壊れていた14歳のころのこと)なので、記憶違いがある可能性も大。
上の比喩を辿っていくと、
「泳げない」「泳ぎが下手」というイメージが、
社会に適応できず(労働の場に出ていくことができず)、性的関係をうまく結べない、というところに繋がっていく。しかし、なぜクリアされるべき基準が
労働と
性に関わっているのだろうか。
正常性の基準として、必ずこの2つが挙げられるような気がするが。
そういえば、このことで急に思い出したのだが、夢の忘れてしまった部分に、仲たがいした知人から非難のメールをもらう場面があった。
「最初はいぬかきで必死に手足をばたばたさせているが、これでは恥ずかしいかもと思い、クロールに切り替える。呼吸や胸(心臓が)少し苦しくなってくる。」
いぬかき → 老いて衰えた
チロチャンが家の廊下で横たわっていて、立ちあがろうとしても自分の力ではもう立ちあがれず、誰かが起こしてくれるまで爪で床を引っ掻いてもがいている姿を連想。息苦しさは、
チロチャンの苦しげな荒い呼吸。深夜に他の家族が寝静まっているとき、このぜいぜいいう音を独り起きて聴いているのはつらい。
{!!)
Thelonious MONK, Standard Monk, Bandstand ― 1961-65年に行われた欧州楽旅でのライヴ録音から standards を集めたものらしい ― を聴きかえしている。確か7年前にソウルかパリで買ったものだ。
演奏はお世辞にも MONK の best とはいえない。冗長だし、意外性や息を呑む輝きもない。誰かが晩年の MONK のことを”旅回りの一座”と形容したことがあるが ― 悪い意味だけではなかったが ― 、そういう言い方がぴったりくる演奏だ。しかし、聴いていて妙に安心感を覚える CD だ。
I'm getting sentimental over you や
Lulu's back in town といった曲での
Charlie ROUSE のほのぼのした吹奏もだが、Ellington の
Caravan とか
Solitude の solo 演奏が特にいい。寂寥感や
奇妙な ― strange とか、或いは彼の作った曲の題名のように nutty という形容を付したくなる ― 懐古の念を覚えさせる。ブンチャ、ブンチャと壊れかけたオルゴールのように鳴る左手
(”ストライド”とかいって合ってるかな)にぴょんぴょん跳ぶ右手の単音が重なる。タッチがふらつくのに加え録音がところどころおかしくて音が大きく歪むが、それも strange な印象を強めるのに寄与する。目の前にある光景が
馴染みのものであるにもかかわらず、いつどこでそれをみたのかどうしても思い出せない、というような
奇妙な感覚を、これらの standards は喚起する。
{%)
コッポラ監督(ジーン・ハックマン主演)『カンバセーション....盗聴...』をみる。途中までは本当に素晴らしいと思ったが、最後のどんでん返しは余計だったような...。
(*v*)
フェデリコ・フェリーニ監督(ジュリエッタ・マシーナ、マルチェロ・マストロヤンニ主演)『ジンジャーとフレッド』をみる。素晴らしい。途中、
『オーケストラ・リハーサル』みたいにぐちゃぐちゃな混乱状況になるのかな、と一瞬心配
(期待?)したのだが、停電とマストロヤンニ演じる老芸人の転倒にもかかわらずふたりの出番はちゃんと果たされ、けっこういい感じのラストになっていた。
{!!)
「赤い貴族」(ヴィスコンティ)ならぬ
”赤い豚”になりたくて
『資本論』の第3巻
(岩波文庫だと第6分冊から)を読もうとしたが、すぐにわからなくなってしまった。
{!!)
ちょうど深夜の3時半だが、苛々して眠れない。家族が熟睡していて、
チロチャンがぜいぜい荒い息をしていると、自分が眠っているあいだに
チロチャンがウンコを漏らしたらどうしよう、という不安に駆られて、どうにも眠れない。不眠の理由はこれだけじゃないだろうけど、このことは大きい。
(p_p)
朝
(っていうか昼?)目覚めて、
買物+銀行+図書館に行ってきたのだが、ひどい頭痛と倦怠感、全身疲労で
滅茶苦茶不機嫌。
不機嫌な豚。という感じで町内を一巡りしてきたのですよ。何か現実とも幻覚ともつかないできごとに次々遭遇するのはこういう頭が痺れたようなとき、というのは定番。過去には顔が溶けたりクシャクシャになっている人を電車ないで見掛け、「これは現実知覚なのか想像的な幻覚なのか、まじでわからん」と悩んだことも。
{!!)
夢の断片。- 家(?)に若い犬をもう1匹連れて来る。室内には中央にベッドがあり、ぼくはそこで2匹を肌色のひもで繋いでいる。新しい犬のほうはベッドのそばでおとなしくしているが、対抗意識を剥き出しにしたチロチャンがベッドの周りを猛烈な勢いでぐるぐる駆けまわり、新しい犬の尻のほうを噛もうとする。逆にやられてしまうだろうからやめておけばいいのに、とはたからみていてはらはらしている。
- 古文の試験(なのになぜか問題は現代文の問題)を受けている。「それ」という代名詞が何をさしているか、という問題で、ぼくは「胸部(……)」と答える。どうもこの試験は以前受けていたらしく、2度目のような印象がある。
- ガタリと一緒の職場か団体にいる。誰か(中年男たち?)が噂話をしていて、「彼(=ガタリ)は怨霊にやられてぼろぼろらしい」ということになっている。それを聞いて、確かにそうなんだ、と実感する。
{!!)
ひさびさに零時まえに眠ることができた。昼寝をしなかったこと、図書館から帰ってずっと集中して本を読み続けていたこと
― 内容をどこまで理解できていたかといえば心もとないのだが、ひさびさの充実した読書体験だったような気がする ― のために、良い意味で疲れていたのだろう。
フェリーニ『そして船は行く』の冒頭20分ほどをみて、眠気に堪えきれず寝床へ。結局
チロチャンの世話はこの晩だけは母親に任せきりになってしまったが……。
読んだ
(といっても”読めて”いるかどうか心もとないが ― 基本的なことを勉強していない分野の本は、読んで感銘を受けても、どこか単純化や勘違いに陥っていて、トンデモ〔豚デモ〕になってしまっているように感じる)本は以下の通り。
- 伊藤誠『日本経済を考え直す』(岩波書店)
- 伊藤光晴『「経済政策」はこれでよいか』(岩波書店)
- ジルベール・アシュカル編/岡田光正・志田昇・西島栄・湯川順夫訳『エルネスト・マンデル 世界資本主義と20世紀社会主義』(つげ書房新社)
- 大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(新潮社『大江健三郎小説3』所収)
いまは
大江健三郎『宙返り』(講談社)の上巻を半分くらい読んだところ。ひさびさの小説だ。1ヶ月くらい前に読んだ
クライン『赤い武功章』(岩波文庫)にはそれほど没頭できたわけではなかったし…。
それにしてもいつか
『失われた時を求めて』と
『資本論』を途中で挫折せずに読み通せる日がくるのかなー。
{!!)
