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夢目記


日記鯖システム管理者からのお知らせ

  • HTTPSに対応し、http://ds.sen-nin-do.nethttps://ds.sen-nin-do.net のどちらでも日記鯖にアクセスできるようになりました。 なお、当面はHTTPとHTTPSのどちらも利用可能としますが、将来的には http://ds.sen-nin-do.net へのアクセスは https://ds.sen-nin-do.net へ転送する予定です。
  • 都合により日記鯖のURLが http://ds.wa-mo.to/ から http://ds.sen-nin-do.net/ に変更となりました。 突然で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。(2019/01/27)
  • 日記鯖の仕様変更、不具合対応等については、こちらの記事もご覧ください。

�����Ǥ���

2000/09/21


{!!)
 知人と電話で長話、NAM のことを中心に2時間も話し込む。かれは、NAM の原理に対して懐疑的で、「フリーマーケットとどこが違うの?」と執拗に訊ねて来、また、LETS の互酬において〈売れない〉物(「私の詩集」等)の行方に固執して追及してくる。

{!!)
 確かに効率や利益といった問題を第一に考えるならば、市場のほうが比較にならないほど優位にたっているのではないか、と思える。「未来の世代」などを根拠にした倫理的・道徳的な動機が前面に出てきているのか?

{!!)
 朝起きたら、前夜までの興奮が嘘のように醒めてしまい、またいつもの抑鬱にもどってしまっていた。空想になやまされる。〈洪水〉。

{!!)
家の代理人として銀行に行くが、古典的な比喩がいうように
「神殿」を思わせる建造物に足を向ける気にはなかなかなれない。
これから銀行を破壊し、そこに居合わせた巫女、祭事、信者どもを
みなごろしにするのだ、とでもおもい懐きながらでなければ、到底
そこにおもむく勇気と元気がでてこない。どうしても必要な操作
経済的というよりは宗教的な儀式のようにみえる一定の操作をする
ことがどうしても必要であったとしてさえも。

もちろん武器ももちあわせず、他人のからだを ― 「心」のことは
いざ知らず ― きずつけるよりは自分の生活を破壊するほうを
どちらかといえば好む今日この頃なので、定められた一定の操作
手順に随うことより以外は何もせずにかえってきたのではあるが、
かえってきて着替える段になって驚いた。なんと
社会の窓が全開
だったのだ。社会に対して背を向け、狭い閉ざされた世界に
閉じ篭もっているありようとは皮肉にも正反対の、知らず知らずの
《意思表示》。

盗んでいるぞ、盗んでいるぞ。

{!!)
朝から、食事が喉をとおらないでいる。何か特別なことがあった
わけではなく、きのうひさびさに複数の知人らと会い、半日を
過ごしたというだけなのに、持ち合わせの社交性
受容能力のストックを使い果たしてしまったかのようだ。
こんなことでは、どうなることやら。

{!!)
食事せずに苛々しながら操作していたら、マウスを壊してしまい、
近所のコジマデンキまで新しいのを買いに行く。つまらないことで、
1800円もの出費。ツールバーの位置をうっかり変えてしまい、
もとに戻そうとして不器用にもしくじりつづけるうちに、マウスが
壊れてしまったのだ。以前から動きが悪くなりかけてはいたけれど、
残念至極。 Utiliser, c'est user. まあ仕方ないです。

ネグリは、今日の〈社会化された労働者〉、知的労働者において、
〈固定資本〉はそのひとの頭脳のうちに存する、といっていた。
プログラマや翻訳家などの場合はそういえるだろうけれど、多くの
場合はたんに慰めにとどまるのではないだろうか。鬱病の知人の
ひとりが端的にそうだったように、資格獲得による上昇を夢みつつ
まったくもってひどい状態に堪えつづける、といったひとたちの
存在をしっているので、専門性、〈スキル〉重視の社会への転回を
祝う気持ちにはなれない。

ぼく自身がそうであるようなあらたな〈相対的過剰人口〉、柄谷氏が
フリースクールと絡めて言及していたあらたな〈大学(院)は出た
けれど〉層は、じぶんの頭脳に〈固定資本〉をもっているといえる
だろうか。他のひとのことはしらないが、自分について、そんな
ものは全然ないと感じる。頭のなかに工場施設はない。『3つ目が
通る』の最初の巻にでてきたいじめっ子たち同様、頭蓋のなかには
トコロテンが詰まっている ― 或いはもっとひどい穢ない物が
はいっているかもしれない(例:チロチャンの糞尿;妄想)。

ちょっと話がわきにそれるが、昨晩電話ではなした映画雑誌ではたらく
(といっても給料は出てないらしい)友人の父親が、自宅で数学の
受験書をつくる仕事をしているのだが、友人によると、かれの父親
は「儲かって儲かって、笑いがとまらない」らしい。 ― つまり、
少子化が受験産業や教育業界に回復不可能な打撃をあたえると思い
きや、少なくとも現状では逆の方向にすすんでいるらしいのだ。
友人は、台湾の事情などを例としてあげつつ反駁してきたのだが、
少子化になるとともに、親たちがひとりしかいない子どもにますます
カネをつぎこむようになり、かくして受験産業に荷担している
精神的帝国主義者たちはますます肥りつづけることになる、という。

だが、大勢いたこどもが各家庭ひとりに減っていく過程と、その
ひとりが消えゆく過程とでは、意味も効果もちがっている
のではないか、と思う。もちろん正確なところはわからないし、
統計をしらべたわけでもなけえばそもそもしらべかたも知らない
ので、推測をいっているだけだが。友人の父親がその恩恵に浴して
いるというこども=小皇帝への果てしない投資熱は、一時的な現象
であって、少子化の過程がある一線をこえたときには破局が
おとずれるのではないだろうか。

あらたな〈相対的過剰人口〉を学校や塾が吸収できなくなったと
して、おなじこども相手のフリースクールならそれを吸収できる
というのはなぜだろう。むしろ、〈フリー老人ホーム〉(?)の
ほうが需要がのびるにちがいないと思うけれども。

そういえば老犬、チロチャンの睡眠時間がこのところ延びる一方で、
そのうち起きてこなくなるのではと心配でならない。

{!!)
スコセッシ監督(デ・ニーロ他出演)『ケープ・フィアー』をみる。
テレ東で9時からやっていたのだが、時間を間違え、開始から30分
たったあたりからみていたが、これが相当面白い。犯人がニーチェや
ミラー、神は私の上になく私は神の下にない、とうたう17世紀の
神秘主義詩人を読んで知的にも体力的にも他への優越をかちとって
いる点、司法と正義の相克をクリアに指摘し、解決不可能なところまで
追い込んでいる点、かなり好感をもちました。イメージの面でも、
最後の船の場面での揺れ、或いは水中の場面などすごい。

2000/09/22 それって、夢みる夢子さんね!

oo,ooo...
今日(日付上は「昨日」)はまったく不毛だった。
マウスを壊し、それを買いかえた、というだけの一日。頭痛と胃痛、
食欲不振でなにもできなかった。今すぐにカネにむすびつかなくても、
翻訳練習や読書をできればよかったのだが。

社会化された知的労働者の頭脳のなかに物質化された固定資本
というネグリの表現が眼窩の奥のほうにずっと引っ掛かっている。

oo,ooo...
チロチャンは昼間寝ていて夜中じゅうおきているから、人間のほうが
ちょうど眠くなったころにハァハァいったり足をばたばたさせて
もがいたりし始める。睡眠が細切れになってしまう。

oo,ooo...
NAM 結成総会時の説明を読みかえしてみると、新たな企業形態の
創出が考えられているらしい。電話での知人との議論なども通じて、
ここ数日考えこんでいたのは、市場が実現するより以上
性能・効用が相互扶助(自由人の連合;自由連想?)によって
実現されるのかどうか、ということだ。

例えば昨日はマウスを買いにいったけれども、マウスの生産は
一個人がなしうることではないし、数人が連合しても困難だろう。
なんらかの企業−工場がやはり必要なのであって、プログラムの
自由な頒布の場合とはわけがちがう、という問題を考えていた。

