{!!)
知人と電話で長話、NAM のことを中心に2時間も話し込む。かれは、NAM の原理に対して懐疑的で、「フリーマーケットとどこが違うの?」と執拗に訊ねて来、また、LETS の互酬において〈売れない〉物
(「私の詩集」等)の行方に固執して追及してくる。
{!!)
確かに効率や利益といった問題を第一に考えるならば、市場のほうが比較にならないほど優位にたっているのではないか、と思える。「未来の世代」などを根拠にした倫理的・道徳的な動機が前面に出てきているのか?
{!!)
朝起きたら、前夜までの興奮が嘘のように醒めてしまい、またいつもの抑鬱にもどってしまっていた。空想になやまされる。〈洪水〉。
{!!)
家の
代理人として銀行に行くが、古典的な比喩がいうように
「神殿」を思わせる建造物に足を向ける気にはなかなかなれない。
これから銀行を破壊し、そこに居合わせた巫女、祭事、信者どもを
みなごろしにするのだ、とでもおもい懐きながらでなければ、到底
そこにおもむく勇気と元気がでてこない。どうしても必要な
操作、
経済的というよりは宗教的な儀式のようにみえる一定の操作をする
ことがどうしても必要であったとしてさえも。
もちろん武器ももちあわせず、他人のからだを ― 「心」のことは
いざ知らず ― きずつけるよりは自分の生活を破壊するほうを
どちらかといえば好む今日この頃なので、定められた一定の操作
手順に随うことより以外は何もせずにかえってきたのではあるが、
かえってきて着替える段になって驚いた。なんと
社会の窓が全開
だったのだ。社会に対して背を向け、狭い閉ざされた世界に
閉じ篭もっているありようとは皮肉にも正反対の、知らず知らずの
《意思表示》。
盗んでいるぞ、盗んでいるぞ。
{!!)
朝から、食事が喉をとおらないでいる。何か特別なことがあった
わけではなく、きのうひさびさに複数の知人らと会い、半日を
過ごしたというだけなのに、持ち合わせの
社交性、
受容能力のストックを使い果たしてしまったかのようだ。
こんなことでは、どうなることやら。
{!!)
食事せずに苛々しながら操作していたら、マウスを壊してしまい、
近所のコジマデンキまで新しいのを買いに行く。つまらないことで、
1800円もの出費。ツールバーの位置をうっかり変えてしまい、
もとに戻そうとして不器用にもしくじりつづけるうちに、マウスが
壊れてしまったのだ。以前から動きが悪くなりかけてはいたけれど、
残念至極。
Utiliser, c'est user. まあ仕方ないです。
ネグリは、今日の〈社会化された労働者〉、知的労働者において、
〈固定資本〉はそのひとの頭脳のうちに存する、といっていた。
プログラマや翻訳家などの場合はそういえるだろうけれど、多くの
場合はたんに慰めにとどまるのではないだろうか。鬱病の知人の
ひとりが端的にそうだったように、資格獲得による上昇を夢みつつ
まったくもってひどい状態に堪えつづける、といったひとたちの
存在をしっているので、専門性、〈スキル〉重視の社会への転回を
祝う気持ちにはなれない。
ぼく自身がそうであるようなあらたな〈相対的過剰人口〉、柄谷氏が
フリースクールと絡めて言及していたあらたな〈大学(院)は出た
けれど〉層は、じぶんの頭脳に〈固定資本〉をもっているといえる
だろうか。他のひとのことはしらないが、自分について、そんな
ものは全然ないと感じる。頭のなかに工場施設はない。『3つ目が
通る』の最初の巻にでてきたいじめっ子たち同様、頭蓋のなかには
トコロテンが詰まっている ― 或いはもっとひどい穢ない物が
はいっているかもしれない(例:
チロチャンの糞尿;妄想)。
ちょっと話がわきにそれるが、昨晩電話ではなした映画雑誌ではたらく
(といっても給料は出てないらしい)友人の父親が、自宅で数学の
受験書をつくる仕事をしているのだが、友人によると、かれの父親
は「儲かって儲かって、笑いがとまらない」らしい。 ― つまり、
少子化が受験産業や教育業界に回復不可能な打撃をあたえると思い
きや、少なくとも現状では逆の方向にすすんでいるらしいのだ。
友人は、台湾の事情などを例としてあげつつ反駁してきたのだが、
少子化になるとともに、親たちがひとりしかいない子どもにますます
カネをつぎこむようになり、かくして受験産業に荷担している
精神的帝国主義者たちはますます肥りつづけることになる、という。
だが、大勢いたこどもが各家庭ひとりに減っていく過程と、その
ひとりが消えゆく過程とでは、意味も効果もちがっている
のではないか、と思う。もちろん正確なところはわからないし、
統計をしらべたわけでもなけえばそもそもしらべかたも知らない
ので、推測をいっているだけだが。友人の父親がその恩恵に浴して
いるというこども=小皇帝への果てしない投資熱は、一時的な現象
であって、少子化の過程がある一線をこえたときには破局が
おとずれるのではないだろうか。
あらたな〈相対的過剰人口〉を学校や塾が吸収できなくなったと
して、おなじこども相手のフリースクールならそれを吸収できる
というのはなぜだろう。むしろ、〈フリー老人ホーム〉(?)の
ほうが需要がのびるにちがいないと思うけれども。
そういえば老犬、チロチャンの睡眠時間がこのところ延びる一方で、
そのうち起きてこなくなるのではと心配でならない。
{!!)
