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夢目記


日記鯖システム管理者からのお知らせ

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  • 都合により日記鯖のURLが http://ds.wa-mo.to/ から http://ds.sen-nin-do.net/ に変更となりました。 突然で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。(2019/01/27)
  • 日記鯖の仕様変更、不具合対応等については、こちらの記事もご覧ください。

元気です。

2000/10/01 文学的共産主義

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 ジャン=リュック・ナンシーさんの「文学的共産主義」という題の文章があります。原文で確か10頁ほど。西谷修さん訳で朝日出版社から刊行された邦訳『無為の共同体』には確か入っていない ― 原書増補版に収められている ― と思う。ここ数日読んだり一部分練習(野球やピアノみたいだな)を兼ねて試訳したりしているけれども、まったくうまくいかない。デリダの『友愛の政治学』(飯田橋の欧明社で買ってきて数年間も放置していた本)も今日少し読みはじめたが、すぐに躓いてしまった。

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 うーん、文学的共産主義。はっきりいって駄目ドゥルージアンの私にはあまり好きになれない思考形態だ。(カトリーヌさんごめんなさい!)
 例えばこんな感じなんだけれど。(「文学的共産主義」という文章の最初の部分と最後の部分。変な順序ですが、中間のところは飛ばしていてまだ試訳していない)
 途切れた神話 mythe interrompu の共同体、いいかえればある意味で共同体なき共同体、或いは共同体なき共産主義、これが私たちの目的地 notre destination である。つまり、私たちは、自分らに最も相応しい将来としてあるそのような共同体(ないし共産主義)へと、召喚され追いやられているのだ。しかし、それは《将来》ではない。接近、成熟、獲得の期限や方向性に沿って成就間近(待機中)の en instance d'accomplissement 究極的 = 最終的現実ではないのだ。というのもこの場合、その現実というのは ― その理念の効力と同様に ― 神話的なものだろうから。
 共同体なき共同体は、それが常に、絶え間なく、あらゆる集団の内に来ている(生じている)という意味で、来るべきものである(共同体が集団に対しても個人に対しても終わり = 目的なしに抵抗するのは、そこに共同体が絶え間なく来る(生じる)からである)。共同体は、共に顕れること(出頭;召喚) la comparution の限界に、そこで私たちが実際に召喚され、呼び出され、追いやられる ― 且つ、そこへと私たちが召喚され、呼び出され、追いやられる ― この限界に来る(生じる)もの以外ではない。[Jean-Luc Nancy, La communauté désœuvrée, C. Bourgois, p.177]

 いまだ到来していないものを前もって指示して par provision 私が《文学的共産主義》と呼んだものが、ここにある。このことを通じて理解されるべきであろうことは、私たちがもちあわせている《共産主義》や《文学》の理念とは最終的には一致しない。そんなわけで、 《文学的共産主義》は挑発・扇動 provocation によってしか名づけられない ― といってもこのような名づけは、一方で共産主義及び共産主義者たち、他方で文学及び作家たちが私たちの歴史のひとつの時代のためにハッキリ表明することになろう事柄に対して払うべき敬意を棄てはしないが。
 実際、共同体の語り = 結構 une articulation de la communauté が問題である。《語り = 結構》というのは、一定の仕方で、《書くこと/書かれたもの écriture》を意味している。つまり、その超越ないし臨在(現在)が果てしなく且つ構成的に延期されているようなひとつの意味の刻み込みを。《共同体》というのは、一定の仕方で、その内在が自らの死の働きでなければ不可能であるような総体としての存在(者)の臨在 présence d'un être-ensemble dont l'immanence est impossible sauf à être son œuvre de mort を意味している。そのことは、文芸も意思疎通(コミュニケーション)も《文学的共産主義》の二重の要求、つまり言葉なき sans parole 内在及び〈言葉 un Verbe〉の超越に同時に挑戦するという要求にこたえることはできない、ということを前提している。
 文学的共産主義というこの要求があるのは、 ― 常に無為 désœuvrée でいかなる集団性の只中でもどんな個人の胸中でも持ち堪えている résiste ような ― 共同体があるから、 ― 常に宙吊りにされ、それに固有な言表行為によって分割されている ― 神話が途切れたからである。つまり、(諸々の)声の分け持ちや分節化 = 語りの思考や実践があるからである。このことを通じ、共に晒されない特異性(単独性)はなく、(諸)特異性の限界に差し出されない共同体はない、ということになる。 par laquelle il n'y a de singularité qu'exposée en commun, et de communauté qu'offerte à la limite des singularités.
 このことは社会性の特定のありようを規定せず、政治(政策)を基礎づけ = 根拠づけもしない ― 万一政治が《基礎づけ = 根拠づけられ》うるとしてさえも。だがそれは、少なくとも、あらゆる政治(政策)がそこで停止かつ開始する、ひとつの限界を定める。この限界上で生じ、本当のことをいえばこの限界を構成している意思疎通 La communication は、私たちがひとつの政治(政策)を求めるさい、共に(何かに)なろうと志すこと cette façon de se destiner en commun 、共同体をそれ自身に、或いは寧ろひとつの運命ないし将来に開くことを要求する。《文学的共産主義》は少なくとも以下のことを意味する。共同体を完成し = それに止めを刺すことを望む一切事に対する果てしない抵抗のうちで、共同体が抑えられぬ政治的要求を表明する、ということ。次いでその政治的要求が《文学》に関わる何か、私たちの果てしない抵抗の刻み込み l'inscription を要求する、ということ。
 それは、ひとつの政治(政策)もひとつの文書 écriture も定義しない。というのも、その反対に、政治的・美学的・哲学的な定義や綱領 programme に抵抗する物事を参照するからだ。つまり、それ(=文学的共産主義)はあらゆる《政治(政策)》、あらゆる《文書》に順応しない。それは、私たちが発案するというよりも ― 共同体の根底(本性)からして ― 私たちの先を越している《文学的共産主義的》抵抗の味方をするように指示する。このことを知ろうと望まない政治(政策)は神話(学)か経済(学)である。このことを語らない文学は、娯楽か嘘である。
 私はここで話を中断しなければならない。誰も、いかなる主体も語れない事柄、私たちを共に晒す nous expose en commun 事柄を考える se dire のを、君に委ねることにして。[pp.196-198])
 実は私はナンシー教授の邦訳書を読んで少しでも理解できたのは、西谷訳『無為の共同体』だけ(原著者が悪いのか訳者が悪いのか読者の私が悪いのかはともかく、『エゴ・スム』とか『共同−体』とか全く理解不能だった)。それで、この同じ著作の増補版に入っている文章を手掛かりにしていけるかと思ったんだけれども... 。なかなかそういうわけにもいかないようです。

$, \ ou X.
# 「円」じゃなくてもいい、「1スキゾ」「50ヒッキー」等の通貨でもいいから……(以下検閲)