午後に
『宙返り』を読み終わったが、索漠とした印象ばかりが残った。育雄や「踊り子
ダンサー」といった人物たち、さらには「師匠
パトロン」まで、物語の終幕部分においてとりかえしがつかぬほど醜悪にみえてきてしまうのだ。〈宙返り〉が含意する、教祖による信者集団の〈突き放し〉の一環が登場人物たちの崇高さの喪失だということか? いずれにせよ、
さきのギー兄さんや新しいギー兄さんらの集団的な試み ― 少年ギーはそれを「敗北主義」と呼ぶ ― のもつ
悲劇的に活劇的な次元(妙な言い方かもしれないが)がこの物語からは完全に排除されている。そのことの意味価が測りかねるのだ。
「悲劇的に活劇的な」次元といったのは、特異な主人公が偶然的で無価値な事項に躓いて志半ばにして惨めに死ぬのだが、周囲の人々 ― 多く女性 ― らがその躓きに崇高で重要な意味づけを行うことによって同様の過程を繰り返す無数の諸個人らの連続性が虚構される ―
サッチャンの言い方に倣えば「言い張られる」 ― ということ。典型的には、女優の事故死を性的暴行・殺人といった犯罪に仕立ててギー兄さんが入獄することを通じて「根拠地」の運動が挫折していく、といった過程がそれだが、四国の谷間の村の神話的な力(「土地の力」)が前面に出てくる前の『日常生活の冒険』における犀木犀吉
(それにしてもすごい名前!)などもこの枠組みで考えられると思う。結局何も為し遂げることのできぬまま非業の死を遂げる男たちの人生が〈祭り上げ〉られ神話化・神秘化される ― 抵抗しがたい魅力を帯びて語り継がれる。
深刻なのは、この図式が登場人物たちによって自覚されるにいたった最近の2作 ― ほかならぬ『燃えあがる緑の木』及び『宙返り』であろう。前者においては、作中に登場する作者を思わせる小説家に誰か
(「総領事」だったかアメリカ人の文学研究者だったか)が君の小説はどれもこれも決まった構造をもっていると論じ、後者においては少年ギーが先行者たち(2人のギー兄さん)の「敗北主義」を厳しく批判する。ところが、主人公の自殺
(ないし自殺同様の死)といった結末は遂に避けられず、繰り返されるのだ。この繰り返しに「ズレ」が含まれているかどうか、などといっても納得のいかない何か本質的な問題 ―
症状 ― を感じる。
『宙返り』の読後感は、何かこの書物の像が明確に形成されてこない、焦点が定まらず諸々の逸話・挿話が収束してこない、ということだ。繰り返される〈宙返り〉を通じて虚構される悲劇性を斥けようという(作者及び「師匠
パトロン」の)「戦略」なのだといった説明では不十分に思える。「師匠
パトロン」は、オウム壊滅以後的な状況においても〈悔い改め〉を必要とし続けている若ものたちのためにといって新たな教会建設に踏み出しながら、結局のところ、いかなるセクトの突き上げをも拒否して個人として語る、といって自殺(?)してしまう。カラマーゾフ万歳、という謎のメッセージにしても意味がよくわからない。育雄の解説にしたがえば、『カラマーゾフの兄弟』の続編で皇帝暗殺者として処刑されるはずだった少年と少年ギーが重ね合わされているようだが、これは神の声云々の問題を捨象して政治的に闘争することを暗示しているのか。それならそれでいい ― メイスケサン等の伝統に立ち戻るということで ― のだが、それでは「魂のこと」という主題はどうなるのか。死の床で木津先生が育雄に語るように、神の声を聴けるかどうかといったことは人間にはどうでもいいのではないか、という結論になるのか。そうだとしたら、『緑の木』も『宙返り』もあまりに長大な迂回 ― 「悟り」などといったものの無意味性を悟るために一生かけて続けられる修行のような趣きのある ― にみえてきてしまう。それなら最初から世俗的な場にとどまっていればよかったのではないだろうか。
また、性や詩といった事項の扱いの変化があるが、それをどう考えたらいいかという点についてはまだ迷っている。一人称による語りが放棄されている、ということと主にその人の視点が語りの中心になっていると思える木津による同性愛の性行為の積極的で自覚的な遂行 ― 『緑の木』における両性具有者サッチャンの性的遍歴を描いた部分に比べても一定程度具体的な厚みをもっていると思う ― には関連性があるのか。狼狽した「師匠
パトロン」が育雄に浴びせる嘲罵「男色家の悪魔!」と、
それにもかかわらずそのすぐ翌日に育雄に対する露骨な「嫌悪」とともに「師匠
パトロン」によって暴露される育雄と「踊り子
ダンサー」との間の性的関係はどう繋がっているのか。
{!!)
そういえば、日本文学で院に行った知人が、「ちっちゃな正義」を前面に押し出して論文を書く連中が大嫌い、という意味のことをいっていたのを思い出す。その場は「そーだねェ」なんて頷いていたものの、いざ自分が何かの小説の感想を纏めてみるとやはり言葉と物事を混同しちゃってる気がする。具体的な形態の分析なんてできないし。駄目だなあ、ほんとに。
{!!)
やっと
『そして船は行く』をやっとみ終わる。難民のエピソードが出てきてからは、ようやく画面に入っていけるようになったような。2本目、
ルビッチ監督(ディートリッヒ主演)『天使』とはどうも肌が合わない。最近映画の途中で眠くなったり厭きてきたりすることが多くなった。
『天使』が厭なのはまったく都合のいい(と思える)不倫(までいかないが)の話だからだろう。どうもこういう筋にわくわくできない。ディートリッヒも、謎めいた感じがまったくないし。他人を
(『エヴァの匂い』のジャンヌ・モローと違ってわざとではないが)破滅に追い込む〈運命の女〉でもなく、愛のためにすべてを捨てたり死刑を甘受する情熱的な女性でもなく、幸せな家庭を守るために汲々とする家庭的な女性としてのディートリッヒ。
{!!)
そういえば今日、映画にいれ込んでいる友人から電話がかかり、1時間も話し込んだ。ひさびさに家族以外の人と喋った、という感じで、何か元気が出てきたような。
話題は多岐にわたっていて、彼がまずいっていたのは、
「近頃の事件の報道をめぐって、精神病患者への偏見がますます増すだろうけど、それとたたかうにはどうすればいいんでしょうか?」ということ。そんなこと、どうして(専門的知識も定見もない)僕に訊くの? と言いたいところだが、この人はどうも僕のことを占い師か何かのように思っているようで、全然知らないことやあまり詳しくないことについていつも執拗に質問してくる。映画のことまでも。まあ気晴らしになるし、いいのだけれど。彼の利益にはなっているのかな?
{!!)
会話の詳細を書きとめるのはひと苦労だし、もう深夜3時で眠い…。部分的にだけメモ。
彼が「偏見と
”たたかう”」というような強い表現を選んだ理由がよくわからないが、スピノザ流にいえば、誤謬を消し去るのは真理だけ ― つまり事象の十全な
理解を通じて不適当な恐れを乗り越えていく、という道しかありえないと思う。そして、そのことは彼が話題にした精神病患者の場合には、難しいことではないか、と自分は言った。理由は、マスコミを通じて得る情報以外の具体的な知識をもっていると想定されるひとは、精神病患者
本人か或いはその家族、友人 ― 彼との会話では言い落としていたが、それと医師 ― を除いていないだろう、ということだ。
正しい情報が発信される ― 例えば彼の挙げた例では、
「犯罪を犯す人の割合は、(いわゆる)健常者よりも精神病患者のほうが実は低い」といった情報が発信される ― ということはどうか。それは「偏見」の荒唐無稽なものの是正には役立つだろうが、恐れの本質には触れえないと思う。僕の意見では、
行動の突発性・予見困難性、極端さ、理解困難性に対する恐怖が彼のいう「偏見」の核になっている。
(もう3時半になって眠くて堪らないので、続き(もしあれば)は明日以降。)
{!!)
●夢断片の本文
薄暗い公園のようなところにいる。自分は中学生か高校生に戻っていて、引率(?)の男性体育教師ひとり、および同級生(?)多数が一緒である。私は、毒物(?)と思われる薬品をしみ込ませたタオルを公園のベンチのほうに投げ入れ、生徒たちが目や喉の痛みを訴えるが、それは(どういうわけか)テロを抑止するための緊急手段であって、そのことを体育教師に向かって釈明する。
ある政治家について、〈年寄りで文句ばかりいっているが、もう終わった人間で、何もできない〉といったOLたちの人物評がテレビで放映されている。その政治家が演説で使った比喩が右翼に問題視され、刀で暗殺するぞ、と誰かが脅してくる。その政治家は怯えて雲隠れしようとするが、森田実氏がかれに「ほとぼりがさめた頃に、比喩を『三島由紀夫の……』と『……』に置き換えたりしてまたもちだしたらどうだ」とすすめる。
{!!)