スコセッシ監督(デ・ニーロ他出演)『ケープ・フィアー』をみる。
テレ東で9時からやっていたのだが、時間を間違え、開始から30分
たったあたりからみていたが、これが相当面白い。犯人がニーチェや
ミラー、神は私の上になく私は神の下にない、とうたう17世紀の
神秘主義詩人を読んで知的にも体力的にも他への優越をかちとって
いる点、司法と正義の相克をクリアに指摘し、解決不可能なところまで
追い込んでいる点、かなり好感をもちました。イメージの面でも、
最後の船の場面での
揺れ、或いは水中の場面などすごい。
oo,ooo...
今日
(日付上は「昨日」)はまったく不毛だった。
マウスを壊し、それを買いかえた、というだけの一日。頭痛と胃痛、
食欲不振でなにもできなかった。今すぐにカネにむすびつかなくても、
翻訳練習や読書をできればよかったのだが。
社会化された知的労働者の頭脳のなかに物質化された
固定資本、
というネグリの表現が眼窩の奥のほうにずっと引っ掛かっている。
oo,ooo...
チロチャンは昼間寝ていて夜中じゅうおきているから、人間のほうが
ちょうど眠くなったころにハァハァいったり足をばたばたさせて
もがいたりし始める。睡眠が細切れになってしまう。
oo,ooo...
NAM 結成総会時の説明を読みかえしてみると、新たな企業形態の
創出が考えられているらしい。電話での知人との議論なども通じて、
ここ数日考えこんでいたのは、市場が実現する
より以上の
性能・効用が相互扶助
(自由人の連合;自由連想?)によって
実現されるのかどうか、ということだ。
例えば昨日はマウスを買いにいったけれども、マウスの生産は
一個人がなしうることではないし、数人が連合しても困難だろう。
なんらかの企業−工場がやはり必要なのであって、プログラムの
自由な頒布の場合とはわけがちがう、という問題を考えていた。
ネグリの表現を借りていえば、固定資本 = 生産手段(諸機械等)
が
頭脳のうちに物質化されている場合、それこそコンピュータ
のプログラムのような場合には、社会化された知的労働者 ―
『エティカ』のスピノザが曖昧に「自由な人間」として語っていた
ものに近づけて理解することができると思う ― が、資本に依拠
せず・搾取されずに生産し、自由に = 無料で頒布することで、
自己の名誉および自他の喜びのみを享受して満足する、といった
ことが実現しうるかもしれない。だが、生産手段が頭脳のうちに
物質化しえないような対象 ― たとえばマウスのような対象 ―
が問題になるときには、それと同様の想定はできない。ここで
躓くのではないか、と思ったのだ。
しかし、もし「株式会社であっても非資本主義的な企業」が本当に
可能であったなら、固定資本が頭脳に物質化されている、という
きわめて稀と思われる条件に縛られずに済むの
かもしれない。
oo,ooo...
小学生のころ、なぜか三浦つとむの『弁証法とはどういう科学か』
(講談社現代新書)を古本屋で買って読み、そのなかで語られていた
銀行の権力への批判のくだりに反感をおぼえたことがある。諸個人
から集められたなけなしの預金が融資によって大企業に回され、
大資本に利用されている、だから、僅かばかりの利息のために
権力に手を貸すようなことはやめるべきだ、銀行に預金をするのを
やめるべきだ、といった論旨だったと思う。そんなことをいわれても、
庶民にはわずかな利息でも重要なはずで、道徳的に「…するな」と
言われても困る、と考えたのだ。
しかし今では利率はかぎりなくゼロにちかく抑えられているし、
かといって貧しい諸個人が銀行から融資をうけると ― そもそも
受けることができたとしてだが ― どれほど圧迫され、それこそ
神殿と従属させられている信者たちのような間柄に身を置かねば
ならなくなるか、銀行の態度が好況時と不況時とでいかにちがうか、
といったことが、バブル時と目下の不況との比較でもって、
わかっている人には
(つまり身をもって体験した人には)わかっている
はずなのであってみれば、三浦の指摘をもういちど考え直すのも
いいかもしれない。こどもの頃読んで反感をおぼえた、というのは、
代案がないではないか、というようなことだったと思う。LETS ―
利子をうまないかわりに自分で
創造できる貨幣 ― なら、
有効な代案として考えられるのではないか。金利生活者以外にとって、
重要なのは預金の利回りではなく、むしろ適当な規模の融資を
受けられるその現実性ではないだろうか。銀行の「貸し渋り」、
好況時の猫撫で声の融資の誘いと不況時の鬼のような
締めつけ、
このような諸属性は、「銀行、金融機関も
企業なのだから」
といった遁辞ではゆるされないものだと思うので、もし利潤追求を
目的としない(つまり非資本主義的なかたちで)同様の機能を果たす
機関ができるなら、それ以上に望ましいことはないと信じている。
oo,ooo...
まあ思いかえせば、かつて三浦つとむには反感をもっていたのに、
ドゥルーズ=ガタリの銀行批判を字句どおり受けいれていた、という
のも変な話だが。『アンチ・オイディプス』が強調していた論点は、
貨幣は、個々人が
購買手段としてもっているときと、資本が
融資としてもっているときとでは、まったく本性を異にして
いる、ということだった。ここから「銀行に預金するな」といった
直接的な政治的アジテーションにいってはいないが、彼らの議論の
自然な帰結は、銀行の権力への批判ということになるはずだ。
{!!)