ネグリの表現を借りていえば、固定資本 = 生産手段(諸機械等)
頭脳のうちに物質化されている場合、それこそコンピュータ
のプログラムのような場合には、社会化された知的労働者 ― 
『エティカ』のスピノザが曖昧に「自由な人間」として語っていた
ものに近づけて理解することができると思う ― が、資本に依拠
せず・搾取されずに生産し、自由に = 無料で頒布することで、
自己の名誉および自他の喜びのみを享受して満足する、といった
ことが実現しうるかもしれない。だが、生産手段が頭脳のうちに
物質化しえないような対象 ― たとえばマウスのような対象 ― 
が問題になるときには、それと同様の想定はできない。ここで
躓くのではないか、と思ったのだ。

しかし、もし「株式会社であっても非資本主義的な企業」が本当に
可能であったなら、固定資本が頭脳に物質化されている、という
きわめて稀と思われる条件に縛られずに済むのかもしれない

oo,ooo...
小学生のころ、なぜか三浦つとむの『弁証法とはどういう科学か』
(講談社現代新書)を古本屋で買って読み、そのなかで語られていた
銀行の権力への批判のくだりに反感をおぼえたことがある。諸個人
から集められたなけなしの預金が融資によって大企業に回され、
大資本に利用されている、だから、僅かばかりの利息のために
権力に手を貸すようなことはやめるべきだ、銀行に預金をするのを
やめるべきだ、といった論旨だったと思う。そんなことをいわれても、
庶民にはわずかな利息でも重要なはずで、道徳的に「…するな」と
言われても困る、と考えたのだ。

しかし今では利率はかぎりなくゼロにちかく抑えられているし、
かといって貧しい諸個人が銀行から融資をうけると ― そもそも
受けることができたとしてだが ― どれほど圧迫され、それこそ
神殿と従属させられている信者たちのような間柄に身を置かねば
ならなくなるか、銀行の態度が好況時と不況時とでいかにちがうか、
といったことが、バブル時と目下の不況との比較でもって、
わかっている人には(つまり身をもって体験した人には)わかっている
はずなのであってみれば、三浦の指摘をもういちど考え直すのも
いいかもしれない。こどもの頃読んで反感をおぼえた、というのは、
代案がないではないか、というようなことだったと思う。LETS ― 
利子をうまないかわりに自分で創造できる貨幣 ― なら、
有効な代案として考えられるのではないか。金利生活者以外にとって、
重要なのは預金の利回りではなく、むしろ適当な規模の融資を
受けられるその現実性ではないだろうか。銀行の「貸し渋り」、
好況時の猫撫で声の融資の誘いと不況時の鬼のような締めつけ
このような諸属性は、「銀行、金融機関も企業なのだから」
といった遁辞ではゆるされないものだと思うので、もし利潤追求を
目的としない(つまり非資本主義的なかたちで)同様の機能を果たす
機関ができるなら、それ以上に望ましいことはないと信じている。

oo,ooo...
まあ思いかえせば、かつて三浦つとむには反感をもっていたのに、
ドゥルーズ=ガタリの銀行批判を字句どおり受けいれていた、という
のも変な話だが。『アンチ・オイディプス』が強調していた論点は、
貨幣は、個々人が購買手段としてもっているときと、資本が
融資としてもっているときとでは、まったく本性を異にして
いる、ということだった。ここから「銀行に預金するな」といった
直接的な政治的アジテーションにいってはいないが、彼らの議論の
自然な帰結は、銀行の権力への批判ということになるはずだ。

oo,ooo...
日本語が(いつものように)変になってるなあ。

{!!)
学部の最後の年だったと思うけれど、ジョン・ロック
『利子・貨幣論』(田中正司・竹本洋訳、東京大学出版会)や
ジョージ・バークリ『問いただす人』(川村大膳・肥前栄一訳、
東京大学出版会)を読んだことがある。経済を専攻したことが
あるわけでもないし、ただ好奇心から読んだだけだから、むろん
十全な理解とはいえないのだけれども、ふかく印象にのこったのが、
初期において諸銀行はほとんど民間のものであり、その破産も頻繁
に起きていて、そのたびに人々の生活がいかに脅かされていたか、
ということだ。そういう状況をふまえてバークリは、アイルランドに
国営中央銀行を、と訴えていた(ような気がする、記憶が正しければ)。

何がいいたいかといえば、NAM であれ他であれ、自主的な貨幣を
発行する機関が次々にでてきた場合、そのような混乱に陥る危険は
ないのだろうか、ということだ。中央銀行が発行する貨幣、例えば
この1000円札を、誰もが「本物の1000円札」だと
信用している。購買手段として役立つ、ということは(大抵の場合)
疑われない。ところがもろもろの機関が発行するもろもろの貨幣の
場合、システムが破綻したらどうなるか、という不安がつきまとう
のではないだろうか。

もちろん『可能なるコミュニズム』に収められている西部忠氏の
LETS 説明を読んで、「執事」がシステムの破綻が起きないよう
適切な管理をおこなう、ということになっているのはわかるのだが、
実際のことがわからないうちは本当に大丈夫かなかなか納得できない。

とりあえず、困らない程度の額をつかって実験してみるのがいいの
だろうか。どうだろう。……

oo,ooo...
そういえばうちの母親は、豊田商亊とか土地がらみの詐欺とか、
いろいろ引っ掛かっている。経済音痴というのは家系かな?
NAM に参加してみるかどうかは別にして、用心しないと。まあ
ぼくは金額が1万円を超えると眩暈がしてくるので、もともと
大きな買物などできず、詐欺に引っ掛かりようがないだろうが。

{!!)
われながら尻軽だと思うが、NAM に参加申し込みをし、
会費を振り込んできた。どうなることやら。まあでも、とりたてて
はなさそうだし ― 加入も脱退も自由で、非暴力・情報
公開を原則としているのであれば ― 、いまのどうにもならない
状態からぬけだす刺激にでもなればいいのではないか。

郵便局にいったついでに、日仏会館の年会費3000円も払い込む。
卒業しちゃったから大学図書館に入館はできても貸出はだめなので、
洋書を借りることのできる権利を保持しておきたいから。恵比寿まで
行くだけで時間・費用がかかってしまうんだけど、それはしかたない。
もうひとつ、3年ごしの借金も清算することにきめた。団体精神。

脳や神経のなかでなにか不穏なことが起こっている、という予感。
短い狂騒の期間のあとに、長い長い抑鬱と反芻がつづく、という
じぶんの性格はしりぬいているのだけれど、溺れる者は
らりるれろ〜
っていうし(意味不明)・・・

oo,ooo...
3年越しの借金(1万円)を突如清算。なぜか、郵便局には
銀行に対するような敵意、嫌悪があまりない。建物が小さいから
だろうか。

# 船橋市に光化学スモッグ注意報というのがでたらしいが、
「光化学スモッグ」って何のことだろう?

{!!)
さっきのチロチャンのオシッコの飛びぐあいはものすごかった。
「糞柱」という言い方があるらしいけれど、尿柱とでも
いいたい趣きが。……これから洗わないといけないけれど、
冬は風邪ひかすといけないし、困ったことだなァ。

oo,ooo...
「貨幣を発行して、銀行になるよ……(家の)前の事務所に、
銀行を作る……」とうわずった声で家族に繰り返すと、なにか
奇妙なものをみる眼でみられ、冗談として片付けられてしまった。
重要(だと思う)ことを言い出そうとすると、いつもこうだ。
家族のみならず、周囲の友人(以前は若干はいたのだ)もそうだった。

いつものように、突然目のまえに映像のようなかたちで
情景が浮かび、気分がでてくる。発熱時に、鼻孔から脳が
垂れてくるようにして。さっきの場合は、こないだみたフランク・
キャプラの映画『素晴らしき哉、人生!』におけるジェームズ・
スチュアートを中心にしたコミュニティの情景が思い浮かび、
JS を理想像としてそこに自分を投影し、閉店まぎわのスーパー、
マルエツの店内及び帰路でずっとその同一視をたのしんでいた。
その間うわ言のように同じ片言を繰り返していたのだ。貨幣を
つくる、銀行になる、事務所をつかう……。
実際、外との連絡
という観点はなかったけれども、スチュアート演じる青年が奮闘に
奮闘を重ねて維持していたあの『住宅金融』は、世界恐慌の混乱や
資本家の搾取・策動に対して、地域の有機的人倫的諸関係を立派に
まもりぬいていたではないか。NAM はともかく、もともとの LETS
発案の有力な動機のひとつが、獰猛な投機マネーから地域経済及び
人々の生活をまもる、ということにあったのを思い起こせば、あの
映画でのスチュアートの奮闘と重なる部分もあるのではないか。