なんだかからだ中が痛くて起きていられず、夕方寝ていたら、風邪気味のときいつもそうなのだが、例によって変な夢をみた。まず、眠り込むかどうかの瀬戸際の辺りのいつもの入眠幻覚(?) ― 首が閉められるような息苦しさ。からだは意志的に動かせなくなっているから、もしこのまま文字通り「手も足も出ず」窒息したらどうしよう、と恐ろしくなる。そんなわけない ― というか、これまではそんなことはなかった(だから現にこうして生きている) ― と気休めに耽りながら待っていると、いつのまにか眠り込んでいる。
次いで長く厭な感じの夢をみたが、ほとんど忘れてしまった。断片的に書きとめてみると ―
... ハンドバックに預金通帳数枚とお金をもって夜の公園(?)を歩いている。後ろをふりかえると、若者2人があとをつけてくる。ひったくりじゃないか、これをとられたらおしまいだ、と恐怖を感じ、足早に出口まで急ぐ。
... 中学時代の友人 ― 3年のときにドイツから帰国して編入した如才ない少年、いまは銀行に勤めている ― とからだが入れ替わっている。その人と共通の友人 ― いまはコンピュータ関連の企業に勤務している ― が絡んであれこれ面倒なことになったような。
{!!)
風邪気味になった原因のひとつは、
船橋市北図書館に本とヴィデオを借りに行ったとき、そのままそこで数時間小説を読んでいたことかもしれない。半年ほど前知人に勧められた
藤野千夜『少年と少女のポルカ』(ベネッセ)と、新着図書できていた
ミシェル・セール『哲学を讃えて:フランス語で書いた思想家たち』(法政大学出版局)を水色の座席で読み耽っていた。大西巨人の文選
(時評のようなものを集めなおしたもの。古本屋で、大西氏の大江批判 ― 同性愛を主題的にとりあげているという理由で頽廃的だと非難するといった論旨 ― の時評を読んで、それ以来大西氏の本を手にとることができないでいたのだけれど、今日、最近になって編まれたらしい文選の版で大江『われらの時代』批判を読み直してみると、当時ひっかかった記述がまったく見当たらなかった)の最初の巻をぱらぱらみて、このところ
柄谷行人氏が頻繁に言及している
「俗情との結託」という批評文を読む。野間宏の
『真空地帯』で表明されているらしい
― というのはこの本を読んでないから(『暗い絵』しか読んでない)よくわからないのだが ― 「不良こそ革命的なのだ」というような考えを批判したところよりも、前ふりみたいな感じで出されている
今日出海(だったかな、記憶力に自信ない)『三木清における人間の研究』という低俗な諷刺文への批判が面白かった。諷刺者はフィリピンにおいて三木清が手淫によって性欲を処理していたことを不潔だと嘲罵し、それを知ったある男が婦女子に「手淫の産物」(三木の著書)など穢ならしくて読ませられないといった逸話を紹介したりしているのだが、そのくせ自分らの買春行為についてまったく問題を感じていないけれども、これは変ではないか、というのだ。確かにこの点については大西巨人氏が批判する通りだと思う。
ただ、後半の
不良の革命性への批判はどうかなあ。柄谷氏が『批評空間』誌上の共同討議で大西氏のこの時評に何度も言及する意図はなんとなくわかる(気がする) ― それは例えば、
「フリークも革命的である」と書くドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に連なる立場への批判を含意しているのだ。しかし、不良やフリーク”だけが”革命的だというのはまずいかもしれないが、いろいろな特異な生き方を肯定的に評価してもいいんじゃないか、それに
パゾリーニの最初の映画『アッカトーネ』の主人公みたいに、そうとしか生きられない、といったタイプの人々
― 女に売春させて生活するのをやめようと決意してはみたものの、労働者になろうとしても根気と体力が続かず、犯罪者になろうとしてしくじり、警官に追われてバイクで事故死するあのアッカトーネのような人々 ― も多いんじゃないか。そういう事項を切り捨ててしまっていいのだろうか。それは伝統的な道徳、公式的な政治への回帰ではないのだろうか。
{!!)
柄谷氏が最近始めた
NAM という社会運動のホームページをみつけ、熱中して隅々まで読んでしまう。
最近調べようとしているけれど、経済(学)のことはよくわからない。特に細部にわたるとさっぱり。マルクス経済学も近代経済学も。だから
LETS に依拠しながらの「対抗運動」の有効性を自分で検証できず、いらいらする。素晴らしい考えのようにもみえるし、夢みたいなとりとめのない vision だとも思う。
僕はカント主義が大嫌いでドゥルーズとガタリの著作を中心に読んできたけれども、確かに『資本主義と分裂症』における資本のシニシズムへの批判の読解を通じて現実的な対抗措置を発案することは難しそうだと感じている。経済的基盤への省察が欠けていたら空疎な倫理になってしまうのではないか、というのはまさにその通りだ。確か佐々木力氏がドゥルーズ=ガタリの「公理系」という概念について批判していたと思うけれども、記憶しているかぎりでは、民衆が何か発案しても資本がそれをすぐに公理として追加し自らのうちに取り込んでしまうのなら、結局何をしても無駄だということになって、彼ら(ドゥルーズ=ガタリ)が批判している「回収」という「幻滅に満ちた出来損ないの概念」と見分けがつかなくなるのではないか、という論旨だった。実はそうなんじゃないかという気がしている ― 特に後期のドゥルーズとガタリは、芸術的創造に最後の期待をかけるといったかぎりなく絶望に近い立場なのではないか、という気が。
{!!)
『資本論』そのものの通読が根気が続かずできない、という理由で、
ネグリの邦訳 ― 『未来への帰還』(インパクト出版会)、『転覆の政治学』(現代企画室)、『構成的権力』(松籟社)
〔最後のこれは読みかけ〕 ― を読んでいる。ドゥルーズ=ガタリのように突飛な書き方ではない(と思う…)のだが、「現象学」とか「精神科学」などの用語の使い方がかなり変わっていて、困惑している。
{!!)
図書館で借りてきて今日読んだのは、
『梅本克巳著作集』(三一書房)の第1巻と第5巻だったりとか。
ネグリ『転覆の政治学』の訳者解説で
小倉利丸氏が「主体性論」なんかと混同してほしくない、ということを書いていて、自国の過去の議論をろくな検討もなしに軽蔑的に退けるのはどうかと思ったのが読もうとした動機だが…。
読んでみて、
柄谷・西部・山城ほか『可能なるコミュニズム』(太田出版)に収められている山城むつみの論文が「プロレタリア独裁」の倫理を前面に押し出して岩井克人の経済学中心主義的議論を批判しているのは、梅本が宇野派の経済学者たちに非経済学者の立場から論争しているのと同型だと思い、好感をもった。梅本にも山城むつみの議論にも。
ただ、著作集第1巻の道徳的な議論にはほとほと退屈してしまったが。
{!!)
そういえば『少年と少女のポルカ』の感想を書いてなかった。
まず、自然で淡々とした、気負いも怨恨もない書き方に感銘をうけた
(比留間郁夫の諸作品とか森内俊雄『谷川の水を求めて』等々とはまったく違う)。読んでいるうちに、吉田秋生『河の流れのようにゆるやかに』をちょっと思い出した。或いは、島田雅彦の『忘れられた帝国』前後の作品群とかを。それからもちろん橋本治の『桃尻娘』。
{!!)
もう深夜
というか朝の4時なのに、神経が苛だって眠れない。NAM の発見その他のせいで興奮しているようだ。お薬もないしねえ。
{!!)
昨晩は興奮のあまり朝まで寝つけなかった。
眠ってからも、不快な悪夢をたて続けにみた。
*夢断片の本文
夢断片1.