学部の最後の年だったと思うけれど、ジョン・ロック
『利子・貨幣論』(田中正司・竹本洋訳、東京大学出版会)や
ジョージ・バークリ『問いただす人』(川村大膳・肥前栄一訳、
東京大学出版会)を読んだことがある。経済を専攻したことが
あるわけでもないし、ただ好奇心から読んだだけだから、むろん
十全な理解とはいえないのだけれども、ふかく印象にのこったのが、
初期において諸銀行はほとんど民間のものであり、その破産も頻繁
に起きていて、そのたびに人々の生活がいかに脅かされていたか、
ということだ。そういう状況をふまえてバークリは、アイルランドに
国営中央銀行を、と訴えていた
(ような気がする、記憶が正しければ)。
何がいいたいかといえば、NAM であれ他であれ、自主的な貨幣を
発行する機関が次々にでてきた場合、そのような混乱に陥る危険は
ないのだろうか、ということだ。中央銀行が発行する貨幣、例えば
この1000円札を、誰もが「
本物の1000円札」だと
信用している。購買手段として役立つ、ということは(大抵の場合)
疑われない。ところがもろもろの機関が発行するもろもろの貨幣の
場合、システムが破綻したらどうなるか、という不安がつきまとう
のではないだろうか。
もちろん『可能なるコミュニズム』に収められている西部忠氏の
LETS 説明を読んで、「執事」がシステムの破綻が起きないよう
適切な管理をおこなう、ということになっているのはわかるのだが、
実際のことがわからないうちは本当に大丈夫かなかなか納得できない。
とりあえず、困らない程度の額をつかって実験してみるのがいいの
だろうか。どうだろう。……
oo,ooo...
そういえばうちの母親は、豊田商亊とか土地がらみの詐欺とか、
いろいろ引っ掛かっている。経済音痴というのは家系かな?
NAM に参加してみるかどうかは別にして、用心しないと。まあ
ぼくは金額が1万円を超えると眩暈がしてくるので、もともと
大きな買物などできず、詐欺に引っ掛かりようがないだろうが。
{!!)
われながら
尻軽だと思うが、NAM に参加申し込みをし、
会費を振り込んできた。どうなることやら。まあでも、とりたてて
害はなさそうだし ― 加入も脱退も自由で、非暴力・情報
公開を原則としているのであれば ― 、いまのどうにもならない
状態からぬけだす刺激にでもなればいいのではないか。
郵便局にいったついでに、日仏会館の年会費3000円も払い込む。
卒業しちゃったから大学図書館に入館はできても貸出はだめなので、
洋書を借りることのできる権利を保持しておきたいから。恵比寿まで
行くだけで時間・費用がかかってしまうんだけど、それはしかたない。
もうひとつ、3年ごしの借金も清算することにきめた。
団体精神。
脳や神経のなかでなにか不穏なことが起こっている、という予感。
短い狂騒の期間のあとに、長い長い抑鬱と反芻がつづく、という
じぶんの性格はしりぬいているのだけれど、
溺れる者は
らりるれろ〜っていうし
(意味不明)・・・
oo,ooo...
3年越しの借金(1万円)を突如清算。なぜか、郵便局には
銀行に対するような敵意、嫌悪があまりない。建物が小さいから
だろうか。
# 船橋市に光化学スモッグ注意報というのがでたらしいが、
「光化学スモッグ」って何のことだろう?
{!!)
さっきのチロチャンのオシッコの飛びぐあいはものすごかった。
「糞柱」という言い方があるらしいけれど、
尿柱とでも
いいたい趣きが。……これから洗わないといけないけれど、
冬は風邪ひかすといけないし、困ったことだなァ。
oo,ooo...
「貨幣を発行して、銀行になるよ……(家の)前の事務所に、
銀行を作る……」とうわずった声で家族に繰り返すと、なにか
奇妙なものをみる眼でみられ、冗談として片付けられてしまった。
重要(だと思う)ことを言い出そうとすると、いつもこうだ。
家族のみならず、周囲の友人
(以前は若干はいたのだ)もそうだった。
いつものように、突然目のまえに
映像のようなかたちで
情景が浮かび、
気分がでてくる。発熱時に、鼻孔から脳が
垂れてくるようにして。さっきの場合は、こないだみたフランク・
キャプラの映画『素晴らしき哉、人生!』におけるジェームズ・
スチュアートを中心にしたコミュニティの情景が思い浮かび、
JS を理想像としてそこに自分を投影し、閉店まぎわのスーパー、
マルエツの店内及び帰路でずっとその同一視をたのしんでいた。
その間うわ言のように同じ片言を繰り返していたのだ。
貨幣を
つくる、銀行になる、事務所をつかう……。実際、外との連絡
という観点はなかったけれども、スチュアート演じる青年が奮闘に
奮闘を重ねて維持していたあの『住宅金融』は、世界恐慌の混乱や
資本家の搾取・策動に対して、地域の有機的人倫的諸関係を立派に
まもりぬいていたではないか。NAM はともかく、もともとの LETS
発案の有力な動機のひとつが、獰猛な投機マネーから地域経済及び
人々の生活をまもる、ということにあったのを思い起こせば、あの
映画でのスチュアートの奮闘と重なる部分もあるのではないか。