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 いま眺めていて思ったが、「$」というのは棒線で抹消された主体(S)のようにみえる。「\」は二重取り消し線をひかれた「Y」。なんだか卑猥(「Y」だけに) ― とかいうおやじギャグを思いつくようじゃ終わっている。

# 明朝は船橋市北図書館に Let's go!

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 ↑ は夢想というか悲鳴めいたものだったが、なんと「1ヒッキー」ではさすがになかろうが「引きこもり当事者のLETS」が本当にあるらしい。しかも拙宅(船橋)のすぐ近く(市川)に。

 アクビさんの『マミムメモ』の掲示板「エケセテネ」からリンクしているここから引用。
ところで、Uさんが考えた『引きこもり当事者のLETS』を始めようとしているグループがもうひとつあります。ニュースタート事務局東京本部の仲間たちで、千葉県市川市の行徳というところで、まもなく『福祉コンビニ』(実際に閉店してしまったコンビニエンスストアを借りて)をオープンさせようとしています。引きこもりから立ち直った若者たちが、介護労働や環境運動への参加やさまざまな社会参加を始めているのですが、この『福祉コンビニ』でも、老人介護のディサービスのみならず、さまざまな地域福祉のニーズに対応していこうとしており、しかもそこでLETSを導入し、日銀券(貨幣)のいらない社会を実現しようとしています。
 確かこのサイトはリンクを辿って3度くらいみていたはずだが、なぜか完全に見落としていた。フロイト流のしくじり行為かな。

{!!)
 ところで、団体精神が欠けていて、どんな団体にかかわっても約1年が経過すると被迫害感が炸裂してまったく駄目になってしまうんだけど、こんど( NAM のことだが。躁に駆られてもうひとつ打診したところからは返事がこなかった)は大丈夫かなあ。

# そういえば管理マンさんのところでのネット上のラカン読書会ももうすぐ参加して1年になる。ということは、そろそろ脳の破裂に注意しないと! (注・『悪魔の招待状』は15年ほど前に読んでいたく感動した漫画のひとつ。当時イイと思ったものといえば、日野日出志『恐怖! 地獄少女』、『地獄変』 ― 作者を思わせる地獄絵師のご一家が素敵! ― といったところでした。)

{!!)
 やばやば。朝の5時。さすがにもう寝ないと眼がダメになってしまう... 。

{!!)
 北図書館でみつけた小此木啓吾著『エディプスと阿闍世』(青土社)の124頁より。
 ここで思い出すのは、1954年にJ・ラカンが古沢平作に送った手紙である。その当時、ラカンはフランスの精神分析の学会から孤立していた。そのためか、世界各国の自分の考えに共鳴する友に呼びかけを送ったと思われるふしがある。その便りの中で彼はこう語っている。
「あなた方日本人のように、東洋的な無我の思想の中で暮らしている人々には、私の考えがよく理解できるのではないか。いまやフランスの精神分析は自我心理学者たちによって大きく歪められている。お互いに密接に関連し合う絆から切り離された、個々の自我が精神分析の基本になってしまった。特にこの傾向は米国の精神分析に著しい。自分はこの動向に対して断固として闘う。仏教的な背景を持ち、むしろ自我を超えた因縁因果の絆に目を向ける伝統を持ったあなた方との連帯を期待する……」。
 概要このような要旨の手紙であった(この仏文の手紙は当時の慶応大学精神科の三浦岱栄教授が邦訳された)。
 これは手紙の文面そのままではなく、小此木氏による要約らしいが、原文はどこかに残っていないんだろうか。

 ところで長期貸出中に借りていた本を返してきたのだが、今回は「挫折率」(自殺率に非ず)がやたら高かった。
  • ジンメル『貨幣の哲学』 → 読みはじめてみたもののさっぱりわからず挫折
  • 中野重治全集の『歌のわかれ』や『むらぎも』が入った巻 → 読んでいたがだんだん退屈に堪えられなくなってきて投げ出してしまった。『むらぎも』の芥川とか福本和夫をモデルにしていると思われる人物が出てくるあたりの場面などだけ飛ばし飛ばし読んだ(← 邪道)
  • 深沢七郎全集の最初の巻 → なんだか入っていけず、読まずに返した。
 こんなことじゃ沢山借りたってダメだ。ただ、ブロッホの『希望の原理』だけはまだもう少し読んでみたい気がしたので、貸出延長の手続きをしてみた。でも結構厚い2巻本だから読みきれないかもしれないが。

 北図書館へは自宅から歩いて10分ほど。途中、お茶屋さんに寄って日本茶と紅茶を買い、図書館からぐるっと廻ってスーパー(マルエツ)で買物。なんだか心ココニ在ラズといった妙な感じで、まるで肉体ノ衣ヲ着タママ幽体離脱シテイルかのような気がしていた。ただの睡眠不足だろうが。

 それで変な想念が次々に浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。例えば、知人・友人らに影響されてかなりファンになった中谷美紀について、《『ハルモニア』のようなどこがいいのかわからない最低ドラマにさえ地獄のような役柄で出演していたんだから、”両手両足を−切断された−ドラえもん”の役を獲得するまで、あとひと努力だ!》という考えが頭から離れなくなっていた。その直前には、《ニッポンの右翼たちよ、集団自決せよ!》という素敵なコトバが空の頭蓋のなかでこだましていて、やばやば、独り笑いを堪えるのに必死だった。

 想念の繋がりの糸を辿っていくと、キッカケは、今朝の読売新聞朝刊の社会面に載っていた、わが目を疑うような信じられない記事のことを道中フラッシュバック的・無意志的に思い出した、ということにあるようだ。読売新聞2000年10月1日付朝刊39面の記事。
「従軍慰安婦」の演題ダメ 横浜の講演会 区役所が指導 主催者、中止恐れ受け入れ

