途切れた神話 mythe interrompu の共同体、いいかえればある意味で共同体なき共同体、或いは共同体なき共産主義、これが私たちの目的地 notre destination である。つまり、私たちは、自分らに最も相応しい将来としてあるそのような共同体(ないし共産主義)へと、召喚され追いやられているのだ。しかし、それは《将来》ではない。接近、成熟、獲得の期限や方向性に沿って成就間近(待機中)の en instance d'accomplissement 究極的 = 最終的現実ではないのだ。というのもこの場合、その現実というのは ― その理念の効力と同様に ― 神話的なものだろうから。実は私はナンシー教授の邦訳書を読んで少しでも理解できたのは、西谷訳『無為の共同体』だけ(原著者が悪いのか訳者が悪いのか読者の私が悪いのかはともかく、『エゴ・スム』とか『共同−体』とか全く理解不能だった)。それで、この同じ著作の増補版に入っている文章を手掛かりにしていけるかと思ったんだけれども... 。なかなかそういうわけにもいかないようです。
共同体なき共同体は、それが常に、絶え間なく、あらゆる集団の内に来ている(生じている)という意味で、来るべきものである(共同体が集団に対しても個人に対しても終わり = 目的なしに抵抗するのは、そこに共同体が絶え間なく来る(生じる)からである)。共同体は、共に顕れること(出頭;召喚) la comparution の限界に、そこで私たちが実際に召喚され、呼び出され、追いやられる ― 且つ、そこへと私たちが召喚され、呼び出され、追いやられる ― この限界に来る(生じる)もの以外ではない。[Jean-Luc Nancy, La communauté désœuvrée, C. Bourgois, p.177]
いまだ到来していないものを前もって指示して par provision 私が《文学的共産主義》と呼んだものが、ここにある。このことを通じて理解されるべきであろうことは、私たちがもちあわせている《共産主義》や《文学》の理念とは最終的には一致しない。そんなわけで、 《文学的共産主義》は挑発・扇動 provocation によってしか名づけられない ― といってもこのような名づけは、一方で共産主義及び共産主義者たち、他方で文学及び作家たちが私たちの歴史のひとつの時代のためにハッキリ表明することになろう事柄に対して払うべき敬意を棄てはしないが。
実際、共同体の語り = 結構 une articulation de la communauté が問題である。《語り = 結構》というのは、一定の仕方で、《書くこと/書かれたもの écriture》を意味している。つまり、その超越ないし臨在(現在)が果てしなく且つ構成的に延期されているようなひとつの意味の刻み込みを。《共同体》というのは、一定の仕方で、その内在が自らの死の働きでなければ不可能であるような総体としての存在(者)の臨在 présence d'un être-ensemble dont l'immanence est impossible sauf à être son œuvre de mort を意味している。そのことは、文芸も意思疎通(コミュニケーション)も《文学的共産主義》の二重の要求、つまり言葉なき sans parole 内在及び〈言葉 un Verbe〉の超越に同時に挑戦するという要求にこたえることはできない、ということを前提している。
文学的共産主義というこの要求があるのは、 ― 常に無為 désœuvrée でいかなる集団性の只中でもどんな個人の胸中でも持ち堪えている résiste ような ― 共同体があるから、 ― 常に宙吊りにされ、それに固有な言表行為によって分割されている ― 神話が途切れたからである。つまり、(諸々の)声の分け持ちや分節化 = 語りの思考や実践があるからである。このことを通じ、共に晒されない特異性(単独性)はなく、(諸)特異性の限界に差し出されない共同体はない、ということになる。 par laquelle il n'y a de singularité qu'exposée en commun, et de communauté qu'offerte à la limite des singularités.