もっとも、あの映画の主人公は、道徳的に高潔な素晴らしい人物
として描かれており、地域の人々から感謝・尊敬されているという
設定であって、それがかれの危機を最後の最後に救ったのだった。
しかるに
自分はといえば、最近はやりの
地域の不審者、
潜在的な
危険人物 ― いつ破裂するかわからない
人間爆弾
のような ― とみなされているのであって、感謝だの尊敬だのとは無縁だ。
かりにそんな自分が「NAM 二和向台」をつくったとして ―
ありえないことだが ― 、地域住民らは嘲弄か警戒か、或いは
立ち退き運動かをもって応じるのみだろう。我々(r)es 家のものは、
この土地に引っ越してきてはや10年をこえたが、当初からいまに
いたるまで胡散臭い活動をつづけてきており、隣人らからは、
よくて同情、悪くて軽蔑の対象となっている。最初はまったく素人
同然の
花屋、偉そうに机のうえに両足をのせて終日寝そべって
「カモ」を待つばかりの
不動産屋、
ぼくが小学生の頃
愛読していた無数の
オカルト本や怪奇漫画(日野日出志など)
だけしか売らない古本屋 = 「ばけものや」、客そっちのけ
で夫婦で毎晩大酒をくらっていた飲み屋 = 「フルール」……
これらがすべて潰れてきたのであって、今では「カラオケ教」に
かぎりなく近いカラオケ教室を開いている
(が、会員数は減る一方だ)。
ぼくはジェームズ・スチュアートではなく、「ばけものや」は「住宅金融」
ではなく、したがって地域からの信頼も何もない ― 10年も
住んでいてまだこの土地にとけ込めずにいるほどだ。
夢想の最初の条件が甘美であればあるほど、
現実と称されるものの
吟味・検討がつらくなる。ぼくは
銀行にはなれない。……
以前にも、ぼくが何かいったのを母親が
「それって、夢みる夢子さんね!」
と一笑に付したことがあったが、あの「夢みる夢子さん」というのは
子ども向けのおばけの本に出てくるような
ばけものの一種 ―
「口裂け女」のような ― だったのだろうか。
カントならば
病理的=受苦的な傾向性と呼んでしりぞけるであろう
要素の検討。
今晩は閉店間際のスーパー2軒をまわったのだが、最初の店にむかって
裏道を歩いているとき、数名の暴走族構成員らしい青少年らが溜まって
いるのに出くわした。もちろん、何らの会話も交流もなく彼らの傍らを
ゆき過ぎたのだが、このときにすでに
自動的に発生する空想、
心的
映画が始まっていた。他愛もない夢想で、彼らがぼくにちょっかいを出して
来て、ぼくのほうはいつもの返事をする ― つまり、「両手両足を切断
されたドラえもん」への言及からバイク事故の危険を説きはじめ、次いで
カップルの男のほうがバイク事故で両手両足を切断された場合における
性行為において市販の乾電池をつかった電気ショックの占める快感獲得
に関する意義を弁じたてる。すると、ありとあらゆる違いをこえて、
(夢想のなかでは)彼らとぼくの間に
感情的な交流がうちたてられる……。
なかば譫妄のように現実感を増すばかりの空想的情景において、ぼくは
うわ言めいた独白で「俗情との結託」論に反駁を加えている。
不良が革命的
だというのは確かに謬りかもしれないが、少なくともそれは革命の対象
なのではありますまいか??
oo,ooo...
晩の11時にフランス文学を専攻している知人から電話が掛かり、
2時間も身の上相談にのらされる。僕よりも数倍有利な条件にある
彼を、なぜ延々と励まし、そのことで疲れなければならないのか。
他人のご機嫌とりですごす人生も、それなりに楽ではない、
ということか。まあこっちも気晴らしになっているんだから
(じゃなきゃ電話に出ない)いいけれども。
oo,ooo...
『可能なるコミュニズム』(太田出版)の西部忠による LETS に
ついての論文を丁寧に読みなおしている。互酬のシステムと LETS
のシステムとの区別さえハッキリ理解していなかったことに気付き、
愕然とする。軽いのは
尻ではなく、別のところ ―
頭ではないのか。
oo,ooo...
この疲労と不機嫌は、まったくどうかしている。うまく気持ちを
整理できないが、電話をかけてきた人のせいだけではなく、自分
自身の受け入れ態勢にも問題があったようだ。休眠していた澱んだ
気分がふたたびよびさまされた、というか。
# ここ数日の興奮状態から、もっと安定した状態に移るべきだ。
oo,ooo...
上のほうで表明した苛立ちは、どうも
更年期障害といわれて
いるようなものに似ている気がする。こっちの
気分が不安定なのだ。
なんとなくからだのなか、というか脳のなかに幾つもの異質な物質が
あって、それらの比率が刻々変わり、それに応じて体調や精神状態が
推移している、というふうに感じている。
それと、電話で彼に気を遣い、媚を売りさえし、調子を合わせたことに、
後になって怒りをおぼえているが、これは不健康なことだ。
oo,ooo...
長い長い夢をみて、見知らぬ場所で見知らぬひとばかり出てきた。
起きてすぐ記録しようとしたが、パソコンが立ちあがるまでの短い時間
でほとんどが消えてしまった。
qq,qqq...