(前半部忘却)
****兄弟(左に**君を醜く老いさせたような感じの、《パセドー氏病》を思わせる光る眼を突出させた男、右に父?)に尋問されている。
うっかり、「あなたがたは過去の行為に反省はないんですか?」といってしまう。
左の男「反省とは何のことだ?」
ぼく「ご自分の胸にきけばおわかりでしょう?」
男たちは激昂しはじめ、まずいことになったと思い、「すいません、今のは取り消します!」と必死になって弁解する。どうしたわけか目の前にパソコンのディスプレイみたいなものがあってぼくはそこに頭突きしてスイッチを押して画面をもとに戻し、それで《無かったこと》にしようという意志を表現する。
だが男たちは許してくれない。近くに控えていた別の中年男が、「こんなやつには、耳*(ジ**と発音されていたが忘却)をこうやってやるのが一番ですよ、こないだもこうしてやったらすぐだった」とシャープペンシルの先でぼくの右の耳たぶをぐりぐり傷つけようとする。ここで恐怖でめざめる。
夢断片2.
柄谷氏の NAM に参加している。が、古参の男がぼくの過去を道徳的に非難しはじめる。それでその男に、「道徳的な説教をされるのが一番嫌いなんだ、こんどやったらぶっ殺すぞ!」と怒鳴る。
(はっきり思い出せないが漠然と関係あったような気がする事項)
・通学路
・**ちゃんとの再会?(あまり相手にされない、冷淡)
・**さん(紹介者?)
最初の夢断片では、他人の過去 ― 政治的殺人に関わるものらしい ― を非難して激昂した相手から危害を加えられる。2つ目の夢断片では、他人から自分の過去 ― 何についてだか判然としないが ― を非難されて相手を死をもって威嚇する。
「****」というのは、ぼくが学籍を置いていた大学を政治的に《支配》しているとされていたとある政治的学生集団の直接の指導者
(中間管理職みたいな感じだろうか)を数年前までやっていたとされる中年男である。もちろん兄弟ではないし、そもそもこの人にぼくは会ったことさえない。ただ、当時一番親しかった友人のひとりがこの「****」らに《恫喝》されたことがあり ― 尤も、ビンタされる以外の身体的危害は加えられなかった、とは言っておかねばならないが ― 、この「****」という人物の名前は神話じみた恐怖とともに記憶に刻まれている。
半ば滑稽でばかばかしいと思いながら、そして半ばは懐かしく思い出すのは、《恫喝》を受けた後その友人がぼくにこぼした愚痴のことだ。
「あぁ、左翼なんだったら、《共産主義者魂》なんて言わないで欲しいよ!」 ― ところで、ネグリの本の序文をみると
「運動魂」という言葉が使われていて、左翼でも「《科学的》社会主義」よりも主体性を重んじる人たちは、いささか不気味な響きが込められているのではあるが、《魂》 ― かなり根性論的な感じが濃厚 ― という用語を平気で使えるんだなあ、と近頃考えた。
さらにここから連想して、吉本ばななと島田雅彦の対談 ― 中年女性から
「あなたの文章には言霊がある」といわれて吉本ばなながぞっとした、という逸話が語られていた ― のことを思い出す。読んだのは何年前かなあ、高校の頃か。
{!!)
朝までねむれなかったその翌日は、気分が沈んでいる。何もいいことが起こらず、自分からことを起こす力も内部に感じられず、いっさいの可能性に懐疑的になり、他人に対しては猜疑しか湧いてこない。
{!!)
MONK の
Ask me now を繰り返しきいている。
{!!)
* こりゃ他人事じゃないな
NAM 結成総会での柄谷行人氏の講演より。
また、先ほど僕は「働くな」ということを言いましたが、学校をめぐる問題についても「学校に行くな」という人たちがいるわけです。現に不登校ということが社会問題になっている。むろん、学校に行かなくてもいいのです。しかし、そのためには、それに代わる別の学校を作らなければならない。これも「超出的な対抗運動」だと思います。一方、大学院生の数は激増しているにもかかわらず就職の当てがなく、また塾も頭打ちになっています。それらの問題を解決するためにも、小学校から大学まで、新たな学校を作り出す必要がある。文部省も、塾と学校の区別をやめるとか、公立校を民営化するなどの案を出してきています。われわれは、それに便乗し且つ対抗する形で、フリースクールを作るべきだと思うのです。
{!!)
NAM 発見による躁の反動か、めちゃくちゃたるい。苛だちと無気力にふたたび沈みこみつつある。
読んでいて面白いのだけど、
NAM を語る柄谷氏は、『懐かしい年への手紙』の「ギー兄さん」、『燃えあがる緑の木』の「新しいギー兄さん」、『宙返り』の「師匠」のようにみえてくる。前近代的な共同性を目指すわけではない、といっているので、「根拠地」の運動などとは違う、ということになるのだろうけれど……。大江の一連の小説において、単に宗教や政治ではなく、農業や牧畜の重視といった経済的側面が重視されている、という点が以前から気になっている。
どういったらいいのかなあ。
「宙返り」会見後10年後の地獄堕ちを経て再び積極的な宗教を語りはじめる「師匠」と NAM を語る柄谷氏が重なってみえるのは、どこまでも本気のようにも、本人も疑いつつ語っているようにもみえるからじゃないか。コミュニズム = 宗教。柄谷氏が左翼の政治組織を離れてから40年以上、「師匠」の10年どころじゃない〈空白〉(あいだ?)だけれども……。
NAM 関連の掲示板に投稿されていたある投稿は、柄谷氏の過去 ― 「宙返り」 = 転向 ― を左翼の論理から糾弾するものにみえる。昨晩みた夢みたいな感じかなあ。
{!!)
悩みはふかまる。
(25にもなってボケっとしているのだから、当然といえば当然だが)親は就職先
(ないし他の行先)を探すように毎日もとめてくるし、といって、大学院にもどることはもうできず、企業にはいる気はなく ― 完全な行き詰まり。
そんなときに
NAM をみつけたんだけど、大阪まで行くのはしんどいし、具体的なことがみえてこないし。2000円なら、映画館にはいるつもりで支出することも
(いまはまだ)できるのだが。
迷うなあ!
{!!)
幾ら10年来関心をもってきた「師匠」の〈行動〉 ―
蹶起? ― とはいえ、条件反射みたいにただちに賛同していいものかどうか。
例えば
青空文庫に収められている『音楽の反方法論序説』というテキストで、高橋悠治が柄谷行人と浅田彰をこう批判している。
対話の最後に柄谷行人がくる。
この操作された順番で、
それまで知のシステムのあいだをくぐっては、
パロディー化した相手の言説を投げかえす浅田彰と、
そのからくりに気づかずに
「世界」についての思いこみをひたすら独語する
お人好しの知識人との喜劇的な緊張関係はやぶれ、
群れのなかの相似形の疑似対話で、
知の円環は閉じられる。
この気を許した人間関係は、日本的「ホンネ」の共同体と
どこがちがうのだろう。
知的天皇制の雰囲気のもとでこそできることではないのか。
(この最後の対話は、日本語という「外部」の言語に
安住しているからできるようなものだ。
この本がもし、英語かフランス語で出版されていたら
論争にまきこまれることになっただろう。)
フランスの理論がアメリカでは大学共同体の「学術」になり、
それがめぐりめぐって日本では
疑似孤立群の世界早解り談義になるのか。
この群れは、一元的普遍に世界をとりこんだあげく
外部を失って自己崩壊するヨーロッパ的知の
貧しいコピーでもいいから、「世界」の内側に席を確保したい、
という願望から、
知的三極構造のなかの日本を忠実に演じているのか。
外部についての知は既成のシステムへの回収にすぎない、
というようなことを書いたのは柄谷行人ではなかったか。
書くことだけならだれでもできるが、
回収されている自覚もなく、世界の見取図を語っているのは、
かつての柄谷行人の影なのか。
回収作業が知識人の習性になっているようでは、
創造 (想像) 力のはたらく余地をあらかじめ塞いでしまい、
過剰ゆえに無力なことばをつらねるか、
現実追認を近未来予見に偽装することができるばかりだ。
近視眼的な図解は転換へのインパクトをもてないだろう。
こういうパフォーマンスを見ていると、外部にとどまるには、
自分が世界のなかで無力であり、無知である
と認めるところからはじめる以外にはないのではないか、と思ってしまう。
無害無力な未知のものが文明の足元に立ちあがる。
カタストロフィ点とはこういうものだろう。
文明内部での文明批判は、じつは
この恐怖感を覆い隠すために費やされていることば
ではないだろうか。
「外部についての知は既成のシステムへの回収にすぎない」というのはどういう文脈でのどういう議論かよくわからないが、「カント的転回」 ― 積極的な倫理や道徳
(もう両者の質的相違は語られない)、コミュニズムへの転回でもある ― 以後柄谷氏が変貌したのは確かで、その意味がよくわからないままでいる。
{!!)