もっとも、あの映画の主人公は、道徳的に高潔な素晴らしい人物
として描かれており、地域の人々から感謝・尊敬されているという
設定であって、それがかれの危機を最後の最後に救ったのだった。
しかるに自分はといえば、最近はやりの地域の不審者
潜在的な危険人物 ― いつ破裂するかわからない人間爆弾
のような ― とみなされているのであって、感謝だの尊敬だのとは無縁だ。
かりにそんな自分が「NAM 二和向台」をつくったとして ― 
ありえないことだが ― 、地域住民らは嘲弄か警戒か、或いは
立ち退き運動かをもって応じるのみだろう。我々(r)es 家のものは、
この土地に引っ越してきてはや10年をこえたが、当初からいまに
いたるまで胡散臭い活動をつづけてきており、隣人らからは、
よくて同情、悪くて軽蔑の対象となっている。最初はまったく素人
同然の花屋、偉そうに机のうえに両足をのせて終日寝そべって
「カモ」を待つばかりの不動産屋ぼくが小学生の頃
愛読していた無数のオカルト本や怪奇漫画(日野日出志など)
だけしか売らない古本屋 = 「ばけものや」、客そっちのけ
で夫婦で毎晩大酒をくらっていた飲み屋 = 「フルール」……
これらがすべて潰れてきたのであって、今では「カラオケ教」に
かぎりなく近いカラオケ教室を開いている(が、会員数は減る一方だ)
ぼくはジェームズ・スチュアートではなく、「ばけものや」は「住宅金融」
ではなく、したがって地域からの信頼も何もない ― 10年も
住んでいてまだこの土地にとけ込めずにいるほどだ。

夢想の最初の条件が甘美であればあるほど、現実と称されるものの
吟味・検討がつらくなる。ぼくは銀行にはなれない。……

以前にも、ぼくが何かいったのを母親が「それって、夢みる夢子さんね!」
と一笑に付したことがあったが、あの「夢みる夢子さん」というのは
子ども向けのおばけの本に出てくるようなばけものの一種 ― 
「口裂け女」のような ― だったのだろうか。

カントならば病理的=受苦的な傾向性と呼んでしりぞけるであろう
要素の検討。

今晩は閉店間際のスーパー2軒をまわったのだが、最初の店にむかって
裏道を歩いているとき、数名の暴走族構成員らしい青少年らが溜まって
いるのに出くわした。もちろん、何らの会話も交流もなく彼らの傍らを
ゆき過ぎたのだが、このときにすでに自動的に発生する空想、心的
映画が始まっていた。他愛もない夢想で、彼らがぼくにちょっかいを出して
来て、ぼくのほうはいつもの返事をする ― つまり、「両手両足を切断
されたドラえもん」への言及からバイク事故の危険を説きはじめ、次いで
カップルの男のほうがバイク事故で両手両足を切断された場合における
性行為において市販の乾電池をつかった電気ショックの占める快感獲得
に関する意義を弁じたてる。すると、ありとあらゆる違いをこえて、
(夢想のなかでは)彼らとぼくの間に感情的な交流がうちたてられる……。
なかば譫妄のように現実感を増すばかりの空想的情景において、ぼくは
うわ言めいた独白で「俗情との結託」論に反駁を加えている。不良が革命的
だというのは確かに謬りかもしれないが、少なくともそれは革命の
対象
なのではありますまいか??


2000/09/23 dream work

oo,ooo...
晩の11時にフランス文学を専攻している知人から電話が掛かり、
2時間も身の上相談にのらされる。僕よりも数倍有利な条件にある
彼を、なぜ延々と励まし、そのことで疲れなければならないのか。
他人のご機嫌とりですごす人生も、それなりに楽ではない、
ということか。まあこっちも気晴らしになっているんだから
(じゃなきゃ電話に出ない)いいけれども。


oo,ooo...
『可能なるコミュニズム』(太田出版)の西部忠による LETS に
ついての論文を丁寧に読みなおしている。互酬のシステムと LETS
のシステムとの区別さえハッキリ理解していなかったことに気付き、
愕然とする。軽いのはではなく、別のところ ― ではないのか。

oo,ooo...
この疲労と不機嫌は、まったくどうかしている。うまく気持ちを
整理できないが、電話をかけてきた人のせいだけではなく、自分
自身の受け入れ態勢にも問題があったようだ。休眠していた澱んだ
気分がふたたびよびさまされた、というか。

# ここ数日の興奮状態から、もっと安定した状態に移るべきだ。

oo,ooo...
上のほうで表明した苛立ちは、どうも更年期障害といわれて
いるようなものに似ている気がする。こっちの気分が不安定なのだ。
なんとなくからだのなか、というか脳のなかに幾つもの異質な物質が
あって、それらの比率が刻々変わり、それに応じて体調や精神状態が
推移している、というふうに感じている。

それと、電話で彼に気を遣い、媚を売りさえし、調子を合わせたことに、
後になって怒りをおぼえているが、これは不健康なことだ。

oo,ooo...
長い長い夢をみて、見知らぬ場所で見知らぬひとばかり出てきた。
起きてすぐ記録しようとしたが、パソコンが立ちあがるまでの短い時間
でほとんどが消えてしまった。

qq,qqq...
*夢断片の本文

痩せた男の子の性器をしゃぶっている。ところが、いくら吸っても
勃起しない。(こどものもののような小さい性器で、陰毛もなかった
ような感じがする。)やはり小さい陰嚢も含んで強く吸うと、痛がる
のでやめる。男の子は、何か慰めのことばを掛けてくれる。

その後何か賑やかで人出の多いところ ― どこだろう、商店街だか
秋葉原(?)だか、細い路地が入り組んでいて照明も明るい場所
だったような気がするが ― を歩きながら話をする。高校時代の
同級生(それほど親しくなかった人で、「ロックスター」の真似を
していた人)ともうひとり(忘却)からなるふたり組が関わってきて
……それがどう関係していたのかよくわからない。

またまったく別の設定、別の場面。高校らしい学校の始業式にいる。
自分は一度卒業してしまっているのに、またここに舞い戻ってきた
らしい。それで周囲から一目おかれてもいれば、同時に疎まれても
いる、という感じがしている。

式のとき、周囲はみな青いブレザー(以前通った高校での制服)を
着ているのに、自分だけ黒い服(学生服? 喪服? 燕尾服?)を
着ていることに気付く。教師たちは、それを注意したいようだが、
年長で特殊な立場のぼくに遠慮して、それができないでいる。
見ると、ネクタイを締めていないという理由で生徒がひとり叱られて
いる。それを眺めながら、不公平で申し訳ないな、と感じている。

誰だか特定できず、顔も姿もよくわからない女の子と会話している。
授業だろうか? 教師は、何か諦念と狡さをあわせもった感じの
中年ないし初老の男で、高校というよりは大学での2、3人の教師
(フランス語・ラテン語の先生や英語の先生)の印象が混合している
ようだ。一緒にいる女生徒が、「この先生、一列とか二列とか
ずーっと当てていくの!」といってくる。ぼくはどういうことか
すぐに理解して、「つまり……(忘却)なんだね」と応じる。

その初老の先生が、ぼくに質問をむける(どうも自分も授業に参加
しているらしい)。「『マクベス』のことを、よく知っていますか?」
ぼくは答えるけれども、曖昧な返事しかできない。「確かあれは史実
でしたっけ、よく覚えていないんですが」。いちど卒業している、
という特別な立場のため、そのような返事でもゆるされるらしく、
追い詰められたような気分になったりしないし、特に教室の雰囲気が
険悪になったりもしない。


