『フロイト著作集6』(人文書院)に収められた『制止、症状、不安』(井村恒郎訳)より。
私はおよそ世界観の製造などを心がけてはいない。そういうことは哲学者にまかせるがよい。疑いもなく哲学者というものは、あらゆる事情が書きしるしてある旅行案内をもたないと、人生の旅行ができないのである。彼らはその高級な貧困の立場から、軽蔑をもってわれわれを見下すにしても、われわれはあまんじてそれをうけよう。われわれに自己愛的な傲慢があるのは否定できないにしても、自ら慰めて、こう言いたい。これら「人生の指導者」どもは、いくばくもなく、すべて古ぼけてしまうのであって、その旅行案内の再版を余儀なくさせるのは、まさにわれわれの近視眼的にせばめられたささやかな仕事であり、彼らの最新版の旅行案内さえも、もとは、昔の便利で完全な教義問答 Katechismus に代わろうとしているにすぎないおだ。科学が今日まで、世界の謎に光明をあたえることが、どんなに少なかったかは、われわれとてもよく承知している。だが、哲学者のあらゆる騒音は事態を変えはしないこと、確実性を唯一の信条として追求していく忍耐づよい研究の続行だけが、徐々に変革をもたらすこと、これもわれわれはよく知っている。暗闇をさまよう者は、歌をうたってその不安をうちけそうとするが、だからといって、すこしでも明るく見えてくるわけではない。(326−327頁)
フロイトが自分で思っているような経験科学者であるかどうかという点については議論があるけれども、世界観 = 「旅行案内」を再版しつづける「人生の指導者」への批判は鋭い。「旅行案内」を地図 carte と読み、暗闇のなかでの「歌」を ritournelle と読むと・・・。
もう1箇所。
他の症状形態、たとえば強迫神経症やパラノイアの症状は、自我にとって高い価値をもつ。それは症状が自我に利益をあたえるからではなくて、ふだんはめぐまれないような自己愛的な満足をもたらすからである。強迫神経症者の特有な症状の展開は、自分が他人よりもとくに潔癖で良心的な人間なのだというみせかけによって、その自体愛にこびる。また、パラノイアの妄想形成は、患者の鋭い感覚と空想に活動の分野をあたえ、それはほかのものではたやすくはかえられないのである。以上にのべた、あらゆる事情から、神経症の(二次的) 疾病利得 といわれるものが生ずる。この利得が症状を同化しようとする自我の努力を助け、症状の固定をはやめる。われわれが分析によって、自我の症状にたいする闘いを助けようとするとき、自我と症状との妥協的な結びつきが、抵抗としてはたらくことを見出す。この結合をとくことは容易にはできない。(329頁)
*
今朝の夢見
全校集会。特定できない場所に入っていくと、生徒たちが扇形に整列している。1組、2組... といったクラスのほかに他の分類の集団もあったようだ。私は1組に属しているが、他のクラスはほぼ全員が集まっているのに、1組はほとんど人が来ていない。他のクラスの担任(学年主任?)のT先生に「呼んできましょうか?」と訊く。T先生は、「そうした方がいいと思うなら、そうしなさい」と答える。
また別の先生、S先生 ― 小柄で無口で地味な感じの、総体的に蛇のような印象をあたえる女性 ― が出てくるがこのあたりはどうなっていたかよくわからない。この先生が学校の規律・統制にはあまり熱心でなく、私的生活を大事にしていた、というようなエピソードが(夢のなかで)喚起されていたような気もするが。
私はどういうわけか、高いところに昇って棚ないし押し入れから本を取ろうとする。数学について調べなければならないのだが、なぜかゲームブックなどを取り出して積み上げる。
今朝の夢見
場面1
(夜)道を歩いていると、見覚えのない老人に出会い話しかけられる。その老人は、管理マンさんの師匠なのだという。管理マンさんが勤務している病院まで案内してほしい、といわれ、歩いてきた道を引き返し、病院建物に行く。
ここから記憶が不鮮明なのだが、どうも建物の7階?に神経内科?といっしょに精神科が入っていたらしい。受付?の女性から身分証の提示をもとめられて困ったような気がする。
もちろん私は実際の管理マンさんには面識がないが、この夢では、眼鏡を掛けた白衣の若い男性という姿で出てきたような気がする。どういう文脈で出てきたのかはよくわからないが。
場面2
何かの会合。柄の悪い老人(見覚えなし)と将棋を指してこてんぱんに負ける。老人は、最新の将棋の戦法の解説本を読んで勉強しろと忠告する。香車を含め最底辺のすべての駒を上げ、底辺を飛車を滑らせるのだという。私は、「でも王(玉)が上にあがって露出してしまいますよね」といったかもしれない。
この会合では見覚えのない人たちばかりが出てきて、そのなかに、30代くらいの痩せた男がいる。彼は「ホームズ」と呼ばれているらしい。(そういえばNHKでたまに放映されるホームズのテレビドラマの主演俳優に趣きが似ているかも)。