 タイトルから「従軍慰安婦」という言葉をはずす。チラシにある「戦争責任」「強制連行」も削除 ― 。従軍慰安婦問題をテーマに横浜市内で30日開かれた講演会に対して、同市旭区役所が事前にこんな指導をしていたことが分かった。
 講演会は同区の委託事業の1つで、横浜市の市民団体「ジェンダーフリーの会」が主催。女性問題をテーマに同会が7月から始めた連続講座の最終回で、講座全体が旭区の生涯学習事業に認められ、「委託」という形で10万円の事業費が支給されている。
 最終回は東京経済大学講師の徐京植(ソキョンシク)さん(49)が「従軍慰安婦問題、戦争責任と性暴力について」というテーマで講演することが4月に企画書を出した時点で決まっていた。
 ところが、同会が8月にチラシを作ったところ、区の担当係から「この問題は市民の議論が分かれている」として、突然中止を求められた。
 交渉の末、区側は開催を認めるかわりに、講演会のタイトルとチラシの内容について変更を指示。タイトルは最終的に「総合的ジェンダーフリーの学習を目指して」に変えさせられた。チラシからは「戦争責任」などの言葉が削除させられた。チラシの配布先も、これまでの講座の受講者だけにすることを約束させられたという。
 同会の安本節子代表(54)は「不本意だったが、中止に追い込まれる恐れもあり、受け入れざるを得なかった」と話している。区役所は「公の事業である以上、市民の間で意見が分かれるようなテーマを扱うのはふさわしくないと判断した」としている。
 講演会は30日、予定通り開かれ、約40人が参加した。
 ソンナ区役所ハ解体、担当係ラ責任者諸氏ハ革命的宮刑ニ処シ、切除サレタ肉片ハ、犠牲者ラノ墓ノ前ニ小山ノヨウニ積ミアゲル可シ、という何か不透明な雲のような言葉が、脳のちょっと裂けた辺りのからとめどもなく湧いてきて ― 去勢して切り取った性器を墓の前に積み上げて云々というあたりは図書館で立ち読みした『あぶない世界史』とかいう文庫本の中世篇の怪しげな記述に影響されているようだ ― 、その言葉雲を辿っていって、まず右翼ヘイトへと想念が飛んだ。次いで、その想念の暴力的な調子を弁明するように、「かく言う私も実は右翼かもしれず、集団自決に加わるべきかもしれないねー」という想念が浮かんだ(右翼から脅迫・恫喝の電話が掛かるという空想が無意志的・自動的に生じ、それへの応答としてこの言い訳自動的に呈出されたようだ)。なぜか(ここは本当にどうしてだか自分でもよくわからないのだが)、「(自分も実は右翼だというのは)中谷美紀ファンだからだ」という想念が生じ、そこから何年もの間怪訝に感じている『ハルモニア』に連想が飛び、次いでいつもながらの「**********ドラえもん」の強迫観念とそれが結びついた、ということのようだ。

 それにしても、病理的なものが混入していない純粋な道徳的憤激というのは、自分にはまったく欠けている、と思う。まともな左翼にはどうしてもなれず、(目が3つクンが嘆いて涙を流し = 眼球を噴出させているような例の)タコであり続けるよりほかないのはまさにこのためだろう。

2000/10/02 L'Anti-Ajase ou l'anti-AC?

{!!)
 小此木啓吾著『エディプスと阿闍世』(青土社)29−30頁から引用。
 想像の赤ん坊 bébé imaginaire としての阿闍世
 阿闍世コンプレックス論は、涅槃経や観無量寿経、その他の仏典に載っている阿闍世の物語に由来している。ただし、わが国の古沢平作は諸仏典における父親と息子の話を母親と息子の話につくりかえて、古沢版阿闍世物語をつくった。この点について、原典との照合をめぐっての仏教学者の方々からの批判があるが、むしろ古沢がこの話を父と息子の話から母と息子の話に変換したこと自体の意味を敢えて評価することによって、母親の子どもを持つことをめぐる葛藤をあらわすテーマの物語として、ここでは用いることにしたい(小此木啓吾「古沢版阿闍世物語の出典とその再構成過程」、小此木『日本人の阿闍世コンプレックス』中公文庫、1981年)
 阿闍世の母は、容色衰え、王妃の座に不安を感じて、子供をほしいと思った。そこで予言者に尋ねると、森の仙人が3年後に生まれ変わって、あなたの胎内に身ごもると言われた。不安のあまり3年待つことのできなかった王妃は、その仙人を殺してしまう。殺された仙人は死ぬときに、「おまえの息子になって不幸災厄をもたらし、おまえの夫(父親)を殺す」と言って息絶える。そして、その直後に身ごもったのが阿闍世なのだが、母親はその話を聞いて、今度は胎内の子供のことが恐ろしくなってしまう。生まれてきたらどんな恐ろしい災いが起こるかわからない。そして今度は、堕ろそうと思ったり、産むときにも、高い塔の上から産み落として殺そうとしたりする。
 そして、この話を青年期になって聞いた阿闍世が、父を幽閉し、母を殺そうとするというのが阿闍世の物語である。そして、このとき阿闍世が自分の出生の由来について抱いた恨みを未生怨という。未生怨は、自己の成り立ち、ひいては自分の誕生以前にその父母の世界ですぐで作り上げられる、想像の赤ん坊 bébé imaginaire としての自分に対する恨みが無意識のうちに抱かれている。(後略)
 もう1箇所、ガンザーレインという精神分析家による阿闍世批判。同書、109−112頁から引用。
 ガンザーレインの阿闍世批判 ― 罪意識の共有と混沌
 私の友人で、米国アトランタ市在住の精神分析学者R・ガンザーレイン ― 彼はもともとはチリ出身で、精神分析学者なのに、珍しくユダヤ人ではなくキリスト教徒である ― が、阿闍世コンプレックスにおける罪悪感について批判的な論文を書いている。そこで彼は阿闍世論に含まれる罪悪感に対する防衛規制として次のものを指摘している(R・ガンザーレイン、小此木啓吾訳「阿闍世コンプレックスに生まれる種々の罪悪感」、「精神分析研究」第32巻第2号、1988年)
 第1は、罪悪感の共有(sharing) ― だれか他人と自分の罪を共有することによって、自分の責任に免罪を与える。例えば阿闍世をお釈迦様が救うときに、お釈迦様自身がこう語っている。
 実は阿闍世の父を王様にしたのは私だ。そのことを妬んだ提婆達多が阿闍世をそそのかしたから、阿闍世はあのような母親殺しの衝動にかられた。しかし、どうして提婆達多がそのような悪い心を起こしたかといえば、遡れば私(お釈迦様)自身に対するかつての嫉妬に由来している。
 なぜならば、自分がお釈迦様になる前に王子であった時代に、ある女性を提婆達多と私は争って、彼女を妻にした。そのときの嫉妬と私に対する恨みが積もっていて、私に教えを請う阿闍世の一家を不幸にしようと企んで、阿闍世に対する悪の囁きに及んだのだ。
 つまり、阿闍世が母親殺しの衝動にかられた因縁因果をたどっていくならば、悟りを開く以前のお釈迦様自身の女性に対する愛欲の煩悩にさかのぼることができる。
 このような因縁因果を語ることによって、お釈迦様は阿闍世の母、そしてまた、阿闍世自身の罪に対して救済を与える。仏教の因縁因果観から言えば、だれか個々の人間の責任として罪と罰を限定することは、自我というものの存在にとらわれることである。そのような我執にとらわれること自体が迷いである。このことについての悟りを開くことが罪を超えることにもなるという思想がその背景にある。