*夢断片の本文
痩せた男の子の性器をしゃぶっている。ところが、いくら吸っても
勃起しない。(こどものもののような小さい性器で、陰毛もなかった
ような感じがする。)やはり小さい陰嚢も含んで強く吸うと、痛がる
のでやめる。男の子は、何か慰めのことばを掛けてくれる。
その後何か賑やかで人出の多いところ ― どこだろう、商店街だか
秋葉原(?)だか、細い路地が入り組んでいて照明も明るい場所
だったような気がするが ― を歩きながら話をする。高校時代の
同級生(それほど親しくなかった人で、「ロックスター」の真似を
していた人)ともうひとり(忘却)からなるふたり組が関わってきて
……それがどう関係していたのかよくわからない。
またまったく別の設定、別の場面。高校らしい学校の始業式にいる。
自分は一度卒業してしまっているのに、またここに舞い戻ってきた
らしい。それで周囲から一目おかれてもいれば、同時に疎まれても
いる、という感じがしている。
式のとき、周囲はみな青いブレザー(以前通った高校での制服)を
着ているのに、自分だけ黒い服(学生服? 喪服? 燕尾服?)を
着ていることに気付く。教師たちは、それを注意したいようだが、
年長で特殊な立場のぼくに遠慮して、それができないでいる。
見ると、ネクタイを締めていないという理由で生徒がひとり叱られて
いる。それを眺めながら、不公平で申し訳ないな、と感じている。
誰だか特定できず、顔も姿もよくわからない女の子と会話している。
授業だろうか? 教師は、何か諦念と狡さをあわせもった感じの
中年ないし初老の男で、高校というよりは大学での2、3人の教師
(フランス語・ラテン語の先生や英語の先生)の印象が混合している
ようだ。一緒にいる女生徒が、「この先生、一列とか二列とか
ずーっと当てていくの!」といってくる。ぼくはどういうことか
すぐに理解して、「つまり……(忘却)なんだね」と応じる。
その初老の先生が、ぼくに質問をむける(どうも自分も授業に参加
しているらしい)。「『マクベス』のことを、よく知っていますか?」
ぼくは答えるけれども、曖昧な返事しかできない。「確かあれは史実
でしたっけ、よく覚えていないんですが」。いちど卒業している、
という特別な立場のため、そのような返事でもゆるされるらしく、
追い詰められたような気分になったりしないし、特に教室の雰囲気が
険悪になったりもしない。
oo,ooo...
Linton 氏自身の LETS についての説明より。
地域の産業が製品を輸出する市場を失うとき、観光客が
減るとき、或いは政府が支援を打ち切るとき、離れていく貨幣が
(代替の貨幣によって)取り替えられることはない。共同体を
流通(循環)する貨幣量が落ちるにつれて、(商)取引の水準も
落ちる。(その地域共同体の企業や人々が)提供すべきものを
もたないためにではなく、十分な量の貨幣が行き渡らないために、
事業は衰え人々は職を失う。(そのような事態において)限られた
需要の分け前を奪い合う競争にさいし、人々はおのれの健康、環境、
共同体の福祉(善く−生きている、というありよう)を損なう
ような仕方で労働する(ことを余儀なくされる)。人々は、貨幣
(カネ、金銭)のためならほとんど何でもやる覚悟でいる。
なぜなら、(貨幣獲得という)競技に参加するためにはそうする必要
があるからだ。これこそ、問題の発生源だ。なぜなら
(世間通例の)貨幣は、
まさにその構造そのものからして、乏しく得難いものなのだから。
いま不況だからかもしれないけれども、非常に説得力がある
ようにもきこえる。西部氏による紹介を読むと、Linton 氏はもともと
整骨をやっていたひとらしいが、そのようないわゆる
自由業
さえも不況でうける深刻な打撃がその発想源のひとつだろう。これも
共感できる。飲み屋やカラオケ教室、といった職業 ― 経営側から
「リストラ」されはしないが、その代わりに
客数の漸減と
いった真綿で首を締められるような過程をつうじて、
淘汰 ―
この生物学と神学を通俗化して半分ずつ混ぜあわせたような用語は
好きではないが ― がすすむことになる。「経営陣」のような
ハッキリした「人格的担い手」が想定できないだけに、現状把握も
有効な対策もとりにくい職種のものにも、上のような説明なら頷ける
と思う。
oo,ooo...