会合の後、その「ホームズ」ともうひとりの中年男(助手?)が予告通り大量殺人を犯したという報せを聞く、という場面があったような気がするが、よく覚えていない。
目覚めるときに何か非常に恐ろしい場面か苦痛な場面があったような気もするが、忘れてしまったし、これはそのままにしておこうと思う。それにしても、場面1でも場面2でも知らない人たち(そして自分よりも年齢層の高い人たち)ばかりが出てきたのはなぜだろう。それに将棋ももう何年も指していない ― 熱心にやっていたのは小学生の頃までだった。子どものころに一度九州から四国まで船旅をしたことがあったが、そのとき、客室で見知らぬおじさんと将棋を指して負けてしまったこと、6、7年前二和向台に越してきて、近所の寿司屋のおやじさんと将棋を指してやはり手もなく負けたことを思い出す。
*
テレ東で『サイコ』をみる。あまりにもテレビで何度もみてしまったせいか、世にいわれるほどの傑作か、果たしてそんなに怖いのか、と疑問をもっていたけれども、今回はかなり感銘を受けた。はじめのほうの有名なシャワールームでの殺人の場面よりも、ラスト近くの母のミイラ化した死体の空の眼窩の大写しのほうに重点があるとわかった。以前から、シャワールームの場面での包丁の動きの機械的な印象、平坦な感じが興ざめだと思っていたが、あれは『鳥』で最初ボート上のメラニーがカモメに襲われる場面と同じ前ふりの意味を担うもので、そのようなものとしてみれば素晴らしい。『鳥』でも真の恐怖は、目玉をついばまれた農夫の死骸の顔面の大写しの場面以降に始まる。『サイコ』も本当に怖いと感じられるのは母親のミイラ化した遺骸の大写し、およびその直後の女装したノーマンによる襲撃の場面ではないか。
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以前も似たようなことがあったが、私(S津正(気))の「分身」を名乗る悪意のある人物が、何か不可解な仕方で重要な伝言を託してきた。その人物は、「S津狂(気)」と名乗っている。恐らく、十数年前、生涯忘れることができないあの現実 = 悪夢のなかで、煙 = 顔として天井に浮かびあがりながら、「悪いことをしろ、悪いことをしろ」と語り掛けてきた存在体の変容態のひとつであろう。他のときにはこれは「目が3つクン」と名乗り、また他のときには「両手両足を切断されて脳糞トコロテン装置に掛けられたドラえもん」などと名乗っていたが、総合的にいうならば、この黒ぐろと暗い闇の存在体は、まさしく、私自身と同一なのであって、他として斥けるべき別のものではない(「魂−の−臓腑」と呼ばれるべき一種の消化 = 昇華器官なのであろう)。これから繰り返し発せられる一種の呼び掛けは、私と分身とが何か常識では予想もつかないような奇想天外な手段を用いて、瞬時にして「入れ替わる」べきだということを強く暗示しているのである。ところが、私はその呼び掛けに応じるつもりがない。かつて体験したことでいえば、五体満足で健全な精神をもっているはずだと想定されていた全裸の青年が、何らの現実的理由もなく自分の性器を切断し、次いでごく自然に起こった身体破裂を経て、ばらばらの肉片と化して空中に浮かび上がりつつ、目が3つある中年の探偵に向かって「さあ あなたもどうぞ」と心身破裂への誘いを掛けたのに対し、その目が3つある中年探偵はその誘いを無視して、眼前に広がる異様な光景に背を向け、謎めいた童謡「そぉーれ いいこだ 豆やるぞぉー」を歌いながら去っていく、といった場面と類似した状況だといえるだろう。
大学病院や大病院に勤務して地位と収入を確立する医師もいれば、独立して開業する医師もいるように、君も自宅前の文字通り《ガラス張りで外から丸見えの》事務所と称されている小さな場所で、開業すれば良いのではないのか。すなわち、投機に専念するトンデモ哲学者 nutty or nasty philosopher および気違い分析家(魂の分解者)の看板を掲げれば良いのではないのか。君は長い間、密かに自分で自分を養成しようと無駄な努力を繰り返すことしかしてこなかった ― 公共的な圏域から遠ざかることしかしてこなかった ― ではないか。実際、何人もから「君は(将来)何をやりたいのか」と訊ねられ、決して真実の重要なことを答えることができなかったではないか。もちろん、君は上述の2つのものに ― 自分で自分に資格付与するといった自己閉鎖的な循環のうちで ― なることしか考えていなかったのだが、そのことを、他人(たち)に、「社会に通じる言葉」と称される無意味な染みの連なりで説明することがどうしてもできなかったからだ。君は困惑し、逃げを打つような曖昧な返答に終始し、そのことによって、思惑に反して不審の念を抱かれざるを得ないと誰かから思われたに違いないのだ。