oo,ooo...
 Linton 氏自身の LETS についての説明より。
地域の産業が製品を輸出する市場を失うとき、観光客が
減るとき、或いは政府が支援を打ち切るとき、離れていく貨幣が
(代替の貨幣によって)取り替えられることはない。共同体を
流通(循環)する貨幣量が落ちるにつれて、(商)取引の水準も
落ちる。(その地域共同体の企業や人々が)提供すべきものを
もたないためにではなく、十分な量の貨幣が行き渡らないために、
事業は衰え人々は職を失う。(そのような事態において)限られた
需要の分け前を奪い合う競争にさいし、人々はおのれの健康、環境、
共同体の福祉(善く−生きている、というありよう)を損なう
ような仕方で労働する(ことを余儀なくされる)。人々は、貨幣
(カネ、金銭)のためならほとんど何でもやる覚悟でいる。
なぜなら、(貨幣獲得という)競技に参加するためにはそうする必要
があるからだ。これこそ、問題の発生源だ。なぜなら (世間通例の)貨幣は、
まさにその構造そのものからして、乏しく得難いものなのだから。
 いま不況だからかもしれないけれども、非常に説得力がある
ようにもきこえる。西部氏による紹介を読むと、Linton 氏はもともと
整骨をやっていたひとらしいが、そのようないわゆる自由業
さえも不況でうける深刻な打撃がその発想源のひとつだろう。これも
共感できる。飲み屋やカラオケ教室、といった職業 ― 経営側から
「リストラ」されはしないが、その代わりに客数の漸減
いった真綿で首を締められるような過程をつうじて、淘汰 ― 
この生物学と神学を通俗化して半分ずつ混ぜあわせたような用語は
好きではないが ― がすすむことになる。「経営陣」のような
ハッキリした「人格的担い手」が想定できないだけに、現状把握も
有効な対策もとりにくい職種のものにも、上のような説明なら頷ける
と思う。

oo,ooo...
ただ、(まだ膨大な説明の最初の1頁を読んだだけだが)どうも貨幣
についての理解が常識的なように思える。たとえば、ここ。

《貨幣は単なる交換手段、一揃いの券、預金通帳に記された数字
でしかないのだ。貨幣はそれ自身に価値があるわけではない ― 
食べられも着られもしないし、建築素材にもならない。貨幣とは価値
尺度である。インチが長さの尺度であり、トンが重さの尺度である
ように。尺度の不足などということは、決してあってはならない
ことだ。インチを切らしているからといって働けない建築家を考えて
みなさい!(=馬鹿げているでしょう。)それなのに、交換手段を
全く欠いているとき、私たちはしばしば無為でいる(のを余儀なく
される)。》


こういう理解でいいのだろうか。経済(学)の素人としては、読んで
ごくごく素直に納得できてしまうが、それだけにかえって不安になる。
極端な唯名論という感じで、貨幣の貨幣性はどうなるのか、
と思ってしまう。

まあしかし、Linton 氏の説明の続きを読めばもっと詳細に書いて
あるのかもしれないし……。

今日読んだところで、読みながらイイ気分になったのは、ここ。

《(……)地域貨幣とは、その本質をいえば、〈共同体のある
メンバー(たち)が、他のメンバー(たち)にサービスを提供する
ことを約束する〉ということなのだ。このような貨幣、皆が自分で
発行できる貨幣が、個人的貨幣だ。世間通例の貨幣は、容易に
使えるが、稼ぐのは難しい。その結果自然に(=そのような貨幣の
本性・本質からして)、金持ちが金のない人々に権力を行使する、
ということにならざるを得ない。費用を負担する者が自分の思う通り
に指図するわけだ。他方、個人的なネットワークにおいては、貨幣
(カネ;金銭)は容易に稼げる。誰もが使えるカネ(貨幣;金銭)を
もっている。同じ理由で、誰もカネ(貨幣;金銭)を必要としない。
人々が欲するときにものごとが生じるのだ。人々は進んで(サービス
等を)提供するか、さもなくば全く提供しないかだ。誰も他人に
差し出がましい口をきくことはできない。》


2000/09/24 万国の犬好きよ、団結せよ!

vv,vvv...
せっかく眠れかけたら、ちょうど気持ちよくうとうとしている最中に
ウンコを催促するチロチャンに起こされ、また寝つけなくなって
しまう。やばやば。不機嫌になりそう。

# それにしてもものすごい量のウンコと血。ウンコ犬の名に恥じ
ませんねー。前足のところの傷は腐って骨が見え掛けているし、
長生きするというのも楽じゃなさそう。

うちは、僕は定職にも就かず学校にも通わずぶらぶらしてるし、
両親の仕事も減る一方なので、皆がチロチャンの(主に下の)世話に
掛かり切りになれるけれど、世間一般の家庭はそういう労力を割く
ことができないだろう、と思うのですが、皆さんどうしてるんでしょう
かね。家族の誰かは(おばあちゃんとかこどもなど)必ず暇と愛情を
持ち合わせているのだろうか。それとも最後の最後には保健所が登場
するのかな。どうなんだろう。万国の犬好きよ、団結せよ!

oo,ooo...
心身の調子が悪いときというのは、皮膚や諸粘膜(胃など)の表面に
ぴりぴりする不快な刺激がつづいているときだ。幸いにもたえがたい
ほどの激痛に見舞われたことはいまだかつてないのだが、この微弱な
刺激が延々とつづく不快感もなかなか厭なものだ。皮膚の表面、眼球
の表面、頭のなかでも脳が張っているような気がするが、これは
気のせいだろう。

食べ物がいけないのかもしれない ― 脂分や刺激物が多すぎるのかも
しれない。

ところで、今朝は夢をみなかったか、或いはすっかり忘れてしまったか
だった。

oo,ooo...
皮膚がぴりぴりする感じは、やはり何かの前兆。というか指標

2000/09/25

o_o
教育テレビで、ヴィスコンティの『ベニスに死す』をみた。これで
4回目くらいだけど、ようやく楽しめてきた。こんなに残酷な映画
だったなんて。

o_o
さっきみた『ベニスに死す』について。

素晴らしい場面が幾つかあって、その一つでは、タッジオがたどたど
しく弾く『エリーゼのために』から突然回想場面になり、そこで
主人公の初老の作曲家は娼館のようなところにはいて、やはり
『エリーゼのために』を若い娼婦が弾いている。ピアノを弾く彼女を
男のほうがそっと覗いてみつめると、ピアノの蔭から顔を出して
女性がみつめかえす。それだけの場面なんだけど。いつものように
記憶が不確かだけれども、原作の短篇小説にはない場面だったような。

もう一つぞくっとする、というかぞっとした場面は、初老の作曲家が
美容院に入って若づくり = 化粧をする場面での大写し。また、
最後の男の死の場面、毛染めが汗で溶け出して、黒い筋が頬に垂れつつ
遠くのタッジオをみつめているところも、すごすぎです。発熱、発汗
で苦しみつつ、かつて自分が偉そうに説教した「人間の尊厳」を
うしない果てた自らの姿を自嘲して笑いながら死んでいく、その
なんともいえない残酷さ。バックでかかっているマーラーの第5交響曲
の第4楽章の甘美さは、その残酷さの印象をつよめるばかりだ。

それから、あともう1箇所。主人公の男は、何人もの土地の人間に
しつこく質問を繰り返し、ついに真実 ― 町は疫病におかされている
ー を聞き出す。その瞬間、かれの夢想が画面にそのまま突如挿入
される。タッジオがいる一家のところに歩み寄り、無礼を謝しつつ
町を立ち去るよう警告を発し、そうしながらタッジオの髪の毛を愛撫
するといったイメージが。それは、挿入されたときと同じほど唐突に
掻き消され、真相を告げてくれたひととの会話の場面に引き戻される。

これは、欲望で重くなり、それ自身の生命と重量を得たかのような
特殊なありようでの空想、夢想の姿を見事にとらえているように思う。
現実と瓜ふたつの姿で唐突に生じ、唐突に消え、呆然自失だけが残る。

ちなみに、主人公の男に真相を打ち明けた誠実なひとは、男が忠告を
無視してベニスにとどまり、「恋」をするために化粧をしてめかし
こみ、おしろいで白くなった顔でふたたびあらわれたときには、
嫌悪を露骨にしめした顔つきで、冷淡な対応をとる。この場面も、
みていて自分のことのように辛くなった。

LETS etc.
 LETS に詳しかったり興味があったりする方々って
結構多いのかな。貧弱な英語力で毎日すこしずつ読んでいるけど、
どうしても「コミュニズム」との繋がりがよくわからないままだ。
Linton 氏の説明を拝読するかぎり、どうしても『素晴らしき哉、
人生!』でジェームズ・スチュアート演じる青年がやってる「住宅
金融」の奮闘にちかいイメージばかりが湧いてくるんだけど。

西部忠氏は Linton にインタビューしたりしているらしいが、柄谷氏
は LETSystem を採用している community を実見したことがあるの
かな? どういう communism が possible なんだろう。……