どこかで鎌田哲哉氏が批判していた通り、コミュニズムの必要を怒号する柄谷氏の文章を読んでいて感じるのは、老いと焦燥だ。否定的な意味だけでいっているのではないけれど。
数年前ある知人が、遠からず柄谷氏と浅田彰が〈NTT青年自由党〉という党を結成し、そこにお高くとまった厭らしい青年たちが殺到することになる、そうなったら謎の集団が結党式に爆弾テロをやり、〈悪しき感情転移〉によって出来あがった集団が根こそぎにされる ― という夢想を話してくれたことがある。そのときは純粋に夢想、というよりも
奇想が問題なのだとばかりおもっていたが……。
爆弾テロはともかく、集団創生はなされつつあるわけで、そして知人の予言 ―
ご託宣 ― 通り、ぼくは参加しようかどうしようか迷っている。彼の夢想のなかでは、爆弾テロでぼくは死ぬことになっているのだが。
{!!)
大阪に移住する、という空想にしばし耽る。親のすすめのままに某出版社
(積極的な関心をもったことがない会社)に履歴書を送るよりもまだしも有意義なような。
若干の比喩の検討。
- 生きた貨幣(クロソウスキー)
- 生きた労働(宇野、梅本、ネグリ)
「生きた」という限定は、抵抗ないし〈対抗〉の根拠として十分なものだろうか。ネグリにおける〈生きたもの〉ないし現在分詞的なものの〈死んだもの〉ないし過去分詞的なものへの優位には、ベルクソニズム(〈動くもの〉、持続)及び後期フッサール(生きた現在、絶対的主観性、超越論的意識流)のにおいがする ― つまり良かれ悪しかれ〈生の哲学〉のにおいがする。
ところで(以上とは関係ない思いつきだが)、「生きた商品」というとなんだか売買される奴隷のようなニュアンスがある。「生きた土地(大地)」というのは Nature naturante にあたるかな? では、「生きた資本」という比喩は意味をなすだろうか。
{!!)
NAM の方針で興味がひかれるのは、〈革命的暴力〉と〈革命的警戒心〉を否定しているところだ。左翼のセクトを現在の地位低下に追い込んだのは、この2つの原則だったと思うから。と同時に、非暴力かつ開かれた情報公開といった立場を貫いて、資本を
止揚することができるかどうか、ということが最大の疑問。政治的な抵抗というよりも、宗教的な抵抗という感じがして、しかしそれも不快にはおもえない。
{!!)
Ryoji KASHIWAGI Official Affliction に設置されている
Vice? or Virtue? 掲示板での「お嬢」さんの発言。
#若い学生のみなさんへ。ドの字やガの字に触れる前に「嘔吐」あたりを読んでおくと吉(これはマジっす)。あと迷ったら市倉宏祐せんせのガイドブックを使うのが無駄のない選択。変なはまり方するといくらカネと時間があっても足りんよ〜。
まさに実感。
というか、カネの問題だけならまだしもいいのだ。ドゥルーズ=ガタリにおいては、邦訳がないどころか絶版でしかも国内のどの大学図書館にも所蔵されてないような多くの本の参照がもとめられている。それをいちいち調べているひとはどのくらいいるのか? というのが長年の疑問。ぼくもちょっとやりかけていて、まったく進まないでいる。
{!!)
なんでこんなことをいきなり言い出したか、というと、柄谷氏の『可能なるコミュニズム』(太田出版)や NAM 関連のサイトを読みながら『資本論』を参照したのに続き、ドゥルーズ=ガタリの『資本主義と分裂症』で『資本論』の参照をもとめた箇所を(以前にも調べたことがあったが、また)調べなおして、ほとほと疲れたから。でも『資本論』はそれ自身が面白く、価値があり、邦訳もあり安価に入手可能だという点で、ドゥルーズ=ガタリが引用するテキスト群のなかで例外的な存在。
{!!)
いまでも理解しているとは到底いえないが、マルクスやフロイトを何度も読みかえしてはいるけれども、最初に『アンチ・オイディプス』を読んだ高校生のころには、フロイトもマルクスも読んでなく、ただひたすら反感をもっていた(もちろん、サルトルに対しても)。だからはじめにドゥルーズを読み、それを理解するために古典的なものに遡ったわけで、(まあ仕方ないことだが)なんとも効率のわるい読書だ。
{!!)
高校生のころ強烈な魅力を感じたのは、たとえば以下のくだり。
既にみたように、分裂症と資本主義との関係は、生き方や環境やイデオロギーなどの問題を遥かに超えて、唯ひとつの同じ生産過程の次元で(唯ひとつの同じ経済の次元で、といいかえてもいい)、つまりこういった最も深い次元で提起されるべき問題であったのだ。われわれの社会は、ドップのシャンプーやルノーの自動車を生産するように、分裂者たちをも生産するのだ。(ドゥルーズ、ガタリ『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳、河出書房新社、294頁)
いまは「唯ひとつの同じ…」といったドゥルーズのスピノザ的常套句にむしろ警戒的ないし慎重になろうと努めているが、最初に読んだときは、商品のみならず
人間類型もまた一定の条件下で
生産される、という思想に心から驚嘆したものだ。だがそれなら、スピノザ的決まり文句での魔術的解決も経済過程との同一視
(ドゥルーズ的平行論?)もみられない、フーコーの「規律・訓練」論にまず向かうべきだったろう。
{!!)
その後、うえの引用文(等)において表明されている、次のような考えに共感してドゥルーズ=ガタリを読みつづけた。
- 「過程」という考え方
- 「売れない」商品として分裂(病患)者をとらえる見方
ドゥルーズ=ガタリ掲示板への投稿でも書いたが、経験を過程としてとらえる、ということは、「最終状態」という考えの否定を含意する。外から、他から無理矢理に捩じ曲げられ暴力でもって強制=矯正されるのでないならば、
生成の過程が停止し凝固するはずはない、ということだが、それは科学的真理とか臨床的事実というよりも
信(仰)に近いのだ、ということも書いた。そういえば、以前の日記でも同じことを書いたような気も。
(←早発性痴呆?)
{!!)