このことは社会性の特定のありようを規定せず、政治(政策)を基礎づけ = 根拠づけもしない ― 万一政治が《基礎づけ = 根拠づけられ》うるとしてさえも。だがそれは、少なくとも、あらゆる政治(政策)がそこで停止かつ開始する、ひとつの限界を定める。この限界上で生じ、本当のことをいえばこの限界を構成している意思疎通 La communication は、私たちがひとつの政治(政策)を求めるさい、共に(何かに)なろうと志すこと cette façon de se destiner en commun 、共同体をそれ自身に、或いは寧ろひとつの運命ないし将来に開くことを要求する。《文学的共産主義》は少なくとも以下のことを意味する。共同体を完成し = それに止めを刺すことを望む一切事に対する果てしない抵抗のうちで、共同体が抑えられぬ政治的要求を表明する、ということ。次いでその政治的要求が《文学》に関わる何か、私たちの果てしない抵抗の刻み込み l'inscription を要求する、ということ。
それは、ひとつの政治(政策)もひとつの文書 écriture も定義しない。というのも、その反対に、政治的・美学的・哲学的な定義や綱領 programme に抵抗する物事を参照するからだ。つまり、それ(=文学的共産主義)はあらゆる《政治(政策)》、あらゆる《文書》に順応しない。それは、私たちが発案するというよりも ― 共同体の根底(本性)からして ― 私たちの先を越している《文学的共産主義的》抵抗の味方をするように指示する。このことを知ろうと望まない政治(政策)は神話(学)か経済(学)である。このことを語らない文学は、娯楽か嘘である。
私はここで話を中断しなければならない。誰も、いかなる主体も語れない事柄、私たちを共に晒す nous expose en commun 事柄を考える se dire のを、君に委ねることにして。[pp.196-198])
ところで、Uさんが考えた『引きこもり当事者のLETS』を始めようとしているグループがもうひとつあります。ニュースタート事務局東京本部の仲間たちで、千葉県市川市の行徳というところで、まもなく『福祉コンビニ』(実際に閉店してしまったコンビニエンスストアを借りて)をオープンさせようとしています。引きこもりから立ち直った若者たちが、介護労働や環境運動への参加やさまざまな社会参加を始めているのですが、この『福祉コンビニ』でも、老人介護のディサービスのみならず、さまざまな地域福祉のニーズに対応していこうとしており、しかもそこでLETSを導入し、日銀券(貨幣)のいらない社会を実現しようとしています。確かこのサイトはリンクを辿って3度くらいみていたはずだが、なぜか完全に見落としていた。フロイト流のしくじり行為かな。
ここで思い出すのは、1954年にJ・ラカンが古沢平作に送った手紙である。その当時、ラカンはフランスの精神分析の学会から孤立していた。そのためか、世界各国の自分の考えに共鳴する友に呼びかけを送ったと思われるふしがある。その便りの中で彼はこう語っている。これは手紙の文面そのままではなく、小此木氏による要約らしいが、原文はどこかに残っていないんだろうか。
「あなた方日本人のように、東洋的な無我の思想の中で暮らしている人々には、私の考えがよく理解できるのではないか。いまやフランスの精神分析は自我心理学者たちによって大きく歪められている。お互いに密接に関連し合う絆から切り離された、個々の自我が精神分析の基本になってしまった。特にこの傾向は米国の精神分析に著しい。自分はこの動向に対して断固として闘う。仏教的な背景を持ち、むしろ自我を超えた因縁因果の絆に目を向ける伝統を持ったあなた方との連帯を期待する……」。
概要このような要旨の手紙であった(この仏文の手紙は当時の慶応大学精神科の三浦岱栄教授が邦訳された)。
「従軍慰安婦」の演題ダメ 横浜の講演会 区役所が指導 主催者、中止恐れ受け入れソンナ区役所ハ解体、担当係ラ責任者諸氏ハ革命的宮刑ニ処シ、切除サレタ肉片ハ、犠牲者ラノ墓ノ前ニ小山ノヨウニ積ミアゲル可シ、という何か不透明な雲のような言葉が、脳のちょっと裂けた辺りのからとめどもなく湧いてきて ― 去勢して切り取った性器を墓の前に積み上げて云々というあたりは図書館で立ち読みした『あぶない世界史』とかいう文庫本の中世篇の怪しげな記述に影響されているようだ ― 、その言葉雲を辿っていって、まず右翼ヘイトへと想念が飛んだ。次いで、その想念の暴力的な調子を弁明するように、「かく言う私も実は右翼かもしれず、集団自決に加わるべきかもしれないねー」という想念が浮かんだ(右翼から脅迫・恫喝の電話が掛かるという空想が無意志的・自動的に生じ、それへの応答としてこの言い訳が自動的に呈出されたようだ)。なぜか(ここは本当にどうしてだか自分でもよくわからないのだが)、「(自分も実は右翼だというのは)中谷美紀ファンだからだ」という想念が生じ、そこから何年もの間怪訝に感じている『ハルモニア』に連想が飛び、次いでいつもながらの「**********ドラえもん」の強迫観念とそれが結びついた、ということのようだ。