 自己の怒り・罪意識の正当化
 しかし、ガンザーレインから見ると、この思想は、罪の意識を否認したり、正当化したり、他人のせいにする合理づけの防衛に使われる一つの典型的なパターンである。罪悪感の正当化、ないし合理づけによる否認が、阿闍世の物語には随所に見られる。
 さらに突き詰めると、この仏教的な世界は、ガンザーレインから見ると、混乱(confusion)の世界である。最後には誰も悪い人はいないのに、罪だけが起こっている。しかし、それはだれのせいかわからない。誰を非難していいかといっても、非難すべき相手はいない。つまり、この世界は、個々の個別性や人格の主体性、自我の境界が打ち消された混乱混沌とした状態だと彼は体験してしまう。
 キリスト者である彼のこの率直な感性からの発言は、私にそれなりの異文化ショックを起こした。罪悪感に対する心的な防衛規制などの問題になると、仏教徒の阿闍世物語に対する感覚と、キリスト教徒であるガンザーレインの解釈との間の、日常的な生活感情の違いが大いにクローズアップされる。このガンザーレインが批判する罪の救いの話を、比較的安易に理想化して肯定してしまうような、あるいは自我親和的に受け取る心情が、私の心の中に潜んでいることが改めて自覚されたからである。
 そして、この観点からさらにガンザーレインは言う。その意味では未生怨という概念そのものが問題だ。例えば阿闍世物語では、阿闍世が母を殺そうとしたのは、その出生の由来を聞いて怒ったためだという。阿闍世を身ごもる時点で、すでに母親の心の中に子殺しの衝動があった。その子殺しの衝動が伝達されて、今度は阿闍世の未生怨となって、母殺しの形であらわれてくるというのが、輪廻の比喩による阿闍世物語である。しかし、阿闍世の主体的な自我に沿って精神分析的に考えてみると、この出産の由来をめぐる物語が母親からの分離の過程で抱く母に対する憎しみや怒りを正当化する格好の合理づけに使われるというのがガンザーレインの指摘である。
 つまり、そのような話を聞かなくても、思春期の少年少女は母親離れの過程で、母に対して激しい分離不安や怒りを向ける。そのような思春期の精神状態にとって阿闍世論は、悪いのは、自分をこの世に生み出した母親である。母親の側における、自分を身ごもったり、生んだりするときのエゴイズムである。だから自分が母親を攻撃しても恨んでも当然だ。自分は悪くないという合理づけを助ける。さらに遡れば、「なぜ僕を生んだのか」と言いつのって父母を責めたてる家庭内暴力少年の、父母の性的な結合そのものに対する羨望とそれに発する怒りをも正当化する。「こういう生み方をした母が悪い」という理屈づけによって、自分自身の内面に潜む自己の破壊的な衝動を直視する代わりに、阿闍世論はむしろその衝動を外在化して周囲に投影して合理づける助けになってしまう。阿闍世物語では、思春期の少年少女がそのような没主体的態度になることを勧めるのではないかというのが、ガンザーレインの厳しい指摘である。しかし、このガンザーレインの考えは、必ずしもガンザーレイン特有のものではなく、おそらく欧米の精神分析家であれば同じ理解と意見を抱くのが当然である。
 ぼくは阿闍世コンプレックスそれ自体にはあまり興味がもてないが、ガンザーレイン氏の批判にはこの個別の問題の枠をこえて一般的な意味があると思う。 Tamalunch Factory No Future 内「決闘場」の第5特別試合及び第10試合で議論されている「自称AC」(AC = adult children)の一件に、この怨念の問題が関連している、というのが最初の感想。

{!!)
 自分自身も多少(と思いたい)そうだし、友人知人らのなかにも大勢こういうひとがいた。過去、特に10年以上も遠い過去や出生状況まで遡って激しい怨念を抱き、それだけが現在の生の支えである、というようなひとたち。

 前向きに生きるべしという勧告とか、忘れたほうがいいという処方とか、道徳的な説教とか、全部無効。医療の対象ではないし、司法的取り扱いの対象でもないし、ただたんにそういう人生もありますねということになると思う。「嘲笑せず、歎かず、また呪わずに、理解する!Non ridere, non lugere, neque detestari, sed intelligere!)」不可能だが。

{!!)
 急に、過ちを犯してしまったような気がしてきた。眠れないし。

{!!)
 姫*先生(8年ほど前千葉県立津*沼高校に通っていたときの文芸部の顧問の先生。2年生のときのクラス担任でもあった)が夢にでてくる。何かの会で ― 何か雑然とした混乱の雰囲気があったが、詳細は忘れてしまった ― 姫*先生が話をし、それを聞いて涙を流さんばかりに感動する、という夢だった。しかし、どうも先生の話はどこか誤解をしているものだったような気もする。その点について思い出そうとしても思い出せない。「精神」という単語が思い浮かぶが、どう関係しているのかわからない。

 連想。
  1. きのうリンクを辿ってとある掲示板でみつけた「***姫」というハンドルネームの人の只今自殺中という投稿記事。「姫」 → 「姫*先生」。
  2. 「デス見沢デス彦先生」 → 「姫*先生」。
 昨晩は発作的にネットサーフィン(というよりネット溺死)していて、鬱系や自傷・自殺系のひとたちのホームページを閲覧して廻っていた。書き込みはせずただ傍観(ROM)しているだけだが。それで結局朝になってしまって... 。

{!!) それにしても「未生怨」というのもスゴイ表現。ただ、
ガンザーレインや小此木氏の議論で、物語のなかの
阿闍世と現代の思春期の少年少女とを同一平面でみる
傾きがある点には疑問を感じる。《「なぜ僕を生んだ
のか」と言いつのって父母を責めたてる家庭内暴力少年》
に言及するんなら、「未生怨」というよりも「生怨」
だと思うんだが。いずれにせよ自分が現に生きている
ことの思い出せないほど遥かな過去の根拠が揺らいで
いるという点では同じなのだろうか。

「生むか生まないか」というのは選択可能で、決断の領域に
属することだけれども、「生まれるか生まれないか」という
のは当然ながら自分の意志ではどうにもできない。意志する
自分なるものが生じる根源的な出来事なんだから。そこから
ややこしい縺れが生じることになるんだろう。結局自分が
望んだことでもないことを事後的に引き受けねばならない、
というところに怨念、いいかえれば「蒙らなくてもいい
はずの不当な苦痛・損害を蒙った」という感情が生じるわけだが、
「生を与えてくれた感謝」などといった道徳的なお説教がその
怨念を鎮められるはずもない。怨霊が祟ってきたときに
「お門違いだよ」と説教するようなものだ。

選択できない領域から選択可能な領域に移ること、端的にいえば
「生まれるか生まれないか」という次元から「生むか生まないか」
という次元に移るのがいいんじゃないかと思うのだが。一般的な
処方箋じゃないだろうが、自分向きの自己流処方箋というところ。
自分が何らかの混乱の結果としてあると気付いたら、原因になる
ことをやめ、呪い(怨念)の連鎖を断ち切るべし。「生まれない」
というのは背理だけれども、「生まない」ことなら(多分)できる
だろうから。はやく去勢したい。

物心ついたときからこんなことを考えていたが、結局のところ
(他の瑣末で衒学的な問題はどうあれ)根本的に重要な件に
ついては20年間進歩がまったくなかった、ということだろう。
寂しい結論だけれども。

2000/10/03

{!!)
自殺中宣言したヒトのいる掲示板に「僕も悩んでます」的な書き込みが
あって、そこも覗いてみようかなと思ってリンクを踏むと、いきなり
「女の子の部屋常時監視中」みたいなアングラっぽいエロサイトに
トバされ、焦ってプラウザの「戻る」ボタンを連打したんだけどまるで
無反応。しょうがないから画面の右下のコンピュータが2つ繋がった
絵柄のやつ(接続している時に出てくる絵)をダブルクリックし、
急いで接続を切った。疑心暗鬼に駆られ、直後に再起動。強制的に
Q2に繋がれたりしたら困るし。

その後検索などを使ってこれはどういう現象なのか調べようとしたが、
それほどよくわからなかった。一応ダイアルアップ・ネットワーク
あたりとか調べて異常がないかどうか確認したんだけれど... 。

何が起きたんだろう??