「売れない」商品としての人間について。まず、『資本論』第1巻第7篇第23章第4節より(向坂逸郎訳岩波文庫版の第3分冊、229頁)。
最後に相対的過剰人口の最下層の沈滓(おり)が巣くうのは、被救護貧民の世界である。浮浪者、犯罪者、売春婦など、簡単に言えば、本来のルンペン・プロレタリアートを別にすれば、この社会層は3つの部類から成っている。第1には労働能力者。イギリスの被救護民の統計にざっと目を通しただけでも、その数が恐慌のたびに膨張し、景気の回復のたびに減少することが知られる。第2には孤児や貧児。彼らは産業予備軍の候補者で、たとえば、1860年のような大隆盛時には、急速に大量に、現役労働者軍に編入される。第3には、朽廃者、零落者、労働不能者。ことに、分業のために融通がきかなくなって没落する人々、労働者としての標準年齢を超える人々、最後には、危険な機械装置、鉱山採掘、化学工場等とともにその数を増す産業犠牲者で、不具者、罹病者、寡婦等がこれである。被救護貧民は現役労働者軍の廃兵院であり、産業予備軍の死量である。この貧民の生産は、相対的過剰人口の生産のうちに含まれ、その必然性は、相対的過剰人口の必然性のうちに含まれているのであって、それは相対的過剰人口とともに、富の資本主義的な生産と発展の一存在条件をなしている。この貧民は資本主義的生産の空費 faux frais に属するが、しかし資本はこの空費の大部分を、自分の肩から労働者階級および下層中間階級の肩に転嫁することを心得ている。
「この貧民の生産」というような表現をとっているから、分裂(病)者の「生産」という表現もありうるのかもしれない。だが、マルクスにおいてはこの「生産」は商品生産とはちがったレヴェルで、労働力商品の(再)生産の裏面として語られている
(と思うのだが)のに対し、ドゥルーズ=ガタリの場合は普通の商品生産と並置してしまっている。また、そのことと関連して、「売れない」ということの意味が明瞭でない。「労働力商品として」売れない、という意味なのか、それとも意思疎通に問題があり、他人にとって使用価値であるとみなされない場合が多い、という意味なのか。
それからもう1箇所、気になるところ。第3巻第3篇第15章より(岩波文庫版第6分冊、406−407頁)。
現存人口にたいする比率において過多な生活手段が生産されるのではない。逆である。多数の人口を適度に人間的に満足させるには過少に生産されるのである。
人口中の労働能力ある部分を就業させるのに過多な生産手段が生産されるのではない。逆である。第1には、事実上労働能力のない、その事情により他人の労働の搾取に頼るか、またはただ惨めな生産様式の内部でのみ労働として通用しうるような労働に頼る部分、人口中のかような部分が過大に生産される。第2には、労働能力ある人口の全部がもっとも生産的な事情のもとで労働するには、したがって労働時間中に充用される不変資本の大量と有効性とによって彼らの絶対的労働時間が短縮されるには不充分に、生産手段が生産される。
気になった、というのは、特にここだ。「事実上労働能力のない、その事情により他人の労働の搾取に頼るか、またはただ惨めな生産様式の内部でのみ労働として通用しうるような労働に頼る部分、人口中のかような部分が過大に生産される」。マルクスはどうしてこういうことになるのか詳述していないし ― 生前には未刊の草稿だから ― 、婉曲な表現で具体的に例えばどういうことを指すのかよくわからない。だから当たっているかどうかわからないのだが、身体障害者や精神障害者たちの福祉作業所のことを直感し、船橋市が発行している精神障害者たちの自助活動についてのパンフレットでの作業所についての記事 ― 障害者たち本人が書いている ― を読んだときのことを思いだしたのだ。それでハッとし、恐怖がよみがえった。自分がここで労働することになったとしたら、賃金はいかばかりだろうか、という恐怖が。
{!!)
「最終状態」への批判と「過程」説
― ドゥルーズ=ガタリは思弁的な叙述に徹しているが、具体的臨床の理論としてはレインが『経験の政治学』(みすず書房)で述べた「分裂病=旅」説(中井久夫氏はじめ、多くの精神科医から批判された主張)と同一である ― が打ち出されている箇所を『アンチ・オイディプス』から引用(前掲書、39頁)。
「魂と体とが遂にほろびさる恐るべきかの極致」(《自閉症患者》)を呼びだすために、ひとが〈過程〉を停止したり、あるいは〈過程〉を目標にしたり、あるいは〈過程〉を空虚の中で無限に空転させたりすればするほど、分裂症患者はそれだけますます特殊な人物とされて現われてくることになる。クレペリンの有名な最終状態……。ところが、逆に、ひとが生産の物質〔質料〕的過程に注目することになれば、〔過程の〕別の完成の可能性が現われてくると同時に、たちまちに生産物の特殊な性格は消えてゆくことになる。分裂症患者は自閉症において人工的な人物とされてしまったが、分裂症はこうした患者の情感〔病状〕である前に、欲望や欲望する諸機械の生産の〈過程〉なのである。
それでマルクスの相対的過剰人口の「生産」の議論とどこが繋がるんだろう? と恥ずかしながら今日初めて考えてみたのだが、どうも、無制約的で絶対的な観点からすれば、すなわち
過程の無条件的貫徹という観点からすれば避けられるはずの制約が人工的に作り出される、という点で一致しているのではないか。ガタリが教育について、ネグリが労働時間について打ち出していたのと同じ批判 ― すなわち、稀少性(乏しさ)が人為的につくりだされている、という批判だ。
{!!)
「公理系」について。『千のプラトー』(河出書房新社)517−518頁より。
マルクスが資本主義の機能を公理系として説明していたとすれば、それは特に、よく知られた利潤率の低下傾向についての章においてである。資本主義は、内在的な法則しか持たないからこそ、公理系なのである。資本主義は、宇宙の限界、資源やエネルギーの限界に直面するような振りをする。しかし資本主義はみずからの限界(既存資本の周期的な価値低下)に衝突するだけであり、資本主義が押しもどし移動させるのは、それに固有の限界だけである(利潤率の高い新しい産業における新しい資本の形成)。(中略)資本主義がその限界に衝突するのと、限界を遠くに押し退けより遠くに設置し直すのは同時にである。(中略)資本主義内、あるいは1つの資本主義国家内におけるすべての公理は、「回収」を意味するといわれることがある。しかしこの幻滅に満ちた概念はあまりよい概念とはいえない。資本主義という公理系のたえまない手直し、つまり付加(新しい公理の言表行為)と除去(排他的公理の創設)は、決してテクノクラートだけの課題ではない闘争の目標なのである。事実どこでも、労働者の闘争は、とりわけ派生的命題にかかわる企業という枠組を逸脱するものだ。(中略)公理と、現実の生きた流れのあいだには、基本的な違いがつねに存在している。公理は、制御と決定の中心に流れを従属させ、その1つ1つに切片をあてがって、その量を計測する。しかし生きた流れの圧力、流れが課し、強いてくる問題の圧力は、公理系の内部において作用しなくてはならない。全体主義的縮小に対して闘争するためにも。公理の付加を追い越し、加速し、方向付けてテクノクラートたちの倒錯を妨げるためにも。(小沢秋広訳)
{!!)
ここでドゥルーズ=ガタリが「公理系」と「現実の生きた流れ」として語っているものは、ネグリが『構成的権力』で「構成された権力」
(過去分詞的;対象化的;過去的)と「構成的権力」
(=「構成する権力」:現在分詞的)といった対比で語っているものとほぼ同じものだと思う。(ドゥルーズの好むスピノザの決まり文句をつかっていえば)〈唯一の同じもの〉の2様の表現 ― 同じ事態の、同じ過程の表裏。佐々木力氏がまさにこの概念に焦点を絞ってドゥルーズ=ガタリに批判を加え、第3世界の労働者大衆の希望を根拠にしてトロツキーの穏健な進歩主義的歴史観(線的時間表象)を擁護したのは確かに鋭い着眼だと思う。佐々木氏の批判で論点が尽きるとは思わないが、『資本主義と分裂症』を通して、資本という贋の内在とありうべき〈真の内在〉 ― ネグリなら〈構成的権力〉、自体態にある民衆総体の力とでも呼ぶであろうもの ― とがほとんど識別不可能に感じられてくるのは確かなことだ。
{!!)