ジャン=リュック・ナンシーの Le communisme littéraire
(『無為の共同体』の増補版に収められた、邦訳にははいっていない
部分だったと思う。確か。)を数年前コピーしていたのを思い出した。
コミュニズムづいていることだし、読んでみようかな。(ていうか、
読めるのかな。ナンシーの邦訳ってどれもこれもすごい日本語で、
西谷訳の『無為の共同体』以外、何をいっているのかまったくわから
ないんだけど。そういえば心臓移植について触れているらしい新刊
が出ていたけれど、まだ買っていない。)

o_0
高校生のころ読んだ『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』で、ケージ
が、クレジットカードの普及が現存の貨幣形態を崩していく、という
ようなことをいっていて、当時もその後も「全然、そうなってない
じゃないか」と思っていたものだが、LETS の場合は利子が無く営利
目的でない、という点が違うのだろう。カード会社の場合は、やっぱり
「金融業」で、紙幣や貨幣といった「モノ」の眼にみえる物質性から
貨幣を自由にするにとどまり、本質的な問題には触れていない、という
ことなのだろうか。倫理的・道徳的な動機づけがあるかどうか、という
違いでもある。原理的な問題としてはどうだろう? Linton 氏の説明
を昨日今日と読んできたところでは、やはり唯名論的な色彩が極度
につよい貨幣理解という印象なのだが。たとえば、今日読んだところ
から引用。
身長を測るのにインチを用えるし、林檎(の重さ)を測るのにキロ
を使える。しかし、インチそのものが高さをもつだろうか。或いは、
キロそれ自身が重さをもつだろうか。重さをもつのは林檎であって、
キロではない。

それなのに、世間通例の貨幣は、(もろもろの)
〈値ぶみ(valuations)〉を混乱させている。なぜなら、世間通例の
貨幣は乏しく、取引上の価値以上の価値をもち、商品の価値をも
もっているからである。実際、それ(世間通例の貨幣)は現実的な
ものとみなされ、そのようなものとして取り扱われている。
訳がまずいのはご容赦。というか、きちんとした全訳がそれこそ
web 上にでも発表されないのだろうか。

(この引用の原文の出所はここ。)

しかし、このままひとりで読んでいても、すぐ厭きてきてやめちゃい
そうな気も。

o_o
possible communism に直結するかどうかは別にしても、読むかぎり
LETS の採用は有益かつ無害なように思える。それこそ、「住宅金融」
のように。それだけでもいいんじゃないか。

現存の銀行や消費者金融、「商工ローン」その他のやり口には頭に
くる ― 自分らに関係することのみならず、報道で接する他人様に
関わる面でも ― ので、利子のない信用(西部氏によれば、信用
というより「信頼」というべきだということだが)には共感する。

2000/09/26 ワタシハ、チョーチョ。チョチョチョチョチョーチョ!

{!!)
 LACAN の講習会記録集第11巻、72−73頁より。
 夢の(領)野においては、(徹夜状態の)反対に、(もろもろの)イメージを特徴づけるのは、それ(=エス)が示す事柄です。
 それ(=エス)が示す(見せてくる) ― しかしここでもまた、主体の横滑りの一定の形態が明確に示されます。どれでもいいので、ひとつ夢の本文を参照してみてください。最近私がとりあげた夢ではなくて ― 結局私が言おうとすることは謎かけめいたものにとどまっているかもしれませんし ― 、どんな夢でもいいですから。 ― それから、その夢を、(その意味を問い訊ねるべき)連絡先へと置き直してください。そうすれば、それ(=エス)が示す(見せてくる)事柄が前面に出て来るのがご覧になれます。その事柄(=夢のイメージを特徴づける”それが示す”事柄)は、それを意味づけ・位置づける(もろもろの)特性とともに、前面に出て来ます ― 特性というのは、徹夜状態においては観察される物事に関する地平が不在だということ、閉鎖性、および、出現、(複数場面の)対比、斑点、そのイメージの特徴、その色彩の強化です。 ― 夢における私たちの位置は、結局のところ、根本的にいって見ていない者であるということです。主体はそれ(=エス)がどこに連れていくか見ずに(それに)随っており、(それ〔夢見状態〕から)離れるときに〈これは夢だ〉と考えることまでは可能でも、デカルト的コギトにおけるように自分を思惟として把握する遣り方で、夢のなかで自分を把握することは決してできないでしょう。主体が〈これは夢でしかないんだ〉と考えることはあり得ます。しかし、〈いずれにせよ、私はこの夢を意識(自覚)しているんだ〉と考える者として自分を把握しはしません。
 ある夢では、主体は一匹の蝶です。これはどういう意味なんでしょうか。主体がおのれの眼差しの現実性のうちでその蝶を見ている、という意味です。これほどたくさんの形象、模様、色彩は、何なんでしょうか。 ― 眼差しの本質の原初性が私たちに対して示されるところでの、動機も目的もない〈見るものを与えてくる〉ことでないなら、何なんでしょうか。ええと、蝶は、狼男を震えあがらせたもの(=指切断の幻覚)と大して違うものではありません ― そして、モーリス・メルロ=ポンティはその重要性をよく分かっていました。彼は、本文に組み入れられていないひとつの注で、このことの参照を求めています。荘子は夢から醒めて、蝶が自分は荘子だと夢みているのではないか、と自問することができます。とはいえ彼は、二重の意味で正しい = 理性(分別)をもっているんです。第一に、そのこと(=夢から醒めることができ、蝶が自分を夢みているのではないかと自問できたこと)は彼が狂人でないこと、つまり彼が自分を荘子と絶対的に同一な存在としてとらえていないことを証明している、という理由で。 ― また第二に、そんなふうに言えるなら彼は(自分のいうことを)信じていない、という理由で。実際、彼は、蝶になっているときであれば、自分の同一性の一定の根源において自分を把握していたことでしょう。 ― 自分は蝶、自らに固有な色彩で描きあげられた蝶であったし、おのれの本質においては(現に)蝶なのだ、という根源において。 ― そして、究極的な根源において彼が荘子である、というのは、まさにこのことによってなのです。
 その証拠に、蝶になっているときには、〈いまは自分は蝶であると夢みているところだけれども、目覚めた荘子に戻れば、もう自分は蝶ではないのではないか〉と自問しようなどという考えに思いいたりません。そんなわけで、蝶になる夢をみて、恐らく彼は後になって(=目醒めて後に)〈私は自分を蝶として思い描いていたのだ〉と証言することになるでしょうが、しかしこのことは、彼が蝶の虜になっている(=蝶に捕獲されている)という意味ではなく、何も捕獲されてはいない(=無が捕獲されている)んです。というのも、この夢において、彼は誰かに対して蝶であるわけじゃないんですから。他人らにとって彼が荘子であるのは、そして他人らの捕蝶網にとらえられるのは、目醒めたときなんです。
 このことのゆえに、蝶は ― 主体が荘子ではなく、狼男であるとすれば ― 恐怖症的な恐怖を主体に吹き込む可能性があります。小さな羽根のはばたきが、交接行為 la causation 【?】の、欲望の一覧表 la grille によってはじめて到達された存在を特徴づける原初的な縞のはばたき【?】とそれほど違ったものでない、と認める恐怖です。
 映画を勉強している知人が、眼差しについての議論の読書会をやりたいと誘ってきて、ここ数日試訳をつくっているけれども、ぼくの語学力ではろくな訳ができない。勉強会自体は10月以降だけれども、有益な貢献ができるかどうか心配です。

2000/09/27 Descartes とかいて de-culte(脱カルト、脱会)と読め!