{!!)
結構長くて”濃い”夢をみたんだが、寝起きにチロチャンのトイレの
世話をしていたら、かなり忘れてしまった。

覚えているのはこんな断片。
大学時代の知人ら(?)とどこかの山のなかで競技(?)に参加して
いる。雪で白く覆われた細い険しい道を辿っていかねばならないの
だが、自分には出来そうもないと思い、諦める。… 忘却 …
金メダル、銀メダル、銅メダルの獲得者が乗る台のようなものが
あり、誰も乗っていない。この隙をつけばいいのだ。それで、銅
メダルの台に乗り、棚からぼた餅的な結果にひとり大笑いしている。
どうせなら金にしとけばよかったな、とも思う。

メダル云々はオリンピックからの連想だろうが、競技についても
山についてもよくわからない。最後の笑いは晴れやかなものと
いうよりも、抑えがたいといった感じのものだった。

{!!)
モチロン、ワタシジャアリマセン。>元早大院生の男が今年1月、
教授室に消火液まく。威力業務妨害などの容疑で逮捕


ていうか1月ってもう随分前だよなあ。なんで今ごろニュースになる
んだろ??

{!!)
脳糞トコロテン装置(自作)に掛かって宇宙的亡命へgo!

2000/10/04

{!!)
今日もネットサーフィン中いきなり変なところに飛ばされてしまった。
ネット溺死 ― てゆうかサーフ中日本近海にはイナイはずの鮫に
右腕を食いちぎられて死んでしまった、という感じだ。数ヶ月前
そういうニュースを聞いて驚いたが。かわいそうに、まだ20代前半
なのに。ぼくより若いじゃないか。

# ここ数日不眠。朝まで眠れない。明日は2週間ぶりの外出だって
いうのに、これじゃ行けるかどうか... 。


{!!)
もちろん昼間はまともな行動、思考は一切不能でボケっとしている
ことしかできないんだけれど、目をつむってできる黒いスクリーンで
猛烈な速さで映像がスクロールしていったりするのが見えたりした。
あと言葉も。こういう渦動が(悪)夢の素材なんだろうか。

睡眠薬を飲むと今度は朝起きられないだろうしなあ。どうしよう。

{!!)
7時に目が醒めたが、眼と頭が痛く、吐き気がする。高校生のときに
保健室の先生から「睡眠不足だったら吐き気がするのは当たり前です
よ」といわれたのを思い出す。

{!!)
帰宅。他人の夢のなかにお邪魔したかのような一日だった。なんだか
上の空で。

もと所属していた大学の図書館を訪問し、ドゥルーズ=ガタリと
ラカン関連の資料を複写。図書館の受付係のひとに笑顔で
「ありがとうございました!」といってしまった。寝不足のせいか。

{!!)
母がみた戦争の夢。

「とにかく戦争なんやな。それで正君(=ぼく)を抱いて逃げ回ってるんや。短いけど変な夢や、鮮明で。正君は(夢のなかで)赤ちゃんやからな、正君をかばいながら木の階段を上がるわけや。とにかくもう乱射でものすごいんや、テロか戦争か知らんけど。それに巻き込まれてるんよ。階段を上がって、畳半分くらいの踊り場から向こうに逃げて隠れようと思ったわけよ。ところが階段をあがったところでパチパチパチパチ撃ってきてそれに当たるわけよ。『ああ、これで死ぬのか、死ぬってどんな気持ちなのかな』と意識が朦朧としてきて、撃たれてるから逃げられんのよ。それがおかしいんや、お尻や太腿のほうから弾が飛んできてお母さんの体にあたるわけよ。お母さんはそれで一向に死なんのや。『死ぬのかなー、心臓に弾が当たらんと弾が一杯当たっても死んでないなー』とかいろいろ思いながら。太腿から膝のあたりまで、一杯弾が撃ち込まれて刺さるわけよ。それが痛くないんや。そんな夢なんやな。」

2000/10/05

{!!)
かなり情緒的な夢を幾つもみたはずだが、思い出せない。こういうとき
には無理に思い出そうとせず、漠然とした状態のまま放っておくのが
吉。かな??

2000/10/06

{!!)
ここ数日無気力状態がつづいていて、ついに日記をさぼってしまった。
義務じゃないんだが、つづけていると毎日書くものだという気になって
しまって。抜けているのがあるといやだから埋めておく。

2000/10/07 処女豚、堕ろしたぞ!

{!!)
ここ数日、就寝時間が早朝6時になってしまって、眠れない夜の間
ずっと ネット溺死 していた。幾つかのサイトの数年間分の
過去ログを読み漁っては夜明けを迎えてしまう。

パソコンを買ってからもう1年半以上たつのに、掲示板上での議論や
コミュニケーションに全然慣れない。それでずっと ROM している
んだけれども、それはそれで面白いにせよ、なんとなく幽霊になった
ような気分。いわゆる「荒らし」が怨霊なら、 ROM のほうは相対的に
無害な浮遊霊といったところだろうか。

{!!)
この幽霊になる感じ、影が薄くなる 感じは、他人の夢のなかに
お邪魔する、とでもいうような感じで、実はこれはネット外現実の日常
で感じているのとまったく同じものだ。もうひとつの別の現実 という
よりは、唯一の同じ現実の 鏡像 といった印象。あたりまえか。

{!!)
ぼくは自分に都合の悪いことはすぐに忘れてしまうけれども、例えば
他人との対立や議論など、web 上に過去ログとして残っていれば、
自分の都合だけでそれをなかったことにすることはできないことに
なる。やはりあたりまえのことだが、こわいことだ。忘れること、
消してしまうことが許されないというのは。

{!!)
教養ある方々の 闘技 を観戦するかたわら、あまり健全な姿では
ないが、中学や高校の同級生がいまどうしているか知りたくて思いつく
かぎり検索サイトで検索しまくる、ということをしていた。そもそも
思いだせる人数が五指に満たないんだが、検索しても、誰ひとりかつて
の知人に遭遇できない、という悲しさ。同窓会になど声はかからず、
たまに(数年に一度)かかっても断ってしまうから当然だろう。また、
私が 発狂 して危険人物化ないし廃人化したという噂が、超高速で
かつての知人連中に伝播した、ということもありうることだ。何しろ
地獄の三位一体 だからねえ。