自分なりに構想中の『気違い分析(魂の分解)』とは以下のようなものだ ― 60分なり90分なりの制限時間内で、私が彼(女)(つまり、客)の考えや感情を盗むか、或いは逆に彼(女)が私の考えや感情を盗む。競技試合の終わりごとに勝ちと負けを相殺し、負けが込んでいたほうが相手に料金を支払う。支払いに関して最終的に見解の一致をみない場合には、「殺し合い」までやるべきだという点で双方に合意があるのでなければならない。この最後の規則は、(偽)父が口癖のように繰り返していたものだ ― 「最後には、殺し合いをやりゃあいいんだ!」。当時私は、それを極端な意見だと考えていたが、私のほうが間違っていた。世間の多くの家庭において、実際にこの規則に基いて殺し合いが行われている、ということは、報道や伝聞などを通じて、いまやまったく真実だとわかった。もちろん我々の貧しい家庭において、実際に殺し合いが行われているわけではなく、恐らくはそのような最終的解決が実行に移される前に、家族成員の皆が何らかの奇蹟を通じて消え去る ― 昇天するのではないかと思われているのだが。
このような相互窃盗に基く分解作業の貫徹は、「人間関係の基盤は誤解と欺瞞である」と堅く信じてやまない私には完全に相応しい作業であろうが、残念なことに現在の公認の制度の枠内にはそういう分類枠は形式上存在していないし、また、他人の考えや感情を盗むということ自体、現実性を疑われても仕方がないことだと誰かが考えるかもしれないことを前もって想定しておくのが望ましいこととして要請されるかもしれないことを顧慮すべきだろうか。しかし、窃盗は可能であり、現実に生じている事態であり、体験に属する事項である。実際ある存在体が私の秘密を盗み、それを不特定多数の他の悪意ある存在体に向けて、晒しものにしたのだ。それを発見したのは1週間も前のことだが、私は対応に苦慮し、今になるまで黙っていた。その存在体は、卑怯にも、『女性性器−の−魂』を名乗っているが、実際にその存在体が女性であるかどうかは、その存在体の生殖器を実地検査するのでないなら、決して明らかにはならないだろう。というか、そのような実地検査を通じてさえも、明らかにはならないのだ。なぜなら、あらゆる類いの見せかけが可能だし、種々の事例が実証する通り、外的生殖器は単に蓋然的で偶然的な徴しでしかないからである。
この1週間ほど、息を潜めていた。誰か数人の特定可能な存在体が、人の秘密を盗んで侮辱するというやり方でおおっぴらに私に打撃を与えている、とわかったからだ。あまりにも秘密を露わにし過ぎている自分が悪いのではないか、と咎める向きもあるかもしれないが、それは違う。その存在体 ― 彼ないし彼(女) ― は、私がここで一度も公開したことのない秘密、幼時からの習慣を何らかの神秘的で意味不明な方法で察知し・確信犯的な悪意をもって晒しものにしたのだから。その秘密の習慣とは、冬が近づくと、中年か老年の男性のように、股引・腹巻・綿入れを着込んで過ごすという習慣である。(その性別不明の悪意のある存在体は、またしてもこれを衣装として嘲笑することだろうが、そんなことはお構いなしに、まるで地獄の試練ででもあるかのようにある種の悪意のある存在体には感受されざるを得ないであろうことを申し述べれば)誰か昔の挫折した左翼の理論家が述べたように、フクロウのように着膨れるのだ。この習慣が人々から奇異な目でみられ、かつ、人前で脱衣せねばならないかもしれない状況に陥る可能性があるある特定の状況に身を晒そうとするならば決定的に不利な条件であるらしいことを私が知ったのは、つい数年前(22歳頃)のことだった。私はこの習慣を捨てようと試みた ― 股引なしで過ごそうと何度か試してみた。その結果は、高熱を伴う悪性の流感だった。以後、私はたんに諦めることにした ― 習慣を捨てるということは、服を取り替えるようにはうまくいかない。皮膚や肉を引き剥がすような苦痛を伴う作業であって、私にはできない。別の体質をもって生まれ直すのでないなら、フクロウの真似をせずに済ますことはできないであろうことが誰かによって予想されるべきなのだ。
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「S津狂(気)」氏が発言し出すとひどく神経が消耗するから、彼(女)には黙ってもらうことにしたい。私は決して薬物を用いないので、万人向きの処方ではないが、いつもの通り「私は正(気)、私は正(気)」と唱えることにする。
予想通り『サイコ3』は最悪だったが、夕方からの『荒武者キートン』で救われた気分。