{!!)
(夢の本文)

 大きな駅にいる、大人数の知人らと一緒のようだ。皆は改札を通って駅構内に行くが、僕は切符を買い忘れていて、ひとり2階への階段を駆け上がり、(……以下忘却、切符を買ったのか?……)。
知人らの顔はハッキリせず、誰だか特定できない。誰でもいいような背景みたいな存在だったのか。この駅の場所は、JR/営団地下鉄東西線の高田馬場駅かJR/東武線の船橋駅か、或いはJR/東西線の西船橋駅かという感じがする。複数路線が乗り入れており、階段があるところだから。

知人と一緒にいて、知人は先に改札を通るが自分は切符を買い忘れていて遅れる、という夢は数ヶ月前にもみたことがある。
 今度は、一人で駅のホームにいる。おかしなことにプラットホームと線路との区別がなく、5番線か6番線くらいまで、線路だけが広がっており、自分はその線路の只中に立っている。《5番線に総武快速線が参ります……》とアナウンスがあり、轢かれる!と恐怖を感じる。(……以下忘却。入れ替わり立ち替わり、電車が入ってくるので、そのたびに電車が来ていない線路に逃げなければいけなかったような気がするが、よく覚えていない。実際に電車が入ってきたのかどうか、轢かれるところまでいったのか無事だったのか等々は忘れてしまった。
立花隆の『中核 v.s. 革マル』(講談社文庫)はかつて少なくとも百回は読みかえした本だが ― これほど繰り返し読んだのは中公新書『宦官』とドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)くらいだと思う ― そのなかに、ジュースの瓶に詰めた自分らの糞尿を投げつけ合う戦闘場面と並んでなんともいえない趣きがある場面として、とある戦闘において、両陣営の戦士たちが、高田馬場駅のホームで、互いに相手を線路に突き落としっこ(!)していたというのがある。落とされた方は慌ててホームに這いあがり、でまた突き落とされる。死者が出たとは書いてなかったから、電車が入ってくる前に戦闘は終わったのかなあ。いずれにせよ、映画をみるように鮮明にその情景がいつも思い浮かんできて、そのたびに独り笑いを堪えることができない場面の一つではある。鮮明に映像として思い描かれ、それが”降って湧いてくる”たびに独り笑いを堪えきれなくなるもう一つの場面というのは、例のお受験でご近所さんの子どもを絞め殺してしまったあの母親が、子どもをトイレで絞殺するとき、ネプチューンの原田泰造の口真似をしながら「曲がったことは、大きらーい。******(本人の名前を代入せよ)でーす」と抑揚のない声で独り呟きながら絞めている、という場面(注・先ほどの線路突き落とし合戦は実話らしいが、こっちは純粋に’非意志的な = 降って湧いて来る’空想の産物)。
 大学のキャンパス近くの風景に似た ― しかしずっと寂しい感じの ― 長い道を何人かで歩いている。獰猛そうな凄い形相の中年男たち(左翼セクトの構成員?)らに因縁をつけられ、その道を逃げて?いる。
こういう長い長い道を歩く場面がこのところ何度か夢に出てくるんだが、どこなのか特定できない。ただ寂しい印象の場所だという共通性がある。中年男たちというのは、上述の線路突き落とし合戦の連想に繋がっていく。或いは、大江健三郎の『燃えあがる緑の木』で新しいギー兄さんを殺してしまうセクトの連中とか、『宙返り』での「技師団」などを連想。
 事務所?のようなところ。経済的事業(投機? ねずみ講?)をしていたが、今は破綻してやめているようだ。社員なのか、或いは取材にきた新聞記者なのか、他の数人らと混じって自分もそこにいる。最初は、事務所の硝子戸の廻りを歩いて様子を伺っている。戸の下のほうに、「…月分(忘却。7月分だったかも)」の請求書、および他のいろいろな請求書が挟みこまれていて、「…月分」の請求書も放置されているんだったら、今日もってきた「…月分(9月分?)」の請求書の請求金額も払って貰えないんだろうな、と考える(ということは自分は社員でも記者でもなく借金取りか?)。
この事務所は自宅前に作ってあるガラス張りの事務所である。以前(偽)父と義兄がここで不動産屋をやっていたんだが、バブルも終わっていたし、まったく儲からずすぐ閉めた。その後、僕が小学生の頃読んだオカルト本や手塚治虫、日野日出志等の漫画を売る古本屋 = 《ばけものや》(命名者は (r)es =摂津正(気))になったが、これも売れる額より買い取りの額の方が大きくなってきたやめた。その後なかば倉庫みたいな空室になっているが、このところ (r)es 家がそこに寄生・借金している墓屋の社長さんに事務所として使ってもらい、その代わりに賃貸料をせしめようという遠大な陰謀が家族内でもちあがっている(が、数ヶ月間まるで進展ナシ)。数日前、発作的に「銀行を開くよ!」と口走ったとき、この空事務所で無利子銀行を開き、『素晴らしき哉、人生!』でジェームズ・スチュアートが演じている「住宅金融」の経営者のように地域の皆から感謝される存在になる自分の姿を夢みて恍惚としていた。夢のなかでで請求書や(恐らく敵対的で悪意のある)マスコミ取材などがこの事務所にきているのは、銀行を開く、いや銀行になるというヴィジョンが、実行の前にはや挫折しつつある ― 体調や心身のバランスの変化を通じて ― ということを示唆しているような気がするが、本当のところはよくわからない。請求書が払えない、払っていないというのはまさに現実そのもので、現存諸銀行と熾烈なバトルが続いている。

ここで連想するのは、昨日か一昨日やっていた犯罪についてのドキュメンタリ番組。未解決事件等を特集していて、そのなかに、10年前に闇金融の帝王といわれていた資産百億の人物とその妻が何者かによって射殺された事件がとりあげられていた。夫は眉間に、妻は(なぜか)鼻孔に ― どうして鼻孔? ― 銃弾を撃ちこまれて即死。ひとり息子は、両親の死後無人となった邸宅を当時のままの姿で保存していて、その映像が公開されていたが、障子も破れ廊下や壁も汚れ部屋も散らかり、と、本当に廃屋、誰もいないところだなと感じた。ここには幽霊は出るのかな、と漠然と考えていたこともいま想起。 
 次の場面では、事務所のなかがみえている。トゥナイトの司会をしているパーマの中年男性が、自分を含めた取材記者たち(複数)のリーダーらしい。僕は怖気づいて事務所のなかに入って実際に相手にインタビューすることができず、そのリーダー格の男がなかにいる誰か ― 背を向けていて見えない ― に取材しているのを、硝子戸の外(?)から眺めている。(会話の内容は、聞こえなかったか、或いは忘れてしまった。)
トゥナイトを頻繁に見るわけではないし、特に思い入れもない(はず)なのだが。この人物の髪型について、(いまは違うが)自分が大学入学時パーマを掛けていたことを連想する。
 今度は、大学かカルチャーセンター(公民館)の教室みたいなところにいる。手塚漫画(アニメではなく)をテーマにした講習会のようだが、なぜか何か(映画? アニメ?)が上映されるらしく、映画学の授業の部屋に似て、大きくはないが上映設備の整った教室である。僕が入っていくと、前のほうの席はもう取られていたり、机の上に手塚漫画を伏せて置いてあって誰か先着者がいることが示されていたりして、目が悪いのに前のほうじゃないと困るなあと思う。一番前のところは、机があってその周りに座席が並べてあるのだが、そのすぐ後ろのところに、教室のというよりは事務所にありそうな青い色の廻る椅子が4つあり、そのうち正面から向かって左の3つにはすでに女の子たち(知らない人たち)が座っていたが、一番右の一つだけは空いている。その3人のうちのひとりが笑いかけてきたような気がして、これは座ってもいいですよという合図かな、と思い、空席に腰を下ろす。すると、自分のすぐ隣で、3人の女の子たちが、「この席は座られちゃったけど、私たちは3人で固まっていましょうね」と話す。(以下忘却)
昨晩みつけて夢中になって読んだデス見沢先生のホームページ闇の医療相談室でのフロイトについて触れたくだりで、「フロイトを使わないで精神医学をやろうとするのは、手塚治虫の手法を使わないで少年漫画を描こうとするのと同じこと」と喝破されていたのを想起。ひさびさにインターネットの存在に心から感謝。とにかく面白過ぎ。

この場面での生徒たちには ― 前のほうに座っている男の子連中にも、3人並んで座っている女の子連中にも ― まるで見覚えがない。ふと、デス見沢先生に症状や色恋沙汰を相談してきている相談者たちの魂(?)の姿なのではなかろうか、と思いつく。彼らが先着で、僕は後ろのほうにおり、しかも浮いた存在である、というような。

女の子たちのひとりが笑いかけてきたというのも、僕が席に座るやいなや厭がらせめいた聞こえよがしの会話をしたというのも、両方とも妄想的知覚っぽい気がする。まず、自分に好意をもってくれているんだな、という妄想的知覚が生じる。次いで、急に”変貌”が生じ、いや、自分を迫害しているぞ、という妄想的知覚が生じる。こういうことなら日常茶飯事。地域住民からの白い眼、僻み妄想……。
# 発熱時には長い長い悪夢と相場が決まってる。