{!!)
情緒安定のためには、たぶん、自分も 教養ある人 になろう、などという
希望を捨て、かぎりなく後ろ向きに 最低生活 をおくる、という
ことのほうがいいのだろう。経済的にも心理的にも、徹頭徹尾 支出
控えるとか。野心をいだいて何かに手を着けようとすると、まもなく
コケることになる。目にみえている。

{!!)
水子 について : 深夜母親が突然昔ばなしをはじめ、自分が若い頃、
CIA、野村克也氏、船村徹氏等と知り合いだったと言い張りつづける。

「もう子どもはできないと思ってたんや。男の3倍くらい仕事してて
何度流産したかわからん。知らんうちに流産してるんやから!」

といった舌の根も乾かないうちに「正気君(=ぼく)を 処女 で産んだ
んや!」と言い始めるのははっきりいってサムイが。どこにそんな
処女 がいるんだ。

# 人間的な事象に関しては、可能なかぎり当人が「そうだったのだ
と言い張る」ことを受け容れる、という方針も、ことここにくると
いささか揺るがざるをえないぞ!


{!!)
私の名前 : 歌って妊娠、黙って堕胎。

{!!)
子どもをつくらない、という意味で(再)生産をやめるのみ
ならず、そもそも 細胞レヴェルで (再)生産をやめるべきなのかも。
免疫力を落とすとか。食事を減らすとか。

# 目指せ夢の40キロ台!

{!!)
(偽)父が今日書いた「カラオケ教(室)」の宣伝文句。
音楽と人間の出会い、それは遠い昔からいつの時代でも私たちの生活に欠かすことの出来ないものであると云われています。音楽というものが単に聴いたり、歌ったり、演奏したりということだけでなく、それぞれに想い出や人生があり、愛と心があるからなのです。そして音楽をとおして、現実の世界から過去の追憶と、未来の希望を瞬時に思い起こさせてくれます。そして毎日を情熱を持って生きていく力を与えてくれると云っても過言ではありません。歌は誰れでも簡単に入ることの出来る、神秘の世界です。音楽は人間にとって自分の心であり体の一部と云えます。音楽の持つ素晴らしさを、ひとりでも多くの人々に伝えたい願いを込め各教室のご案内を致します。
なんだかなあ。

{!!)
長い長い情緒的な夢を幾つもみたが、大半を忘れてしまった。
ひとつ長い黒髪が不気味な太った醜い女性が出てきたのを
おぼえている。彼女は学生か研究者で、確かぼくは本を
見せて貰いに彼女の家に行って何かずるいことをしたのだ。

それと多額の金銭に関係した何かが夢のなかで起こった
ような気も。思い出せない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

閉店間際のいつもの時間帯(肉やラーメンなどが半額になって
いたりする)に近所のスーパーに行き、食材と米を買って
かえる。

昼間には、ある情景 ― 長いあいだ密かに待ち望んでいた
会話の最中に、相手にいきなり「あまり親しくなると、その人
に対して殺意を抱くので、あまり他人に近づかないようにして
るんですよ!」と告げる、という情景が脳内のどこかから
湧いて出てきて、それから注意を引き剥がすことができなく
なっていた。30分ほど熟睡したら ― コンピュータの調子
が悪いときに再起動してみるのと似た療法だろうか? ― 
目が醒めたときなんともイイ気分で。

うまい説明ではないが、感情や観念から不要な 重量 が減り、
知覚がスッキリしてきた、という印象だ、脳の隙間に詰まって
いた何かが取れて、神経の風通しが良くなった、というか。

そういえば一昨日東京に行ったときも、電車内でいつもの
情景が 自動的に湧いて出てきて消えない のに困らされた。
それはこんな情景。舞台上に、2人組の漫才師がいる。爆×
問題のような気もするが、定かではない(サルトルがいった
ように、想像的なイメージというのは観察を通じて規定を豊かにしていく
ことができないものなのだ)
。背がたかいほうが背の低い相方を
ドツイてぽんと頭をはたく。すると、その拍子に、はたかれた
方の目玉が眼窩から飛び出して、舞台上に落ちる。観客や
はたいた方が驚いて悲鳴を挙げる間もなく、2組目、3組目
と次から次に目玉が転げ出てきて、あれよあれよという間に
舞台は一面目玉の洪水になる。舞台も客席も目玉ですっかり
埋もれる。そこに浴衣姿の老人らの大群が突入してきて、
葡萄踏み の要領で一面の目玉を踏み潰し始める。観客らも
つられて 葡萄踏み を始める。少したつと、その 葡萄踏み
だんだん パラパラ 盆踊り のような様相を呈しはじめる。
「仕事きっちり。あっそーれ、仕事きっちり」という例の
CMのフレーズがどこからともなくエンドレスで流される。

数ヶ月前は、発端はこれと同じで、都市全体が目玉の海で
溢れかえるという情景がいきなり思い浮かんできて困った
ものだが。そういうときは、電車内で寝たふりをして神経
の回復をジット待ツ。

2000/10/08 地獄のような「試験の夢」

{!!)
 ひさびさにひどい不安恐怖夢をみてとび起きた。寝たのが深夜3時頃でいま時計をみると5時40分だから、3時間も寝られなかったことになる。なんともいえない厭な気分。だが、起きてすぐメモしたので、幾らか詳しく内容を覚えている。

《試験の夢》
 
 筆箱からまずシャープペンシル数本、次いで、答案はボールペンで書くようにという指定があるかもしれないからと思いなおしてボールペンを取り出して試験会場の自分の机に置く、というところから夢がはじまる。
 
 大学院の博士過程への進学試験らしい。夢の途中で、「これに落ちたら次はまた来年の3月まで1年間待たなければならない」と考えたため、時期は3月という設定になっているらしい。

 試験問題を実際に解いている場面の記憶はないが、いろいろな人が現われ、(試験中なのになぜか)その人たちに話し掛けられて会話することになる。生きている人もいれば誰だか見当もつかない人もいるが、全員どことなく幽霊のような気味の悪い印象を与える。

 まずはもといた研究室でぼくが選考していたのと同じ哲学者を専攻していた先輩のKさん。「この試験にはどうしても受からないといけないの?」と訊いてくる。言外に、そんなにしゃかりきにならなくてもいいんじゃないかという気遣いのようなものが感じられる。が、ぼくは「いやこれは絶対に、死んでも受からなければいけない試験なんですよ。これに落ちたら、来年3月まであと1年間待たないといけないんですから!」と憤然として言い返す。すると、Kさんは悲しそうな(或いは怒ったような)顔になって黙ってしまう。