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ここ3日間、『サイコ』『サイコ2』『サイコ3』とたて続けにみてしまったのが、明らかに影響している。前にも書いたけれども、高校生のころ古本屋で植草甚一のエッセイを読んだことがあった。そこで『きちがい』とかいうそのものずばりの題名の小説が紹介されていて、それが『サイコ』の原作の短篇だった。作者は誰か忘れたけれども、イギリスの怪奇小説家。『サイコ』を訳すと『きちがい』になってしまうのだ ― しかし、表現を穏当にということで、現題の音をそのまま示すことになったのだろう(これも前に書いたが「スキゾ分析」とかいう訳語のも同様の配慮?からではないか)、と考え、それは随分中途半端で欺瞞的なやり方だと思った。そういう連想、および『サイコ2』のとんでもない内容 ― 退院して社会復帰しようとしたノーマン・ベイツに被害者の遺族の母娘が共謀して心理的圧迫を加え、ふたたび狂気に陥らせようとするといった ― が繋がって、「S津狂(気)」氏が出てきてしまったというわけだ。
今朝方の夢に、小噺好きの現NTT関連会社社員O君が出てきた(夢の筋は忘却)のも、同様の文脈で理解できる。彼はあるとき、お気に入りのイタリア製極悪ポルノ ― ナチ時代の強制収容所が舞台のSM ― について熱心に話してくれた。『サイコ2』も、それに似た悪趣味だと感じていた(これはこれで徹底しているので、不思議についついみてしまう)。
「S津狂(気)」氏の伝言を書き写していたとき、どういうわけか寒い格好をしていたので、風邪気味になった。夕方からずっと横になっていたが、厭な夢 ― 自分が残酷な殺人を犯すが、それが現実に生じたことなのか(悪)夢だったのかわからず混乱する夢 ― をみた。以前にも何度もこんな(悪)夢を、とくに発熱時にみていたが、どういうわけか今まで忘却していたのだ、という感じが、目覚めた直後にした。本当にそうだったのかどうかは、もちろん不確かだが。
一般に、夢から醒めてもまた夢という夢が発熱時には多く、私の場合には、腹部のあたりがむず痒い感じとともに、身体が引き裂かれるイメージが生じてくる。先ほどの悪夢は、『サイコ3』の無意味でいきあたりばったり的な残酷場面の印象と、自分の身体感覚の乱れの他人への関連づけによって出来上がっているように思う。妥当かどうかわからないが。
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『キートンの恋愛三代記』と『勝手にしやがれ』をみる。眠かったせいかキートンのほうはあまり印象に残っていない。『勝手にしやがれ』は通しでみたのは2回目だが、脚本が大学の語学のテキストになっていたので、筋は知悉していた。当時(5年前)見たときには、この映画の構成が破格と受け取られていたというのが実感としてどうしてもつかめなかったのだが、今みると、ある程度その破格ぶりが理解できるように思う。徹頭徹尾ミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)とパトリシアの2者関係における行き違い、ズレ、相互独白、身振り等々に焦点を当てたイメージ構成 ― 筋自体はほとんど口実のようなものになり、諸々の身振りとニュアンスばかりが際立つ。
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先生が20年間も飼っていた猫が亡くなったそうだ。捨てられていた猫を拾ったのだが、どういうわけか長い間まったく鳴かなかったのだという。ところが十数年目になって、家の近所に毎日やってきて餌をねだって鳴くカラスたちを数日間見つめ、突然鳴き始めた。それも「カァー、カァー」と鳴き始めたのだという。それからは鳴けば餌が貰えることを経験則として学習し、毎日「カァー、カァー」と鳴いていたのだそうだ。その猫が体調を崩し、ご夫妻が交替で世話をしていたらしいが、奥さんが猫のそばにいて前足を握ってやっていたとき、突如からだがくたっと「伸びて」しまい、それが最後だったという。
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フランス現代詩を専攻している知人から呼びだされ、会って90分間話をする。彼(女) ― と書くのは性(別)ほど不確かで(意図的にであれ非意図的にであれ)変化しやすいものはないと思うからで、その観点からすれば、「私」についても『私』と書いて『(w)atashi』と読むべきことを提案しておくのが公平な態度だろう ― と私(
(w)atashi )の会話は、一昨日の日記で素描した「トンデモ分析」的な様相を呈していた。互いに魂の重要部分を盗みあい、あれこれの年季の入ったやり方で打撃を与えあい、神経に圧迫と消耗を負荷し続けるという様相。もちろん事前の協議があったわけではないので、支払いについて合意があったわけではないが、実際の貨幣(¥)ではないにせよ、何か無形で異様な貨幣の流れが彼(女)と
(w)atashi の間を往還していたように感じる。彼(女)が好む署名、しかも敢えてフランス語風に発音するのを好む署名を採用し、その通貨の単位を『h』としよう。彼(女)の姓(
性 )の略号、さらに一種のトンデモな価値実体として想定される濃縮された
時間 ―
労働時間 ではなく諸意味が圧縮された