ただ、(まだ膨大な説明の最初の1頁を読んだだけだが)どうも貨幣
についての理解が常識的なように思える。たとえば、ここ。
《貨幣は単なる交換手段、一揃いの券、預金通帳に記された数字
でしかないのだ。貨幣はそれ自身に価値があるわけではない ―
食べられも着られもしないし、建築素材にもならない。貨幣とは価値
尺度である。インチが長さの尺度であり、トンが重さの尺度である
ように。尺度の不足などということは、決してあってはならない
ことだ。インチを切らしているからといって働けない建築家を考えて
みなさい!(=馬鹿げているでしょう。)それなのに、交換手段を
全く欠いているとき、私たちはしばしば無為でいる(のを余儀なく
される)。》
こういう理解でいいのだろうか。経済(学)の素人としては、読んで
ごくごく素直に納得できてしまうが、それだけにかえって不安になる。
極端な唯名論という感じで、貨幣の
貨幣性はどうなるのか、
と思ってしまう。
まあしかし、Linton 氏の説明の続きを読めばもっと詳細に書いて
あるのかもしれないし……。
今日読んだところで、読みながらイイ気分になったのは、ここ。
《(……)地域貨幣とは、その本質をいえば、〈共同体のある
メンバー(たち)が、他のメンバー(たち)にサービスを提供する
ことを約束する〉ということなのだ。このような貨幣、皆が自分で
発行できる貨幣が、個人的貨幣だ。世間通例の貨幣は、容易に
使えるが、稼ぐのは難しい。その結果自然に(=そのような貨幣の
本性・本質からして)、金持ちが金のない人々に権力を行使する、
ということにならざるを得ない。費用を負担する者が自分の思う通り
に指図するわけだ。他方、個人的なネットワークにおいては、貨幣
(カネ;金銭)は容易に稼げる。誰もが使えるカネ(貨幣;金銭)を
もっている。同じ理由で、誰もカネ(貨幣;金銭)を必要としない。
人々が欲するときにものごとが生じるのだ。人々は進んで(サービス
等を)提供するか、さもなくば全く提供しないかだ。誰も他人に
差し出がましい口をきくことはできない。》
o_o
教育テレビで、ヴィスコンティの『ベニスに死す』をみた。これで
4回目くらいだけど、ようやく楽しめてきた。こんなに残酷な映画
だったなんて。
o_o
さっきみた『ベニスに死す』について。
素晴らしい場面が幾つかあって、その一つでは、タッジオがたどたど
しく弾く『エリーゼのために』から突然回想場面になり、そこで
主人公の初老の作曲家は娼館のようなところにはいて、やはり
『エリーゼのために』を若い娼婦が弾いている。ピアノを弾く彼女を
男のほうがそっと覗いてみつめると、ピアノの蔭から顔を出して
女性がみつめかえす。それだけの場面なんだけど。いつものように
記憶が不確かだけれども、原作の短篇小説にはない場面だったような。
もう一つぞくっとする、というかぞっとした場面は、初老の作曲家が
美容院に入って若づくり = 化粧をする場面での大写し。また、
最後の男の死の場面、毛染めが汗で溶け出して、黒い筋が頬に垂れつつ
遠くのタッジオをみつめているところも、すごすぎです。発熱、発汗
で苦しみつつ、かつて自分が偉そうに説教した「人間の尊厳」を
うしない果てた自らの姿を自嘲して笑いながら死んでいく、その
なんともいえない残酷さ。バックでかかっているマーラーの第5交響曲
の第4楽章の甘美さは、その残酷さの印象をつよめるばかりだ。
それから、あともう1箇所。主人公の男は、何人もの土地の人間に
しつこく質問を繰り返し、ついに真実 ― 町は疫病におかされている
ー を聞き出す。その瞬間、かれの夢想が画面にそのまま突如挿入
される。タッジオがいる一家のところに歩み寄り、無礼を謝しつつ
町を立ち去るよう警告を発し、そうしながらタッジオの髪の毛を愛撫
するといったイメージが。それは、挿入されたときと同じほど唐突に
掻き消され、真相を告げてくれたひととの会話の場面に引き戻される。
これは、欲望で重くなり、それ自身の生命と重量を得たかのような
特殊なありようでの空想、夢想の姿を見事にとらえているように思う。
現実と瓜ふたつの姿で唐突に生じ、唐突に消え、呆然自失だけが残る。
ちなみに、主人公の男に真相を打ち明けた誠実なひとは、男が忠告を
無視してベニスにとどまり、「恋」をするために化粧をしてめかし
こみ、おしろいで白くなった顔でふたたびあらわれたときには、
嫌悪を露骨にしめした顔つきで、冷淡な対応をとる。この場面も、
みていて自分のことのように辛くなった。
LETS etc.
LETS に詳しかったり興味があったりする方々って
結構多いのかな。貧弱な英語力で毎日すこしずつ読んでいるけど、
どうしても「コミュニズム」との繋がりがよくわからないままだ。
Linton 氏の説明を拝読するかぎり、どうしても『素晴らしき哉、
人生!』でジェームズ・スチュアート演じる青年がやってる「住宅
金融」の奮闘にちかいイメージばかりが湧いてくるんだけど。
西部忠氏は Linton にインタビューしたりしているらしいが、柄谷氏
は LETSystem を採用している community を実見したことがあるの
かな? どういう communism が possible なんだろう。……
ジャン=リュック・ナンシーの Le communisme littéraire
(『無為の共同体』の増補版に収められた、邦訳にははいっていない
部分だったと思う。確か。)を数年前コピーしていたのを思い出した。
コミュニズムづいていることだし、読んでみようかな。(ていうか、
読めるのかな。ナンシーの邦訳ってどれもこれもすごい日本語で、
西谷訳の『無為の共同体』以外、何をいっているのかまったくわから
ないんだけど。そういえば心臓移植について触れているらしい新刊
が出ていたけれど、まだ買っていない。)
o_0
高校生のころ読んだ『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』で、ケージ
が、クレジットカードの普及が現存の貨幣形態を崩していく、という
ようなことをいっていて、当時もその後も「全然、そうなってない
じゃないか」と思っていたものだが、LETS の場合は利子が無く営利