{!!)
 船橋市精神保健福祉推進協議会発行『市民のためのこころの健康:No.12 〜 「心の扉」を開く 〜』(2000年3月)に収められている、”船橋市在住 家 族”さんの手記「2.発病、家族の思い、そしてこれから」より。
 楽しいことを忘れたかのような息子の生活、年月は容赦なく過ぎて、息子は30歳となり、私も白髪がめっきり増え、自立にほど遠いわが子をいつまで見ていなければならないのだろうとわびしくなりました。寝るところも食べる物も不自由しない、昼夜逆転生活をしていても、本人は何も困ることはない。この生活状態から抜け出さなくても、家族の援助や保護はいつまでも続くと思っているらしい。社会復帰にはほど遠い毎日の過ごし方です。
 でも、病気だからといって、年齢不相応な幼稚さや社会性のなさをこのままにしておいてよいのだろうか。社会で生きていくのにきっと壁に突き当たり、つらい思いをするに違いないと思いました。どうしてもこの生活から抜け出させたい。まず、睡眠のリズムを普通の状態にすることを心がけました。息子も努力していたときもありましたが、朝起きてもすることがないので、そのまま寝てしまいます。生活のリズムは一向によくなりません。以前はいろいろ趣味があったのに何もしない。友人もいなくなって、孤独な日々です。
 穏やかに、安心して暮らせることが一番よし、高望みは無理、
そう思って少しの可能性でも見つけ、行く手に光を見たいと思います。些細なことでもいいから、目標を持ち、経験をし、成就感を味わい、それが自信となり、自発性も生まれ、自立へとつながっていくのではないだろうか。こんなに考えをめぐらせても、最初の一歩とした、朝のうちに起きるということがどうしてもできないのですから、そのほかのことは何も言い出せません。やはり、じっと見守って待つしかないのです。それが最善かどうかわかりませんが。(15−16頁)
 太字強調は引用者 (r)es = 摂津正(気?)。
 自分はいま25歳だけれども、逃げ道(漏出口)になるのではと期待される幾つかの打診が実らない場合、このまま年を重ねてこの息子さんと同じ状態になるのではないかという気がする。というか、太字強調部分 ― 「以前はいろいろ趣味があったのに何もしない。友人もいなくなって、孤独な日々です。」 ― というのはもう同じ。母親もこのところ、「安心して暮らせることが一番よし、高望みは無理」という意味のことを繰り返しているし ― 悪いことさえしなければいいとか、生きて(単に生物(学)的に”生存”して)くれてさえいればいいとかいっているし。

 以前はいろいろ趣味があったのに何もしない。以前はピアノで演歌などを弾いたり三味線を弾いたりしていたが、もう長らくやっていなくて、段々技術的にも感覚的にも駄目になってきている。”やる気”、意欲そのものが根っこのところからなくなってしまって。どうして、といわれるとよくわからないが、何か「無駄だった」という印象をもっているのだ。他のことについても同様。

 いまやっていることといったら、翻訳練習くらいか。でもそれだってカネになるわけでも将来何かに結びつくわけでもないしなあ。カネになったり職になるどころか、仮に好きなのを翻訳できたとしても web 上で発表するだけで犯罪者だし。(関係ないが、株式会社「知的著作権協会」の代表ふたりが詐欺で告発されたという夕刊記事をさっき読んで、心から嬉しくなった。個々人のことなどどうでもよく関心ないが、この機会に”知的所有権”という概念そのものが根こそぎに無くなってしまえばいいのにな。精神的な communism に向かって一歩前進!)

 友人もいなくなって、孤独な日々です。やっぱり友だちっていっても、境遇や関心等々を共有していないと、会話がつづかなかったり、お互いに楽しい時間が過ごせなかったりする。で、だんだん誰からも共有されないような方向に突き進んでいくと、友人もいなくなって孤独な日々を送ることになるのは、精神病であろうとなかろうと必然的な過程なのではなかろうか。また、孤独な日々というのは、病気の結果にも病気の原因にもなりうると思う。

 寝るところも食べる物も不自由しない、昼夜逆転生活をしていても、本人は何も困ることはない。この生活状態から抜け出さなくても、家族の援助や保護はいつまでも続くと思っているらしい。社会復帰にはほど遠い毎日の過ごし方です。本当にそう「思っている」かどうかは息子さん本人に訊いてみないとわからないんじゃないか!?

 人様のことはともかくとして、自分自身のことをいえば、そういうふうには思っていないが、かといって打開の名案もないまま9ヶ月が過ぎてしまった、という感じだ。家族に当たり散らさず、毎日ニコニコ(うー、キモワル、それとたまに”家事手伝い”、それで精一杯。

2000/09/28

{!!)
 カトリーヌさんの哲学掲示板の夢をみる。僕か或いは他の誰かが書き込もうと何度試みても、エンコードか何かの問題で書き込めない(或いは書き込まれたものが読めない)、という夢だった。

# ブーバーをやっている研究生の方 ― 相当年配の男の人で、酒類関係の実業に長い間携わっている方らしい ― は、哲学教育の必要性と意義をいつも強調なさるんだけど、フランスの高校生は宿題や作文で大変みたい。こんなふうに「考える」ことを強制されつづけるというのも、自分で好きなことができなくなってよくないのではと思うんだけど。教養主義は嫌い。

 例えば、こんな問いに6−10行で答えさせられるんだって。
1) A t on besoin de rêver ? (夢想する必要ってあるの?)
2) L'apparence est elle trompeuse ? (外観/見掛けはひとを欺くものなの?)
3) Peut on échapper à son temps ? (自分の生きている時代を逃れることはできるの?)
4) Tout s'en va t il avec le temps ? (時とともにすべて過ぎていくの?)
 6−10行で、なんていう先生もどうかしてる。できるわけないだろー、真面目になればなるほど。

2000/09/29

{!!)
 今ははやもうすぐ夜が明けるといった時間(午前4時)になってしまったが、さっき仮眠したとき麻雀をする夢を見た。左隣がもと編集者のOさん、対面がダンス研究者のWさん、右隣が不明。

 席を決めるときにOさんが占いか何かで決めようと言い出してモメた場面、牌をとっていくとき、僕及び僕の右隣の誰だかわからない人がまだ一回しかとっていないのに左隣のOさんがチョンチョンをしていて、それでまたモメる。

 夢をみている最中には疑問におもわなかったが、親は確か対面のWさんだった。だったら、チョンチョンは普通親がするものなのに、左隣(北家)のOさんがやっていたのはおかしいはず。これは今気がついた。

 チョンチョンをやっていたときのOさんの表情は僕が大学1年のとき(6年も前だなんて、信じられない!)の一番元気なころのOさんの表情、自分で自分にウケているといった感じの表情だった。

 それにしても麻雀なんてひさしくやっていない。半年以上前にWさん他のメンバーでやった徹夜麻雀が最後。ちなみに、そのときの参加者のひとり(大学のサークルの先輩)は最近目出度く結婚したらしい。

*o*
 ここ数日、****めいた連想(?)を書きなぐりつづけることも少なく、相対的にまともな夢日記っぽいじゃない? >自分

 昼は翻訳練習、夜はデス見沢氏のサイトの閲覧で忙しく、夢および過去のことを考えるのに割く時間が減っているせいだが、いい傾向かも。

 それにしても、精神科のお医者さんのホームページって、純粋に病院の宣伝のサイトを除くと、どれも個性的で面白いです。他方、患者さんのほうのサイトで面白いホームページはあまりないような気がする(自分の日記も含めて)。

{!!)
 アルトマン監督『ショート・カッツ』(ヴィデオ2本組)をみている最中だが、いまひとつ面白く感じることができない。でネットで気晴らし(だったらみるのをやめればいいのに)

2000/09/30 紛い物としてある事実性

 ベランダでチロチャンにオシッコとウンコをさせた後、10分ほど眠りこんだ。夢をみて、そこでは両親のカラオケ教室の発表会の実行委員長になっていた。幾つも小さな不手際があったが一応終わってこれでよしと思ったら、中学時代の社会科の先生(左翼)が実行委員全員を恫喝して無理やりに「反省」をもとめてくる。うんざりし、不当で腹立たしい思いに駆られる。(映像的要素は貧弱。というかほとんどない。眠っていた時間も短かったし、映像としての夢というよりも、幾つかの思念の繋がりが筋めいたものを構成したものではないだろうか。)

 過去(11、2年前)と現在が重ね合わされている。どうして今ごろ厭な思い出(カラオケ教室というのを何かの学内行事に置き換えたら過去の現実そのもの)を夢にみたんだろう。

 学校に行っていた当時は「集団生活」が大嫌いで、規律を強制してくる一切のものに対して強い反感を抱いていた。当時の厭なこともあったが面白いこともあった集団生活と現在の自由この上ないが孤独そのものの生活 ― まあ両親とチロチャンがいるけれども ― とどっちがいいか比較しているのだろうか、とも考えてみるが、あまり自分でも納得できない。