感情の時間 ― の略号でもある。それは彼(女)が
(w)atashi や他の人々から奪ってやまないもの、大量の時間、残り少ない未来の時間の貴重な一部を表示するとともに、彼(女)が遂行してやまないこの窃盗ないし接収の本質をなす性愛的要素を暗示する。この人のことを「彼(女)」と表記するのは、気付いていようといまいと、完全にヒステリー的な振る舞いをする個体だからだ。
(w)atashi はそのことを彼(女)からあまりに長い電話が掛かったり、或いは実際に会って双数的 = 決闘的な泥仕合を演じたりする度ごとに、面と向かって指摘するのだが、当然予期される通り、彼(女)は都合の悪いことは聞こうとしない。こういう場合、唯一の正しい態度は、あらゆる接触を断ち切ることである。
(w)atashi がそうしないのは、もちろん、彼(女)のためを慮ってではまったくない。では何のためかというのは、すでに「察知」を通じて見抜いている人たちがいるようなので、明示する必要はないだろう。
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彼(女)は、自分が「悪しき教養主義」に陥っているのではないか自問するふりをする。なぜなら、彼(女)が当然読むべきだと考える一定量の本を「皆」が読むことを要求してやまないからだ。
(w)atashi は、その見かけの自問に対し、「まったくその通り、よくわかってるじゃない?」と強い肯定でもって応じることにしている。が、もちろん彼(女)の態度に変化はない。
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また彼(女)は、同学年・同世代の人々に対し、自分が常に不可避的に「教える立場」に立たざるを得なくなること、そのような
恵与 に対し当然おこなわれるべき
返礼 がないことに苛立っている、という。
(w)atashi は、それは贈与の態度がもつどうにもならない行き詰まりで、与えた相手とは違う別の相手、例えば指導教授などから知識の贈与を受けることにしたら良いのではないか、と言ってみる。ところが彼(女)の返事は、「最近俺、教授にも情報を提供する立場になってきてるンすよねェー」。ここにきて
(w)atashi の忍耐も限界に達し、以降は辛辣な返答に終始。
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会話実録
(w)atashi(以下S)「(意地悪さの度を増しつつ)それって、実は疎まれてるとかそういうことはないの?」
彼(女)(以下H)「・・・もしそうだったら、どっか出て行くしかないかな、と。」
S「良い案を思いついた。自衛隊に入隊するっていうのはどう?」
H「俺、前線で戦うより、幹部候補生とかになって安全なところから指令だけ出してるほうがいいっすねー」
S「(いささかムッとして)それじゃ駄目だよ、ストレス解消にならないからね。 ― そうだフランスを愛してやまない君のことだから、
フランス外人部隊 に入隊するっていうのはどうかな?」
H「体力的に無理っすよ・・・闇の格闘技の王者とかそういうのがいるんですから。俺のことすごく体力があると誤解してるかもしれませんが、体力落ちてきてるし、筋肉だってこんな・・・(ト、力瘤ヲ作ッテミセル)。」
S「(トドメヲサスベク)
いや心配いらないよ、生きて帰ってくる必要なんてないんだからね! 」
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数ヶ月ぶりに猛烈に調べ物をしていた。『キートンの海底王』をみたがまったく上の空で、みている最中からして無関心・無感動だった。
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調べていたのはドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』第6章関連の資料と、それに数年先だって出版されたガタリの『分裂分析的地図作成法』。もちろん、読みはじめてすぐに理解できるような代物ではない(特に後者)のだが。
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考えていたのは、後者(地図作成法)が前者の基盤になっていて、不必要な煩雑さを削いだ結果が前者ではないか、ということだ。もっとも批判されている通り、前者(『哲学とは何か』)の言説も明晰判明には程遠いけれども、しかし後者の比ではない。後者については、なぜこれが書かれねばならなかったのかさえ長らくわからなかった。推測を繰り返すばかりで。