今朝のご託宣 ―
「道路交通法が廃止されて道路通行法が出来、道を歩いているだけで罪になる時代がくるとともに、精神病院が成人病院に変貌し、一定の年齢に達しただけで病気だとされ収容されるようになるだろう。」
めざめてから3時間、朦朧とした状態にとどまると、かなり明晰な映像や観念がつぎつぎに浮かんでは消える、といったいつもの状態が生じてそれを楽しんだ。頭がはっきりした状態のときには、ほとんど僅かばかりの娯しみもないから、こういう時間だけが ― 本や音楽に没頭しているときを除くと ― 自分にとってのささやかな至福のときだということになる。もちろんこれもすぐに消えてしまう。後から思い起こそうとしても、とりとめのない断片を言葉に表すことができるだけだが。『宙返り』の「師匠」が「大きな瞑想」からかえってきて「案内人」に向けて喋る片言、うわ言というのはこういうもののより大規模なかたちだったのだろうか。
ふたたび NAM について。
既存のセクトとしての左翼の側から出てくるであろう批判 ― 「主体」を欠いた運動ではないかという批判が妥当とはおもえない。生産過程から流通過程にシフトし、〈消費者としての労働者〉を主体
(ここでは〈買う主体〉)として立てる、という立場が、主体一般を欠いているわけではない。
但し、〈レーニン(主義)的〉と形容されるべき特定的主体、かつて〈プロレタリア的人間〉といわれたものの像 ― 超人的な規律と〈鉄の意志〉を主要属性としてもつ ― だけは欠いている、まさに不可能なものとして欠いている。このことをどうとらえるか、というのが問題だ。
道徳的見地からコミュニズムを志向した立場に、戦前の新カント派の一部のコミュニズムがあるというが、
― 原典を読んだわけではなく梅本の批判的言及を通じて知っているだけなのでこのこと自体についての評価は差し控えるけれども ― それは〈階級協調〉の立場に帰着したという。徹底的な非暴力と情報公開の原則をもち、レーニン的中央集権的前衛党の理念をしりぞける NAM は、それと同じことになりはしないだろうか。最初資本は NAM を受け入れるけれども、やがて NAM が資本にたいして〈対抗ガン〉であることがわかる ― それでも NAM をしりぞけることはできないのだ、といわれるけれども。
〈ガン〉という病の隠喩だけで十分だろうか ― 資本の新たな発展段階を準備するだけに終わるのではない、ということが、経済(学)的に確かめられているのかどうか。また、仮に NAM が資本に対して本当に〈対抗ガン〉として力をもつにいたったとして、既存の勢力 ― 企業、国家、等々 ― が暴力をもって潰しにきたら、抵抗する術はないのではないか。
(自己の生きた労働を賃労働として売るな、というネグリ的な意味での)「売るな(働くな)」という標語、および(剰余価値を資本に実現させるなという意味での)「買うな」という標語
― 柄谷氏はそれらと相関的に「学校に行くな」といった教育現場における alternative にも言及しているが、これは〈資本に都合のいい労働力商品として再生産されるな〉、ないしフーコー流に言い直せば〈規律・訓練されるがままに甘んじるな〉という意味での標語ということになるだろう ― 、これらの標語は実際大変魅力的だ。2つ目の標語は剰余価値の実現(つまり〈流通〉過程)に、最後の標語は労働力商品の〈再生産〉過程に照準を合わせている。ガタリがしばしば言及する〈長期持続〉的見通しに立てば、もしこれらの alternative が多数者の支持を得て数世紀にわたって続いたならば、確かに資本はその〈根っこ〉を緊縛されて壊死していくことになる
かもしれない。過程に必要な時間を短縮する試みは、サルトルやバロウズによれば〈魔術〉であって、テロリズム同様未来からその潜勢力を借りうける企てなので、あとで必ず報いを受けねばならない。つまりテロリズムや空想によって過程を先取り的に早め、オウム真理教や「師匠」の教団内の「技師団」や「静かなる女たち」といったセクトのように〈予言された終末を自らの手で早め引き寄せる〉のでないならば長期的な過程を縮める方法はないのだが、そのような方法も成功することはなく、それどころか必ず〈報い〉を受けることになる。それを望まないのなら、自分が生きているあいだに起こるかもしれない〈壊死〉をみることがない、ということを諦念をもって受け入れるよりほかないのだろうか。
ところでここ数年、〈利潤率の傾向的低下〉を連想させる〈出生率の低下〉について、それがこのままどんどん加速すればいい、と思っていた。「売るな(働くな)」、「買うな」、「学校に行くな」といったさきの標語に対応させていえば、「生むな
(生まれるな ― おっとっと、これは無理だけれども ― )」ということになるだろう。これはまさに〈再生産〉過程を根っこから断ち切る〈荒療治〉で、
全体的消滅というにふさわしい唯一のものだ。ところでこの道が仮に実現されれば、資本が緊縛されて壊死するどころか、人類そのものが壊死することになる
かもしれないが。
(生命科学が人間の人工的発生に成功したとしても、そのようにして生まれた諸個体が集団自殺しないという保証は何もない。……なんだか話がズレてきた、というより妄想化してきたが。)
LETS の互酬システムについての覚書。
「他人にとって」使用価値になりうる、という限定が重要だろう。誰にとっても有用でなく、誰も欲しがらない物の生産やサービスの実践は、やはりここでも経済的には無。幾ら労苦と時間が掛けられても、誰も買おうとしない物・営為は財・サービスにならない。当たり前のことだが。
しばしば揶揄的に言及されるあの
「わたしの詩集、買ってください」はここでもまた経済的・社会的には無でしかない。それはそれでいいとして、『アンチ・オイディプス』が提示していたあの「売れない」商品 ― 分裂(病)者はこの新世界ではどうなるのだろうか。他者から”買われない”自己価値化、特異化の過程は?
(といった問いを立てることは、無理難題を吹っかけることでしかないのだろうけれども。以前にもあったことだが、病理的な二重視のような幻視?が起きている。提唱されている別の社会なるものが、現存社会の縮小再生産でしかない、という内容の幻視。前にこれがきたときは、ひどい抑鬱が数年間つづいた。自分を無価値なきちがいとして感じ・規定し、修道院か精神病院にはいるようなつもりで大学院に入院した ― 2年後に(正当にも ― 贋学生、仮病者として ― )退院させられてしまったのだが。)
{!!)
『資本論』との関連で読み直そうと、ドの字とガの字の『千のプラトー』の資本主義論(「捕獲装置」)を読み返し、「
トンデモ共産主義 queer communism」という形容が思い浮かぶ。必ずしも悪い意味だけじゃないけれども、悪い意味が入っていない、というわけではない。
{!!)
「科学的社会主義」という「
(日本)共産
(党)主義者」の決まり文句があったが ― そして佐々木力氏は政治や歴史といった学を基軸に据えての「
学問的社会主義」を唱えていたが ― 、それに対して「トンデモ共産主義」は非科学的ないし反科学的であるとまではいえないにせよ、科学との関係性やその援用の戦略は、上2者とは大いに異なっていることだろう。
{!!)
『千のプラトー』の「捕獲装置」論、特に例の「公理系」云々のくだりについて、宇野のいうような3分法でいえば「現状分析」にあたると思うのだが、それを支える原理的な議論が見当たらない ― というかよくわからない。彼らが挙げるもろもろの例や戦略は基本的に興味ぶかいものではあるのだが、単なる経験的な知識の寄せ集め・及びそれらに関する形而上学的(ないし存在論的)な思弁という印象だ。カントの『人間学』やヘーゲルの『精神哲学』といった著作が与える失望感を想起させる。
{!!)
前にも書いた通り、ネグリのいう「現象学」という語の用法は普通の用法とズレていてよくわからないのだけれども、もしかしたら『千のプラトー』の「公理系」を論じたくだりなどの政治・経済論
(今世紀後半に生じた諸事象についての「現状分析」にみえるもの)のような議論のことを指しているのではないか、とふと思った。全然違うかもしれないけれども。
{!!)