 よく空間的な設定がわからないが、試験会場の自分の机のある列の後方に、T先生の研究室がある、という設定になっているようだ。試験中なのに、助手?なのか数名の大学院生たちが新しいパソコンを運び込んでいる。それをみながら、「古いパソコンをくれればいいのにな」と考える。

 鬱屈した様子で黙ってしまったKさんのご機嫌を取ろうと、「T先生の研究室にさっき新しいパソコンが入ったみたいですから、ご覧になったらどうですか!」と笑いながら話し掛けてみるが、Kさんは黙ったまま返事をしてくれない。試験中なのに私語をして悪かったかな、もしかしたら試験態度が悪いという理由で落とされるかもしれない、と考える。

 途中席を立つが、公衆電話?(トイレ?)のところで中年女性の試験官(髪が短くいかにも有能そうな感じ) ― これは誰だか特定できない ― と会い、その人から励まして貰う。「私は長年フリーで新聞社の仕事をしてきて、書いたものが(バトラーの)ぶ厚い全集2巻分になっているんですよ。朝×(新聞名)の日曜版をとらない一家がいるってきいていたけれど、頑張ってね!」 日曜版云々は、ぼくたち一家は経済的な理由でケチをして取らないのだが、この試験官はそれを何か反骨精神の現われだと思っていて、それで励ましてくれたらしい。(現実とは違う。そもそも日曜版だけとるかとらないか選択はできないはず。)

 試験を受けに自分の席に戻るが、今度は試験官や立会人(K先輩やT先生、さらに多数の試験とは関係ない人たちが立ち会って見物しているという状況らしい)たちが話をはじめる。(実際にはネット上でしか知らない)Mさんのことを話題にしている(話しているのはさきの中年女性の試験官で、Mさんの妹という設定らしい)。Mさんは先の総選挙で新しい某党から出馬して大統領になった。が実は彼は、家族の前では独り笑いをしたり奇妙な言動があり、それがひどくなる一方だったのだという。政治状況が混乱していたので、そういうMさんが人々の心を惹きつけ、本当に政権を取ってしまったのだ、ということが心配気に語られていた。それを聞いていて、「Mさんを知っています、インターネット上で知り合ったんです」と言おうとするが、知り合いは狂人だけだと試験官らに思われたらまずいかもしれない、と思い直してやめる。

 なぜかこの間試験問題を実際に解いてはいなかったらしい。試験に関係あるものもないものも、大量の書類や資料が机のうえに溢れていて、問題用紙や答案をみつけるのさえもひと苦労だ。ようやく問題用紙をみつけて読むと、もう試験時間の大半は過ぎてしまったのに、問題をとり違えていたことに気付き愕然とする。出願時に原稿用紙のような桝目がぎっしり1000字分詰った藁半紙?に書いた小論文を提出させられたということになっているようだが、受験者各自に自分が書いた小論文が返却され、それについて何かを述べる、という問題だったのだ。慌てて答案用紙を探すが、大学やら某新聞社やらの資料ばかりが出てきて肝腎の答案用紙がどうしても出てこない。(どういうわけか)螺旋階段を通っていけるどこかに置き忘れたらしい。それを取りに走る前か後かは覚えていないが、「助手の方、残り何分ですか!」と悲鳴をあげるように訊き、「残り1分」と聞こえたので「ええっ」と訊き返すと「残り10分」という答えが返ってくる。

 時間がどんどんなくなる、このままだと実際の答案 ― 自分が提出した小論文について何かを書く問題以外に、マークシート式?の問題(大学だか会社だかについて訊ねるもの?だったような気がする) ― を一行も書いていないから零点だ、と思って焦りはじめるが、書類の山を幾らひっくり返しても答案用紙が出てこない ― 或いはいざ書こうとしても腕が鉛のように重くて全然書けない ― というところで目が醒めた。最後のほうではもう駄目だと観念していたようだ。

{!!)
10月に入ってから、季節の変わり目 のせいか、ずっと具合が悪い。
今日などは、何回 神経の再起動 (= 単に仮眠)をしても調子が元に
戻らなくて困った。わずか数個の貧しい観念のあいだを堂々巡りして
行ったり来たり。下手の考え休むに似たり。 というか実際には休んで
いるより遥かに悪いのだ。強制終了/再起動を繰り返してるのと同じ
だから。電気ショックとか発作とかと同じように、気分の波が一巡する
ごとに脳細胞の数が減っている気がする。というかそう感じる。勿論
確認する術はないのだが。シュレーバーがいっている「女性神経」と同じ。

{!!)
# 首の後ろのほう(脊髄?)にとり憑いて離れない情景。

額のあたりに、500円玉をふた廻りほど大きくしたくらいのサイズの
穴をドリル?で開けられる。インカかどこかで出土した人骨に脳外科
手術を施された跡があった、というドキュメンタリ番組を何度か見た
のが影響しているのか。そこから勃起したペニスを挿入され、男が腰を
動かすたびごとに頭蓋の中身が攪拌される。揺れにしたがって、眼窩
から眼球が飛び出し、その空洞の眼窩や鼻の穴耳の穴 口の穴 などから
脳がリズミカルに吹き出る。

{!!)
というようなのが 脳糞トコロテン装置 の内実なのだが、この情景に
とり憑かれてからもう3年にもなる。神経が疲れると、「目本」とか
「よろこびの島」等々といった単語と一緒に、この情景が蘇ってきて
ほんの少し神経的な負担を軽減してくれる。ほんの少し だが。

2000/10/09

{!!)
《長い長い夢からの断片》

 もと編集者のOさんが本屋(大学生協?)に入っていき、そこに立てられている雑誌(ぼくとOさんが作ったものか?)のところに行く。

 雑誌の表題のところには『bird man』と記されており、その下には副題?のような感じで『駄目人間』と書いてある。Oさんはその『駄目』という部分にペンで線を引いて消し、下に『真』と書き加える。誰か(たち)を讃えて、彼らは『駄目人間』なんかじゃない、『真人間』だ、というための振る舞いらしい。

(その誰かたちというのは収監されている受刑者たちかもしれない。次の断片では刑務所が出てくるから。)

 独房内部の映像。四面暗いくすんだ感じの灰色の天井、壁、床。独房の右隅に、洋式便所がなぜか2つ並べて置いてある。2つあるのには何か重要な意味があったらしいのだがそれは忘れてしまった。2つ並んである右のほうの便所に丸坊主の受刑者(若い男?)がしゃがんでいる。がそこで病気が事故か、何かが起こったらしい。(それは出血を伴うものだったらしいが目覚めてから思い出そうとしても思い出せない。)

 次の場面は刑務所内にあるらしい広い風呂 ― 銭湯を思わせる ― だ。湯はくすんだ灰色で、濁っている。どういうわけか、独房内の便所に流されたものはこの浴槽?内に流れ込んでくることになっているらしい。窓があって、そこから学生服姿の中学生?が中を覗く。すると、湯の表面に白い精液?が浮いていて、それを湯のなかから現われた鰐?がぱくっと食べてしまう。