タイトルから「従軍慰安婦」という言葉をはずす。チラシにある「戦争責任」「強制連行」も削除 ― 。従軍慰安婦問題をテーマに横浜市内で30日開かれた講演会に対して、同市旭区役所が事前にこんな指導をしていたことが分かった。
講演会は同区の委託事業の1つで、横浜市の市民団体「ジェンダーフリーの会」が主催。女性問題をテーマに同会が7月から始めた連続講座の最終回で、講座全体が旭区の生涯学習事業に認められ、「委託」という形で10万円の事業費が支給されている。
最終回は東京経済大学講師の徐京植(ソキョンシク)さん(49)が「従軍慰安婦問題、戦争責任と性暴力について」というテーマで講演することが4月に企画書を出した時点で決まっていた。
ところが、同会が8月にチラシを作ったところ、区の担当係から「この問題は市民の議論が分かれている」として、突然中止を求められた。
交渉の末、区側は開催を認めるかわりに、講演会のタイトルとチラシの内容について変更を指示。タイトルは最終的に「総合的ジェンダーフリーの学習を目指して」に変えさせられた。チラシからは「戦争責任」などの言葉が削除させられた。チラシの配布先も、これまでの講座の受講者だけにすることを約束させられたという。
同会の安本節子代表(54)は「不本意だったが、中止に追い込まれる恐れもあり、受け入れざるを得なかった」と話している。区役所は「公の事業である以上、市民の間で意見が分かれるようなテーマを扱うのはふさわしくないと判断した」としている。
講演会は30日、予定通り開かれ、約40人が参加した。
想像の赤ん坊 bébé imaginaire としての阿闍世もう1箇所、ガンザーレインという精神分析家による阿闍世批判。同書、109−112頁から引用。
阿闍世コンプレックス論は、涅槃経や観無量寿経、その他の仏典に載っている阿闍世の物語に由来している。ただし、わが国の古沢平作は諸仏典における父親と息子の話を母親と息子の話につくりかえて、古沢版阿闍世物語をつくった。この点について、原典との照合をめぐっての仏教学者の方々からの批判があるが、むしろ古沢がこの話を父と息子の話から母と息子の話に変換したこと自体の意味を敢えて評価することによって、母親の子どもを持つことをめぐる葛藤をあらわすテーマの物語として、ここでは用いることにしたい(小此木啓吾「古沢版阿闍世物語の出典とその再構成過程」、小此木『日本人の阿闍世コンプレックス』中公文庫、1981年)。
阿闍世の母は、容色衰え、王妃の座に不安を感じて、子供をほしいと思った。そこで予言者に尋ねると、森の仙人が3年後に生まれ変わって、あなたの胎内に身ごもると言われた。不安のあまり3年待つことのできなかった王妃は、その仙人を殺してしまう。殺された仙人は死ぬときに、「おまえの息子になって不幸災厄をもたらし、おまえの夫(父親)を殺す」と言って息絶える。そして、その直後に身ごもったのが阿闍世なのだが、母親はその話を聞いて、今度は胎内の子供のことが恐ろしくなってしまう。生まれてきたらどんな恐ろしい災いが起こるかわからない。そして今度は、堕ろそうと思ったり、産むときにも、高い塔の上から産み落として殺そうとしたりする。
そして、この話を青年期になって聞いた阿闍世が、父を幽閉し、母を殺そうとするというのが阿闍世の物語である。そして、このとき阿闍世が自分の出生の由来について抱いた恨みを未生怨という。未生怨は、自己の成り立ち、ひいては自分の誕生以前にその父母の世界ですぐで作り上げられる、想像の赤ん坊 bébé imaginaire としての自分に対する恨みが無意識のうちに抱かれている。(後略)
ガンザーレインの阿闍世批判 ― 罪意識の共有と混沌ぼくは阿闍世コンプレックスそれ自体にはあまり興味がもてないが、ガンザーレイン氏の批判にはこの個別の問題の枠をこえて一般的な意味があると思う。 Tamalunch Factory No Future 内「決闘場」の第5特別試合及び第10試合で議論されている「自称AC」(AC = adult children)の一件に、この怨念の問題が関連している、というのが最初の感想。
私の友人で、米国アトランタ市在住の精神分析学者R・ガンザーレイン ― 彼はもともとはチリ出身で、精神分析学者なのに、珍しくユダヤ人ではなくキリスト教徒である ― が、阿闍世コンプレックスにおける罪悪感について批判的な論文を書いている。そこで彼は阿闍世論に含まれる罪悪感に対する防衛規制として次のものを指摘している(R・ガンザーレイン、小此木啓吾訳「阿闍世コンプレックスに生まれる種々の罪悪感」、「精神分析研究」第32巻第2号、1988年)。
第1は、罪悪感の共有(sharing) ― だれか他人と自分の罪を共有することによって、自分の責任に免罪を与える。例えば阿闍世をお釈迦様が救うときに、お釈迦様自身がこう語っている。