話は全然ちがうけれども、大学にいたころの友だち ― いまは某通信系大企業の子会社で働いている ― があるときこんな小噺をしてくれた。
大学のサークルに、目立たない無口な青年がいた。ところが彼は、どうしたわけか、某証券会社にはいってしまった。数ヶ月が過ぎ、部室に以前とはまったく人が違ったようになり目を血走らせた彼がかえってきて、サークル員たちに、
「先物(取引)やらないか、先物やらないか?」と哀願して廻ったが、当然のように誰からも相手にされず、そのまま部室を去った。それからまた数ヶ月が過ぎ、またしても印象をがらりと変え以前より静かにさえなった彼が部室にかえってきて、1冊の本を置いて去っていった。その本は、新興宗教の本だった。
小噺はここまでで、小噺好きの友人は、その彼が置いていったという本を見せてくれた。
「和尚ジャパン」という名前の宗教団体の本で、なかをぱらぱらみてみると、
「瞑想の快楽はセックスと同じ」とかいかにもオカルトがかった不純な神秘主義がいいそうなことが書いてあって、それには独自性は感じられなかったが、具体的な修行過程を書いてあるくだりにさしかかって、本当に驚いた。
「まずはまったく、狂ってしまえ」といきなり呼びかけていたのだ。オウム他の例にみられるように、残虐行為のヴィデオをみせたりして理性や判断力を麻痺させて洗脳していく、というのはひとつのパターンなのだろうが、ここまで露骨に、そもそもの最初からはっきり言うのは珍しいのではないか。その後、小噺好きとの友人らとの会話において、「まずはまったく、狂ってしまえ」という掛け声が「元気?」程度の意味価で用いられる、ということが1年ほど続いたものだ。
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まあこんな気の抜けたような
逸話 ― 本当は笑い話としてではなく「現代残酷物語」として語り・聴くべきものかもしれないが、小噺好きの友人にもぼくにも人間らしさとか良心、憐憫といったものがまったくなかった ― はともかく、労働力商品を売らず(=働かず)・流通過程において剰余価値を実現させず(=買わず)・労働力商品を(資本に都合のいいかたちで)再生産せず(=学校に行かず;生まず)といったいわば
安死術的な戦略がすこしでも有効なのであれば、同等の資格で、
「まずはまったく、狂ってしまえ」といったっていいじゃないか、とも思うのだが。だめかな? だめかもしれないなあ。
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旧態依然としており且つ認識論的にも疑わしい「科学的社会主義」についてであれ、魅力と説得性がないとはいえない「学問的社会主義」についてであれ、
《われわれは、いつまで正気にもどりつづけなければならないというのか?》と反問したくなる。俗情と結託している? 確かに、そうかもしれない。
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明日、読売新聞の秋期採用試験を受けにいってからほぼ1ヶ月ぶりに東京に行くのだが、ここまで間が空くと、
「上京」という感じがする。それで今晩緊張のあまり眠れなくなって、いつまでもこんな馬鹿話を書きつづけているわけだ。これで朝になったら本当に笑い事じゃなくなる。
極私的現代残酷(?)物語。
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3たび
NAM について。
柄谷氏による「
プログラム解説」から引用。
一九世紀末に、ベルンシュタインやカウツキーの議会主義に対して、ローザ・ルクセンブルグやレーニンが労働者の政治的ゼネストと蜂起を中心とする戦術を唱えた。しかし、それらはいずれも帝国主義戦争を阻止することさえできなかった。実は、国家の戦争を阻止できる力が労働者階級にあるならば、それは敗戦のどさくさによってもたらされた政治的革命(ロシア革命)などより、社会革命としてははるかに進んでいるのだ。だが、「もし」ということが許されるなら、このとき、命を賭けた、それゆえに困難な政治的ストライキのかわりに、労働者が通常どおり働き、且つ、資本制の生産物ーーどの国のものであれーーを買わないという運動を行なったとすれば、どうだろうか。このこと(general boycott)が第二インターナショナルの下で各国で同時に行なわれたなら、資本や国家はなすすべがなかったはずである。(強調は引用者による。)
もう1箇所。
ポランニーは、資本制市場経済を、共同体と共同体の間に発生した寄生的存在が共同体を浸食するという意味で、ガンにたとえたが、NAMの運動はいわば対抗ガン的なものである。すなわち、それは、資本制経済につきまとい、いつのまにか、それを浸食してしまうというような運動である。(…中略…) NAMは資本制を「打倒」したりはしない。たんに、それが静かに死滅するようにするだけである。
昨日、一種の「幻視」のような直感において、「別の」と称される社会形態が現存の社会形態の生き写し、双生児、鏡像…のようなものではないか、ということを考えたのだが、これらのくだりを再読して、その印象がつよまりつつある。「ガン」と「対抗ガン」は、
見分けがつかないほど瓜ふたつなのではなかろうか? ガンに身を委ねるのと、対抗ガンに荷担するのと、実質的な生(活)の形態はどうちがってくるのだろうか? ― そもそもこういう問いをだすことじたいが「俗情との結託」(病理的な傾向性の考慮)だといわれるかもしれないが、それは答えにならないと思う。
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Jerry LEWIS 監督・主演の
The nutty professor (底抜け大学教授)という面白い ―
Dean MARTIN も好きなひとには特に ― 映画があるんだけど、
the nutty communist(s) というのは映画になるだろうか?
Nutty というのは
MONK のsimple な名曲の題でもあって、あるときこの題名の意味が知りたくて辞書をひいたんだけど、「風変わりな」とかいう意味とともに
「きちがい」というのがあって、分裂
(病患)者だった MONK の、それこそ
底抜けに開放的で・しかもよろけて危うい感じのあの音楽は、まさに
それを暗示していたのだ、と一時思い込んでいたことがある。しかし、Jerry LEWIS の映画をみて、必ずしもそんなに重い意味価にとらなくてもいいのかな、とおもいはじめた。「底抜け」とかそういう曲名でもいいのかな、と。
(*o*)
そういえば、
ヴィンセント・ミネリ監督(ジュディ・ガーランド主演)『若草の頃』をみたのを記録し忘れていた。
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母が昨日、《F... (母の知人の演歌作曲家)が殺人を犯した》という夢をみた。
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今日、チロチャンに噛まれた。16年飼っていて2度目。今日は(義)父も噛まれた。(義)父は、スリッパでチロチャンの頭をぽかぽか叩いていた。また、チロチャンの大量のウンコに、かなり血が混じっていた。
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ちょっとした睡眠不足で、吐き気がつづく。
ひさびさの東京からの帰りの電車内は適当に
混雑していて、周囲からひどい圧力を掛けられる
というほどではなかったが、すぐそばに見知らぬ
無数の人体が位置し、それから適度に圧される、
という状態で約50分そのまま過ごした。
東西線の早稲田駅からJR総武線の津田沼駅まで。
6年間も通っていたわけだから、1000回以上
往復してきたはずの経路ではある。
研究室では、ひさびさに数人の他人たちに
囲まれる状態に、いささか緊張して、不器用で
ぎこちない言動を呈したりしてしまった。
もともと動作に優雅のかけらもないのではあるが、
そのことを改めて自覚した。
徹頭徹尾、
下層民なのであって、
そのことを片時も忘れたことはない。
ある友人らは、そのような言動が無用の irony
だと批判しながら離れていったが、自分では
irony だと思ったことはいちどもない。
知人と会って、本のコピーを手渡してもらい、
30分ほど雑談した。以前ならば、自然に
会話できたはずなのだが、どうもぎこちなく、
演技じみた痙攣的中断や話題の唐突な転換を
どうにも止めることができない。そのひとと
会うまえに、大学構内をひと廻り散歩し ―
生協の本屋なども覗いたから1時間ほどだった
ろうか ― かつての自分らの
溜まり場
2箇所にも足をのばしたが、住人が入れ替わって
いたらしく、鍵の番号が変わっていて、なかに
はいることができなかった。当然の
世代交代
ではあるのだが、寂しさを禁じえなかった。
かつては一帯を自分らの
領土、ないしは
ゲリラなどがいう意味での
支配地域とさえ
感じ、そう公言していたのだが。
もちろん不法に占拠しつづけていた場所、奪い、
わがものとしつづけていた場所だったのだが、
かつてそう思いこみ夢みていたように、何か
意味のある営みが共同でおこなわれる、という
ことは実はひさしく絶えていたのではあった。
だからそこに執着することは無価値な感傷以外の
ものではないのだが、ついつい
地縛霊
のように同じところに立ち戻る、ということを
たまにしてしまう。
電車内の情景にもどると、電車が混雑してくるに
したがい、目玉や脳髄の
充電されたような
感じがつよまり、(いささか矛盾した言い方だが)
「非物質的なスープ」に(半覚醒)意識が浸り
きっている、というような印象をおぼえ、それは
それなりに幸福なものだったので、そのまま、
自由にからだを動かせない数十分間を過ごしていた。
走行する電車の適度な振動が神経の振動につたわり、
半ば自己催眠的な朦朧状態がおとずれ、入眠時幻覚
といわれるものに少し似ている映像、音、
懐念
(これは誰か別の人が使っていたのをたまたま
小耳にはさんだので盗んだ言いまわしだが)
の遊動的な流れをたのしむことができた。