(この後どうなったのかわからない。中学生が驚いて通報するという流れだったような気もするが、思い出せない。先ほどの独房の受刑者に起きた事件・事故というのは、では便器から出現した鰐に食われてしまった、ということではなかっただろうか。とも思うのだが、やはり思い出せないので不確実。)

 また別の場面。誰か ― 誰なのかわからない ― が「野バトがカラスを駆除したらしいよ!」といっている。自分?は大学構内か或いは公園の近くを歩いている。すると道端の草地のあちこちに、銀色に光る手も足も無い細長い生物の死体が多数転がっている。公園?に沿ってぐるっと歩くが、その気味の悪い生物の死体 ― カラスには全然見えず、蛇か魚(太刀魚?)のような感じだった ― が幾つも幾つもまとまって散らばっている。(夢のなかでそれを踏んづけてしまうのではないかと心配していた気もするが、よくわからない。)

 車の中にいる。運転はゴンチャン(高校の部活での知り合い)で、自分は助手席?にいるらしい。後部座席には2人組の女性と柄の悪い中年男?がいる。彼らはヒッチハイク?で乗ってきたようだ。ゴンチャンが男らに、用事があるからそろそろ降りてくれと頼むと、中年男はいきなり拳銃を取り出してぼくたちに突きつけてくる。「友達が待ってるのは何時だったっけ?」とゴンチャンがぼくに訊いてくる。「8時」とぼくは答える。ゴンチャンは「オレは用事があるから駄目だが... 」(しかしぼくはその集まりに行かせてやりたい)と言うが、中年男は訊き入れてくれないようだ。

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 起きて簡単な食事をしたが、気分が悪くなってまた横になり、また長い夢をみた。こちらのほうはほとんど全部を忘れてしまったが、大きな駅?のガード下?にいたようだ。高田馬場駅に似ているが、違うような気もする。夢で何が起きたのかとても気になるが、思い出せない。

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 今年に入ってから、現在や将来のことを考える気にまったくならず、過去の一定の時点で可能だったかもしれない選択、或いはまったく別の(諸)人生のことしか考えることができない。何か積極的に関心をもつことができるものが、現実には何ひとつない。たまに少々元気が出たときには翻訳練習をしてみたりもするが、長続きしないし、成果も出ない。気分がどん底のときには、音楽や映画さえ気晴らしにならない。ただただ悲しみに沈むか、独りでいらいらしてばかりいる。

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 起きてまた寝るまでの数時間、夢の顕在的な内容とはとりあえず関係のないことがらに関して、激しい性欲にとらえられていた。脆い神経にかなりの負担を掛けるから苦しかったが、2度目の眠りから醒めたあとはかなり楽になっていた。例によって、神経の強制終了/再起動 だ。本質的な解決にはならないが。(しかし思い出せるかぎりでは2度目の眠りでみた長い長い夢にも性的な内容は含まれていなかったようだ。夢の検閲で削除されてしまったのか、或いは実際そういう内容の場面はまったくなかったのか。)

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 性的パートナーがいない若い男は普通、こういう状態に陥ると自慰によって性欲を解消するのだろうが、(r)es 家の場合、ぼくはもう学校に行っていない(他にもどこにも行かない)し、両親の仕事も減る一方なので、週の大半、ずっと家族で顔をつき合わせていることになるので、どうしても遠慮がちになり、禁欲を続ける結果になる。
 そのことは措いても、狭い家のなかで毎日毎日3人でにらめっこしているというのは、かなり息苦しい状況ではある。誰にも行くところがなく、外、他との繋がりも基本的に全然無いわけだから。チロチャンの存在だけが唯一の息抜きになっている。濃厚すぎる人間的感情に堪えがたくなってきた頃にちょうど、チロチャンが足をばたばたさせて食事やトイレ等をせがむので、数時間おきのそのリズムが (r)es 家の日常生活をかたちづくっている、とさえいえるほどだ。

2000/10/10

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《長い夢の断片》

*場面1

 九州の祖母のところへ新幹線?で向かっている。いまは午前10時だが、向こうに着くのは午後8時、12時間も座席に座りっぱなしだと尻が痛くなるんじゃないか、と考える。バアチャンを預かっている親戚のところに独りで行くのは心が重い、とも考える。

(実際に祖母 ― 現実にはもう何年も前に亡くなっている ― と夢のなかで会ったのかどうかは不明。)

*場面2

 朝?のトイレのために、チロチャンのからだを横から抱えあげて薄暗くて人気のない二和の商店街?を走っている。チロチャンが軽い、というか抱えていてもあまり重さを感じず、老衰で痩せてきたのではと不安に感じる。

 チロチャンにトイレをさせる場所(駅近くの公園?)で、女性(AさんかHさん)と待ち合わせている。駅に向かう途中、通りの左側に一件飲食店?があり、みるとなぜか人がいっぱいいて賑わっているが、町の人たちにみつかると嘲弄されるかもしれないと思いその前を足早に通り過ぎる。駅のところまで来ても待ち合わせの相手は見当たらない。次の駅、或いは前の駅などまで歩いて探そうか、とも考えて歩き出し掛けるが、相手はこの駅しか知らないはずだから行き違いになると考えてやめる。その後、人で賑わっている飲食店に入っていったらしい。

(店内でAさんないしHさんと会えたのかどうかは不明。)

*場面3

 場面2で出てきた飲食店の店内?
 薄く古ぼけた感じの雑誌のバックナンバーが揃っている。映画専攻の院生が、「いい雑誌だが、完全にしたい」と言い、背のところに出典?を記して再刊?する。

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 昨晩父母は泥酔して深夜まで罵りあっていて、起きてきたとき母は風邪をひいて喉が痛いと訴えた。では『どん兵衛』を3人で食べるというのはどう? と僕が提案し、皆に受け入れられた。湯を沸かしているうちに、これだけだと幾らなんでも食卓が淋しいと感じて、ピーマンを刻んでバターライスを作ることにした。また一昨日の夕食の残りの水餃子を温めてそれも出した。

 バターライスは味が薄すぎ、水餃子はすっぱい変な味がし、インスタントのうどんには吐き気を催した。が、作った僕以外は皆喜んで食べていた。父母のみならず、チロチャンも。

 喉が痛いなら煙草を吸わなければいいのに、と思うが、(r)es 家のものには合理的思考が欠けているので仕方がない、と諦めながら眺めていた。6ヶ月間以上放置することだけが助かる途なんですよ。

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 「ネット外現実」「ネット内現実」というようにしているが、それなら「(悪)夢外現実」「(悪)夢内現実」というべきではないか、とふと思った。どっちもたいして変わらないのではないか。

{!!)
 生活を改善しようと思って、オレンジジュースを一気飲みしたあと晩の8時半に寝床に就いたが、11時に目が醒めてしまった。

元気ですかー?