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今ももちろん十全な理解には程遠いのではあるが、両者が交差配列をなしているのではないか、という考えが閃いた(もちろん、よくあるように妄想かもしれないが)。『分裂分析的地図作成法』は『精神(分裂)分析とは何か』と、『哲学とは何か』は『差異哲学的概念呈出法』と、それぞれ書きかえることができるのではないか。後者で「概念的認識」が特権化されているように、前者では「意味の切断」が重要な位置に置かれている。この2つの著作は、彼らなりに自分が重要だと考える作業の内実を問い直したものではないか。
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『哲学とは何か』は、あまりに伝統的な哲学擁護にみえてしまう。概念実在論にさえみえてしまう。しかし注意してみれば、それが提示している哲学概念の説明で用いられる概念は、ほとんどすべてドゥルーズ(=ガタリ)哲学の概念、『意味の論理(学)』で定式化された概念だ。一般的な哲学(史)談義ではなく、特定の哲学、彼(ら)自身の哲学の内実が問題にされているというべきだろう。以前の諸著作において肯定的に言及されることがなかった concept という語を積極的に前面に押し出してきたのも、彼(ら)の著作において consistance という語の意味価の重みが次第に増してきたことの結果だと思う。自信はないが。con- という接頭辞にとらわれすぎているのかもしれない。
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「概念的認識」という最もありふれた定義をもって語りながら内実は彼(ら)自身の差異哲学のことを語っているのが『哲学とは何か』だとすれば、『分裂分析的地図作成法』のほうは、異様で理解不可能とも思える他領域からの用語借用・新語作成をもってしながら、ただひとつのこと、すなわち(無)意味からの意味の発生 ― 夢や機知等々において生じるような ― だけが問題になっているといえると思う(私が理解できた範囲では、ということだが)。ここにも交差配列がある。一方は伝統的用語法で風変わりなことを述べ、他方は奇妙極まりない用語法で見かけほどはフロイトとは違っていない(と思うのだが)事象が語られている。
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ところで『地図作成法』にはホワイトヘッドの『過程と実在』からの引用文があるのだが、指定されたページ及びその周辺を探してみてもまったく見当たらない。こんな文なのだが:
The ground, or origin, of the concrescent process is the multiplicity of data in the universe, actual entities and eternal objects and propositions and nexus. Each new phase in the concrescence means the retreat of mere propositional unity before the grown grasp of real unity of feeling.
この文を探すことに、5時間は費やした。無駄な時間だったとはいわないが、だんだん憔悴してくる作業。本を自宅・書店・図書館で探しつづけてみつからず、最後になって、夢のなかで読んだ本だったとはっと気付いたことがあるが、そのときに似た気分。
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『地図作成法』が言及するストア派の2つの混合概念について、手持ちの数冊の本をあたって、以下の説明に行き当たった。「人と思想」シリーズも、この本はかなり役立つ解説書だと思う。
一般に、混合(クラシス)には2型が考えられる。第1型は並置(パラテシス)によって混合(ミグニュメノン)された物体で、米粒と麦粒の混合のように、モザイク風の寄せ集めである。この場合には、外見的には均質的と見えても、部分を比較してみると均質的ではない。第2型は混成(シュンキュシス)による混合で、その場合には、化学的化合物でのように、成分の独自性は相互に破壊されて、新しい物体が生じる。(堀田彰『エピクロスとストア』清水書院、179頁)
クセジュ文庫の『ストア哲学』および岩波文庫のディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(中)』のストアの解説には混合の分類についての説明はなかった。
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概念 concept の話に戻ると、思想の科学研究会編『新版 哲学・論理用語辞典』(三一書房)の「概念」の項にはこうある:
では訳語にある「概」という漢字は何か。枡に穀物を入れるときに盛上った穀粒を平らにならす棒のことだ。「机」といっても大小、形などいろいろあるわけで、そのデコボコをならしたほぼ共通の「机」の意味を伝えようとした苦心の訳だろう。