目的でない、という点が違うのだろう。カード会社の場合は、やっぱり
「金融業」で、紙幣や貨幣といった「モノ」の眼にみえる物質性から
貨幣を自由にするにとどまり、本質的な問題には触れていない、という
ことなのだろうか。倫理的・道徳的な動機づけがあるかどうか、という
違いでもある。原理的な問題としてはどうだろう? Linton 氏の説明
を昨日今日と読んできたところでは、やはり唯名論的な色彩が極度
につよい貨幣理解という印象なのだが。たとえば、今日読んだところ
から引用。
身長を測るのにインチを用えるし、林檎(の重さ)を測るのにキロ
を使える。しかし、インチそのものが高さをもつだろうか。或いは、
キロそれ自身が重さをもつだろうか。重さをもつのは林檎であって、
キロではない。
それなのに、世間通例の貨幣は、(もろもろの)
〈値ぶみ(valuations)〉を混乱させている。なぜなら、世間通例の
貨幣は乏しく、取引上の価値以上の価値をもち、商品の価値をも
もっているからである。実際、それ(世間通例の貨幣)は現実的な
ものとみなされ、そのようなものとして取り扱われている。
訳がまずいのはご容赦。というか、きちんとした全訳がそれこそ
web 上にでも発表されないのだろうか。
(この引用の原文の
出所はここ。)
しかし、このままひとりで読んでいても、すぐ厭きてきてやめちゃい
そうな気も。
o_o
possible communism に直結するかどうかは別にしても、読むかぎり
LETS の採用は有益かつ無害なように思える。それこそ、「住宅金融」
のように。それだけでもいいんじゃないか。
現存の銀行や消費者金融、「商工ローン」その他のやり口には頭に
くる ― 自分らに関係することのみならず、報道で接する他人様に
関わる面でも ― ので、利子のない信用(西部氏によれば、信用
というより「信頼」というべきだということだが)には共感する。
ベランダで
チロチャンにオシッコとウンコをさせた後、10分ほど眠りこんだ。夢をみて、そこでは両親のカラオケ教室の発表会の実行委員長になっていた。幾つも小さな不手際があったが一応終わってこれでよしと思ったら、中学時代の社会科の先生(左翼)が実行委員全員を恫喝して無理やりに「反省」をもとめてくる。うんざりし、不当で腹立たしい思いに駆られる。(映像的要素は貧弱。というかほとんどない。眠っていた時間も短かったし、映像としての夢というよりも、幾つかの思念の繋がりが筋めいたものを構成したものではないだろうか。)
過去(11、2年前)と現在が重ね合わされている。どうして今ごろ厭な思い出(カラオケ教室というのを何かの学内行事に置き換えたら過去の現実そのもの)を夢にみたんだろう。
学校に行っていた当時は「集団生活」が大嫌いで、規律を強制してくる一切のものに対して強い反感を抱いていた。当時の厭なこともあったが面白いこともあった集団生活と現在の自由この上ないが孤独そのものの生活 ― まあ両親と
チロチャンがいるけれども ― とどっちがいいか比較しているのだろうか、とも考えてみるが、あまり自分でも納得できない。
ところで、
デス見沢デス彦氏 = タマランチ皇帝のホームページ内の掲示板過去ログや闇の医療/恋愛相談室の過去ログをここ3、4日読み続けている。自分のことにひきつけて読むとき印象に残ったのが、「自称AC」についての部分、また男のヒステリー
(←自分?)についての部分。修士論文はドゥルーズの記憶論についてのものだったけれども、それを準備しているときから、過去の外傷的記憶(トラウマ)の「事実性」と「模造性」の二重性が気になっている。
デス見沢先生は、あったかなかったか確証できない出来事の記憶に拘泥し・怨恨を抱きつづけるのをやめ、現在と未来に向かって生きるべきだ、と勧めている。確かにそのとおりだろうが、そうできないから苦しむのではないか。うまくいえないが……。
「自称AC」を家族にもつ人の証言や怒りの声などもデス見沢氏のサイトで紹介されていて
― リンク禁止らしいから直接リンクできないが、興味のある方はご自分で探してください ― 、考え込んでしまった。確かにその人(患者 = 受苦者のお姉さん)が言う通り、同じ両親、同じ環境で育った2人の子どものうち、ひとりは普通に育ち普通に生活しているのに、他方は過去のできごとに傷つき自分も家族も苦しむ結果をもたらしている、という場合、「心の傷」とは一体何かという疑問が出てくる。
(何回も何回も同じ話を書いているけれど)ビンスヴァンガーがあるときフロイトに、「同じように重大な出来事(例:子どもの死)に直面しても、精神病になる人もいれば持ち堪える人もいますが、それは
精神力の差から生じるんでしょうか?」とたずねた。フロイトは短く
「体質がすべてです」と答え、ビンスヴァンガーを失望させた。『フロイトへの道』という本の最後に出てくるエピソードである。意味がわからなくて、しかし妙に心に引っ掛かるのでずっと考えているが、上述の実例の姉妹の場合でいうと、妹(受苦者でありかつ告発者)のほうを道徳的に非難する人たちは、「精神力」の違いが問題なのだと考えていることになる。姉のほうは堪えて立派に社会に適応した生活を送っている ― 彼女が使っている非常に印象ぶかい表現でいえば、「義務を果たしている」 ― じゃないか、同じ両親、同じ環境で一方ができることを他方ができないというのはどういうことか、というわけだ。それに対し、体質 ― ビンスヴァンガーがそうとらえているような生理学的・生物学的決定論の表現というよりも、むしろもっと広い意味で(各人の意志ではどうにもできない)「個体差」と考えたいところだが ― という観点でみるなら、あらゆる生は(たとえ他人に迷惑な怨恨にみちた生であっても)無罪であり無垢である、ということになるだろうと思う。今度は妹のほうの印象的な言葉でいえば、「敏感」かどうか ― 感度が高いというのは苦しみを増すことになるので、プラスの意味だけではないだろう ― という問題だということになる。
# 眠り込む直前に、夢か現実かはっきりしない支離滅裂な思念や映像の流れがあったが、仮眠してまた起きたときには忘れてしまっていた(いつものことだが)。こういう曖昧な状態はイイ。
{!!)