実は阿闍世の父を王様にしたのは私だ。そのことを妬んだ提婆達多が阿闍世をそそのかしたから、阿闍世はあのような母親殺しの衝動にかられた。しかし、どうして提婆達多がそのような悪い心を起こしたかといえば、遡れば私(お釈迦様)自身に対するかつての嫉妬に由来している。
なぜならば、自分がお釈迦様になる前に王子であった時代に、ある女性を提婆達多と私は争って、彼女を妻にした。そのときの嫉妬と私に対する恨みが積もっていて、私に教えを請う阿闍世の一家を不幸にしようと企んで、阿闍世に対する悪の囁きに及んだのだ。
つまり、阿闍世が母親殺しの衝動にかられた因縁因果をたどっていくならば、悟りを開く以前のお釈迦様自身の女性に対する愛欲の煩悩にさかのぼることができる。
このような因縁因果を語ることによって、お釈迦様は阿闍世の母、そしてまた、阿闍世自身の罪に対して救済を与える。仏教の因縁因果観から言えば、だれか個々の人間の責任として罪と罰を限定することは、自我というものの存在にとらわれることである。そのような我執にとらわれること自体が迷いである。このことについての悟りを開くことが罪を超えることにもなるという思想がその背景にある。
自己の怒り・罪意識の正当化
しかし、ガンザーレインから見ると、この思想は、罪の意識を否認したり、正当化したり、他人のせいにする合理づけの防衛に使われる一つの典型的なパターンである。罪悪感の正当化、ないし合理づけによる否認が、阿闍世の物語には随所に見られる。
さらに突き詰めると、この仏教的な世界は、ガンザーレインから見ると、混乱(confusion)の世界である。最後には誰も悪い人はいないのに、罪だけが起こっている。しかし、それはだれのせいかわからない。誰を非難していいかといっても、非難すべき相手はいない。つまり、この世界は、個々の個別性や人格の主体性、自我の境界が打ち消された混乱混沌とした状態だと彼は体験してしまう。
キリスト者である彼のこの率直な感性からの発言は、私にそれなりの異文化ショックを起こした。罪悪感に対する心的な防衛規制などの問題になると、仏教徒の阿闍世物語に対する感覚と、キリスト教徒であるガンザーレインの解釈との間の、日常的な生活感情の違いが大いにクローズアップされる。このガンザーレインが批判する罪の救いの話を、比較的安易に理想化して肯定してしまうような、あるいは自我親和的に受け取る心情が、私の心の中に潜んでいることが改めて自覚されたからである。
そして、この観点からさらにガンザーレインは言う。その意味では未生怨という概念そのものが問題だ。例えば阿闍世物語では、阿闍世が母を殺そうとしたのは、その出生の由来を聞いて怒ったためだという。阿闍世を身ごもる時点で、すでに母親の心の中に子殺しの衝動があった。その子殺しの衝動が伝達されて、今度は阿闍世の未生怨となって、母殺しの形であらわれてくるというのが、輪廻の比喩による阿闍世物語である。しかし、阿闍世の主体的な自我に沿って精神分析的に考えてみると、この出産の由来をめぐる物語が母親からの分離の過程で抱く母に対する憎しみや怒りを正当化する格好の合理づけに使われるというのがガンザーレインの指摘である。
つまり、そのような話を聞かなくても、思春期の少年少女は母親離れの過程で、母に対して激しい分離不安や怒りを向ける。そのような思春期の精神状態にとって阿闍世論は、悪いのは、自分をこの世に生み出した母親である。母親の側における、自分を身ごもったり、生んだりするときのエゴイズムである。だから自分が母親を攻撃しても恨んでも当然だ。自分は悪くないという合理づけを助ける。さらに遡れば、「なぜ僕を生んだのか」と言いつのって父母を責めたてる家庭内暴力少年の、父母の性的な結合そのものに対する羨望とそれに発する怒りをも正当化する。「こういう生み方をした母が悪い」という理屈づけによって、自分自身の内面に潜む自己の破壊的な衝動を直視する代わりに、阿闍世論はむしろその衝動を外在化して周囲に投影して合理づける助けになってしまう。阿闍世物語では、思春期の少年少女がそのような没主体的態度になることを勧めるのではないかというのが、ガンザーレインの厳しい指摘である。しかし、このガンザーレインの考えは、必ずしもガンザーレイン特有のものではなく、おそらく欧米の精神分析家であれば同じ理解と意見を抱くのが当然である。
音楽と人間の出会い、それは遠い昔からいつの時代でも私たちの生活に欠かすことの出来ないものであると云われています。音楽というものが単に聴いたり、歌ったり、演奏したりということだけでなく、それぞれに想い出や人生があり、愛と心があるからなのです。そして音楽をとおして、現実の世界から過去の追憶と、未来の希望を瞬時に思い起こさせてくれます。そして毎日を情熱を持って生きていく力を与えてくれると云っても過言ではありません。歌は誰れでも簡単に入ることの出来る、神秘の世界です。音楽は人間にとって自分の心であり体の一部と云えます。音楽の持つ素晴らしさを、ひとりでも多くの人々に伝えたい願いを込め各教室のご案内を致します。なんだかなあ。