面白いが、もし語源的な意味がこういうことなら、ドゥルーズ(とガタリ)が積極的に前面に出してくる concept を「概念」と呼ぶことはまったくできないことになるだろう。なぜなら、棒で
ならしてしまうことなどできない異質な諸要素が共に−つかまれてあること(邦訳23頁の訳注)が問題になっているのだから。consistance を「共立性」なら、concept は「共握」といった感じで読むべきか。頭のなかで自動的に通常の「概念」概念(ややこしいが)を思い浮かべながら読むと間違えるのかもしれない。
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また、辞書によれば consistance には「(液体の)濃度;(固体の)堅さ」という意味がある。 prendre consistance で「濃くなる;堅くなる」という文例がのっている。これまた主観的な妄想かもしれないが、ドゥルーズとガタリがこの語を用いている箇所でも、濃さや堅固さの意味を読み込むべきではないか。異質的な諸要素を分離不可能な仕方で共に−掴まれた状態にすることは、液体を煮詰めて濃くするといった喩えでイメージすることができるのではないか。例えば、'les mondes possibles [...] sont coupés du concept d'Autrui qui leur donnerait consistance' (
Qu'est-ce que la philosophie?, pp.130-131) という箇所には、「他(人)」という概念なしでも可能世界を想定することはできるけれども、そのときには堅固さ・濃さ(=実在性?)が欠けている、「他(人)」(特に表情、相貌)を通じて一定の濃さ・堅固さが獲得される、といった含みがないだろうか。(ないかもしれない... 。)
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不用意な一言(例:家庭教師のバイトの面接に行って「子どもは嫌いです」と口走る等)が災いして面接に落ちてばかりいたのだが、ついに春が来た。初潮。といっても、まったく詐欺的なパソコンの家庭教師(!)で時給1500円・月給2万4000円という待遇だが。無職無給よりはましだろう。生徒はひとつ年下(24歳)の男の子で、パソコンに触れたことがなく電源の入れ方から教えてほしいとのこと。それくらいならさすがに、できるぞ。給料を貰うのは少し良心が咎めるが、両親のほうは手放しで大喜びで、クライアント父子に「パソコンは夢の機械ですから、何でもできますよ!」と知りもしない法螺を吹きまくっていた。
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今朝の夢見
場面1:企業?が舞台で三浦君?が出てきたようだが、場面2を書き留めている間にイメージが砂の城のように脆くも崩れ、その後戻ってこなかった。
一旦は思いだせていたらしいだけに残念だが、この前駆的な夢?の内容はどうも疲れるものだったようで、忘れたまま放置するのが良いのではないかという気がする。
場面2:研究室?にいる。
設定としてはそうだが、実際には自室および自宅事務所のイメージが重ね合わされている。それはベッドが出てくる点、四方がガラス張りになっているとされる点からわかる。また、実際には研究室では皆でコーヒーを飲むのに、夢のなかにあるカップ(自宅で用いているもの)の底には少量のミルクが入った紅茶が溜まっている。)
まだ先生も参加者も見えておらず、女性院生(先輩のような感じ ― 年上で事情通 ― だが、見たことのない姿である)と2人きりでいる。
2年半前はじめて研究室に入ったとき、ひとり先輩の女性院生がいらっしゃったが、彼女はどちらかといえば小柄で謙虚な感じだった。夢のなかのこの女性院生は、その人よりは大柄で、先輩風を吹かす感じである(といってもそれ程ではないのだが)。顔などはよく覚えていないが、2人の人物に似ていると感じる。ひとりは、大学に入った年、所属したサークルにいた先輩の女性N上さんである。彼女はサークル(文学系のサークルだった)の会誌に、妊娠をめぐる非常に情念的な小説を書いていた。この人はサークルの幹事長もしたTさんと付き合っていたが、数年前に別れ、今はどこにいるかわからない。またこの人は、仏文専攻のH君をからかって遊ぶのが趣味で、今から思い返すとそれは懐かしい光景である。もうひとりは、新プラトン主義を専攻しており、「『自分』が『他人』を産めるなんてそんなすごいことができるとみんなどうして思えるのか、それがわからない」という名言を吐いた女性院生。