 ところで、デス見沢デス彦氏 = タマランチ皇帝のホームページ内の掲示板過去ログや闇の医療/恋愛相談室の過去ログをここ3、4日読み続けている。自分のことにひきつけて読むとき印象に残ったのが、「自称AC」についての部分、また男のヒステリー(←自分?)についての部分。修士論文はドゥルーズの記憶論についてのものだったけれども、それを準備しているときから、過去の外傷的記憶(トラウマ)の「事実性」と「模造性」の二重性が気になっている。

 デス見沢先生は、あったかなかったか確証できない出来事の記憶に拘泥し・怨恨を抱きつづけるのをやめ、現在と未来に向かって生きるべきだ、と勧めている。確かにそのとおりだろうが、そうできないから苦しむのではないか。うまくいえないが……。

 「自称AC」を家族にもつ人の証言や怒りの声などもデス見沢氏のサイトで紹介されていて ― リンク禁止らしいから直接リンクできないが、興味のある方はご自分で探してください ― 、考え込んでしまった。確かにその人(患者 = 受苦者のお姉さん)が言う通り、同じ両親、同じ環境で育った2人の子どものうち、ひとりは普通に育ち普通に生活しているのに、他方は過去のできごとに傷つき自分も家族も苦しむ結果をもたらしている、という場合、「心の傷」とは一体何かという疑問が出てくる。

 (何回も何回も同じ話を書いているけれど)ビンスヴァンガーがあるときフロイトに、「同じように重大な出来事(例:子どもの死)に直面しても、精神病になる人もいれば持ち堪える人もいますが、それは精神力の差から生じるんでしょうか?」とたずねた。フロイトは短く「体質がすべてです」と答え、ビンスヴァンガーを失望させた。『フロイトへの道』という本の最後に出てくるエピソードである。意味がわからなくて、しかし妙に心に引っ掛かるのでずっと考えているが、上述の実例の姉妹の場合でいうと、妹(受苦者でありかつ告発者)のほうを道徳的に非難する人たちは、「精神力」の違いが問題なのだと考えていることになる。姉のほうは堪えて立派に社会に適応した生活を送っている ― 彼女が使っている非常に印象ぶかい表現でいえば、「義務を果たしている」 ― じゃないか、同じ両親、同じ環境で一方ができることを他方ができないというのはどういうことか、というわけだ。それに対し、体質 ― ビンスヴァンガーがそうとらえているような生理学的・生物学的決定論の表現というよりも、むしろもっと広い意味で(各人の意志ではどうにもできない)「個体差」と考えたいところだが ― という観点でみるなら、あらゆる生は(たとえ他人に迷惑な怨恨にみちた生であっても)無罪であり無垢である、ということになるだろうと思う。今度は妹のほうの印象的な言葉でいえば、「敏感」かどうか ― 感度が高いというのは苦しみを増すことになるので、プラスの意味だけではないだろう ― という問題だということになる。

# 眠り込む直前に、夢か現実かはっきりしない支離滅裂な思念や映像の流れがあったが、仮眠してまた起きたときには忘れてしまっていた(いつものことだが)。こういう曖昧な状態はイイ。

{!!)
 外傷的記憶(トラウマ)の「事実性」と「模造性(まがいもの性)」について。ラカンの講習会記録集第11巻第6講第1節より。
... 精神分析の経験においては、原光景が外傷的だという事実から着手することが肝要です。分析可能なものの転調(変化、抑揚…)を維持するのは、性的な感情移入ではなく、まがいものの(=模造された)事実です。まがいものの(=模造された)事実、狼男の経験においてあんなにもひどい痕跡(傷)を残しているようにみえるようなもの ― ペニスの消滅と再出現といった奇妙な事実。
 狼男の経験において云々、というのは、フロイトの狼男症例で報告されている、患者の幼年期の幻覚的な思い出 ― ナイフで指が切れかかったのがみえたが、しばらくしてみると、指は元通りで傷ひとつなかった、という体験 ― を指す。

 つぎにイアン・ハッキング『記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム』(早川書房)の22頁から引用。
こうした疑惑( = 多重人格者の心理療法によって明らかになる幼年期の虐待は、現実の出来事ではなく、想像上の出来事であり、治療が「作り出した」ものではないかという疑惑 ― 引用者(r)es)を抱いた人々の組織が、1992年に設立された<虚偽記憶症候群財団>である。現在も活動を続けているこの団体は、告発された親への助言や裁判での支援と、無責任な心理療法の危険性を宣伝することを目的としている。彼らは、だまされやすい臨床家たち(多重人格に取り組んできた人々を含む)が、実際には存在しなかった幼児虐待の記憶をつくり出しているのだと非難している。これに対して、臨床家や活動家たちは、この財団は幼児虐待者の支援団体であると反論している。
 ハッキングが紹介しているアメリカのセラピストたちに比較すると、ラカンのほうが遥かに洗練された「現実」概念をもっているといえると思う。しかし、逆に、遥かに厳しく残酷な帰結をもたらしうる、とも思う。

 つまり、遥か遠い過去のある時点において、起きたか起きなかったか確定できない ― すなわち心的現実ではなく外的現実、空間的時間的座標上に場を占めている現実としてあることが多くの人を納得させる仕方で示されえない ― 出来事について、それの実在を信じ、その出来事の結果がいまある自分の姿だと信じ、その怨念を生きる根拠にしている主体 = 臣民がいるとする。その主体 = 臣民は、まず素朴・自然的に、その出来事がリアルなものだったのだと信じている、とする。いかに自他を苦しめ、反動的であったとしても、そのひとにとって(他人にとってはどうだか知らない)自分の生は根拠づけられた生としてある。そのひとには、生産的ではないかもしれないが、なすべきことが残っている。告発し、権利を回復し、奪われたものを奪いかえすことがそれだ。

 ところが、他人の示唆によってであれ自分自身の力でであれ、それまで自分の生の意味価の重みのすべてをそこに託していると想定してきた当該の出来事が、現に身をもって生きられたものではない、ということが露呈されたとしたらどうだろうか。自分の生の遠近法がそこに吊り支えられていると信じそう想定してきた出来事が、じつはかつて一度も実際には生じたことのない出来事だったとわかってしまったらどうだろうか。まず、その主体 = 臣民、患者 = 受苦者の症状から、少なくとも超越的な意味が消えてなくなる。そのひとにとってすべてを傾注する唯一の対象が自分の症状、自分の苦痛だとしたら、そのひとの生自体の意味価が根幹から揺らいでしまう。そこで無根拠や無意味の肯定などといった理念をもちだしてきても駄目だと思う。生じるのは、もはやなんらの言い訳もできず、生が腐敗しつつあるのも現に苦しんでいることもなんの理由も根拠もない、という恐ろしい事実の自覚であって、これはこれ自身がおのずから選別の働きをするはずである。ハッキングの紹介するような精神療法の孕む危険が、もしかしたら無根拠かもしれない果てしない権利回復要求に主体 = 臣民を差し向けてしまうかもしれない、ということであるとすれば、上述の自覚を促す働きかけの孕む危険は端的な絶望および自殺だろう。ボルク=ヤコブセンの著書が示唆的なことを述べていたと思うけれど、図書館に返してしまって手元にないから引用できない。

# フランスのラカン派の治療の実際とその結果についてのいい資料とかはないんだろうか?

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 夜の10時に連続3回も無言電話を掛けてきたやつ。もし超能力があれば即刻死刑といいたいが、残念ながら超能力はない... 。しかし、たまに掛かってくるんだが、こういう厭がらせを平和的ヒッキー(ワナビー flower generation っす)にし掛けてくるのはいったいどんなやつなんだろう。思いあたるかぎり列挙。
  • セクト
  • 公安
  • ***** (自己検閲)
  • (r)es 家に融資している銀行や諸個人
  • かつてひどい仕打ちをした友人・知人らのうちの誰か
  • 両親の商売敵(カラオケ教室の先生)ないしやめたもと会員
 う〜ん。男は家を出ると7人の敵がいるゾと脅されるものらしいが、僕などは家に引き篭もっていてもずいぶん敵(?)がいるようだ。
 そういえば、一番ありそうな可能性を忘れていた。
  • 無言電話があったという事実そのものが (r)es 家の集団妄想
 やばやば。

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