外傷的記憶(トラウマ)の「事実性」と「模造性(まがいもの性)」について。ラカンの講習会記録集第11巻第6講第1節より。
... 精神分析の経験においては、原光景が外傷的だという事実から着手することが肝要です。分析可能なものの転調(変化、抑揚…)を維持するのは、性的な感情移入ではなく、まがいものの(=模造された)事実です。まがいものの(=模造された)事実、狼男の経験においてあんなにもひどい痕跡(傷)を残しているようにみえるようなもの ― ペニスの消滅と再出現といった奇妙な事実。
狼男の経験において云々、というのは、フロイトの狼男症例で報告されている、患者の幼年期の幻覚的な思い出 ― ナイフで指が切れかかったのがみえたが、しばらくしてみると、指は元通りで傷ひとつなかった、という体験 ― を指す。
つぎにイアン・ハッキング『記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム』(早川書房)の22頁から引用。
こうした疑惑( = 多重人格者の心理療法によって明らかになる幼年期の虐待は、現実の出来事ではなく、想像上の出来事であり、治療が「作り出した」ものではないかという疑惑 ― 引用者(r)es)を抱いた人々の組織が、1992年に設立された<虚偽記憶症候群財団>である。現在も活動を続けているこの団体は、告発された親への助言や裁判での支援と、無責任な心理療法の危険性を宣伝することを目的としている。彼らは、だまされやすい臨床家たち(多重人格に取り組んできた人々を含む)が、実際には存在しなかった幼児虐待の記憶をつくり出しているのだと非難している。これに対して、臨床家や活動家たちは、この財団は幼児虐待者の支援団体であると反論している。
ハッキングが紹介しているアメリカのセラピストたちに比較すると、ラカンのほうが遥かに洗練された「現実」概念をもっているといえると思う。しかし、逆に、遥かに厳しく残酷な帰結をもたらしうる、とも思う。
つまり、遥か遠い過去のある時点において、起きたか起きなかったか確定できない ― すなわち心的現実ではなく外的現実、空間的時間的座標上に場を占めている現実としてあることが多くの人を納得させる仕方で示されえない ― 出来事について、それの実在を
信じ、その出来事の結果がいまある自分の姿だと
信じ、その怨念を生きる根拠にしている主体 = 臣民がいるとする。その主体 = 臣民は、まず素朴・自然的に、その出来事がリアルなものだったのだと
信じている、とする。いかに自他を苦しめ、反動的であったとしても、そのひとにとって(他人にとってはどうだか知らない)自分の生は
根拠づけられた生としてある。そのひとには、生産的ではないかもしれないが、なすべきことが残っている。告発し、権利を回復し、奪われたものを奪いかえすことがそれだ。
ところが、他人の示唆によってであれ自分自身の力でであれ、それまで自分の生の意味価の重みのすべてをそこに託していると想定してきた当該の出来事が、
現に身をもって生きられたものではない、ということが露呈されたとしたらどうだろうか。自分の生の遠近法がそこに吊り支えられていると信じそう想定してきた出来事が、じつはかつて
一度も実際には生じたことのない出来事だったとわかってしまったらどうだろうか。まず、その主体 = 臣民、患者 = 受苦者の症状から、少なくとも
超越的な意味が消えてなくなる。そのひとにとってすべてを傾注する唯一の対象が自分の
症状、自分の
苦痛だとしたら、そのひとの生自体の意味価が根幹から揺らいでしまう。そこで無根拠や無意味の肯定などといった理念をもちだしてきても駄目だと思う。生じるのは、もはやなんらの
言い訳もできず、生が腐敗しつつあるのも現に苦しんでいることもなんの理由も根拠もない、という恐ろしい
事実の自覚であって、これはこれ自身がおのずから
選別の働きをするはずである。ハッキングの紹介するような精神療法の孕む危険が、もしかしたら無根拠かもしれない果てしない権利回復要求に主体 = 臣民を差し向けてしまうかもしれない、ということであるとすれば、上述の自覚を促す働きかけの孕む危険は端的な絶望および自殺だろう。ボルク=ヤコブセンの著書が示唆的なことを述べていたと思うけれど、図書館に返してしまって手元にないから引用できない。
# フランスのラカン派の治療の実際とその結果についてのいい資料とかはないんだろうか?
{!!)
夜の10時に連続3回も
無言電話を掛けてきたやつ。もし超能力があれば即刻
死刑といいたいが、残念ながら超能力はない... 。しかし、たまに掛かってくるんだが、こういう厭がらせを平和的ヒッキー
(ワナビー flower generation っす)にし掛けてくるのはいったいどんなやつなんだろう。思いあたるかぎり列挙。
- セクト
- 公安
- ***** (自己検閲)
- (r)es 家に融資している銀行や諸個人
- かつてひどい仕打ちをした友人・知人らのうちの誰か
- 両親の商売敵(カラオケ教室の先生)ないしやめたもと会員
う〜ん。男は家を出ると7人の敵がいるゾと脅されるものらしいが、僕などは家に引き篭もっていてもずいぶん敵(?)がいるようだ。
そういえば、一番ありそうな可能性を忘れていた。
- 無言電話があったという事実そのものが (r)es 家の集団妄想
やばやば。