女性院生が、ドゥルーズ=ガタリ?を巡る有名教授間の秘められた対抗関係の話をする(彼女は2人の実名をあげる ― 忘却 ― が、それらはいずれも実在しない名前だったような気がする)。一方の教授は、テレビのワイドショーなどに出演してコメントを続けている男で、筑波大学でコンピュータを用いてドゥルーズ=ガタリやデリダ?等の研究を続けている。彼の研究室の院生は、登校する必要がなく、自宅でコンピュータ作業を続けるように言われるのだという。私は彼女の話を聞きながら、「僕にはそっちのほうが向いているかもしれませんね」と言う。もうひとりの教授は、彼に対抗して『…………』(忘却 ― 人名を列挙したような題名だった。蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』や丹生谷貴志の『ドゥルーズ・映画・??(忘却)』にそっくりだなあ、と夢のなかで考えていた記憶がある。しかし、それより冗長で、ガタリの名前が入っていたような気がする)という本を出したそうだ。
コンピュータ云々は明らかに、昨晩決まった(はずだと思いたい)バイトのことを連想させる。夢の中では自宅でコンピュータ作業をすることに否定的な価値づけがされているようだが、私は、かりに自分が働くとしたら、そういう労働形態が一番望ましい ― 他人と接触せずに済むから ― と思っている。テレビのワイドショーに出演してコメントを云々というくだりは、最近精神病質についての本を出版したらしい小柄な精神科医(私は彼に好感をもっていない)を、また、ある人が「世間の哲学((研究)者)に対する偏見を是正するためには、誰か哲学(研究)者がワイドショーとかに出て発言すべきだと、本当に思うんですよ」といっていたことを連想させる。
さらに女性院生が、研究室の話をする。「T先生は、研究室を汚されるとかそういうのが一番お嫌いだから・・・」。私は、「えっ、どういうことですか?」と、そこに長い間いるのに事情を何も知らない間抜け者の声を出す。彼女は「だって四方から光が入ってくるガラス張りの部屋でしょ?」と言う。どうも私は待っている間研究室の奥にあるベッドに寝転んでいたようで、シーツに皺がよっている。このことらしい。
すぐに思いだされるのは、昨晩、パソコン機械と基本的な操作の実例を見せるために、生徒候補である息子さんに部屋に来てもらったことだ。母親が言い出したことで、予定していなかったので部屋は整理されておらず、犬用品などが散乱した状態だった。ベッドのシーツに皺を寄っている点について、自分が家のなかの各部屋を放浪してあちこちで寝ていることを連想する。室内を汚す ― ベッドのシーツに皺が寄る ― それが外から丸見えである、という系列は、何か性的なものを思わせるが、少なくとも顕在的には夢はそのことについて何も語らない。紅茶カップ = コンドーム、紅茶に混ぜられた微量のミルク = 精液、といった象徴解釈をやるのなら別だが、あまりそれに現実感は覚えない。しかし、T先生が笑いながら咎めてくる内容は、性的なことか、或いは職業上のことのように思うので、私のほうが間違っているかもしれない。
机の上にはカップが数個あるが、そのなかのひとつの底のほうに飲み掛けの紅茶が少し溜まっている。私は、「しまった、昨日/1週間前のだ」と思い、それを飲んで(砂糖は入っていなかった)、カップを洗いに出ようとしたところで、T先生、T君、太った見知らぬ男の3人と鉢合わせになる。T先生が、穏やかに笑いながらも咎めるような口調で「………」(忘却:君は…といっていたのに…しているの?というような内容だった気がする)という。
場面1。酋長がいて、食用に成人男性のペニスを切り取った。(野外?にある)木の食卓?に2本かなり大きなペニスが置かれている。巨大な松茸にみえる。少し炒めてあるようにもみえる。私はそれをひとつ取ってかじってみるが、まずい味が口の中に広がり、慌てて肉片を吐き出す。レバーのような味だっただろうか。
場面2。古本屋にいる。中年女性の店長がいて、その人は文壇(文学賞?)関係者らしい。めぼしい本がないので店を出たいのだが、何も買わずに出るのは気まずいように感じている。文庫本をみると、1冊20円なので、どれでもいいから1冊買って出ようかと思う。
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今日は一日中、水曜の読書会の発表のための準備をしていたが、何時間作業してもろくな進展がなく、これまで作成したものの纏めのようなことしかできない。寒くて風邪気味になってきたし、無力感に苛まれてまた鬱になる。ひとつの無価値な円環(循環)のなかに閉じ込められていて、一生そのなかでぐるぐる回って過ごすのだ、と思う。
場面1.中学か高校の教室。教壇に30代にみえる男性教諭が立っていて、教科書に載っているドゥルーズのテキストの解説をやっているが、意味不明な記号のところで困惑している。無限の縮減(減速)とかいう意味の記号らしい。「よくわからないが、彼らは、一読してもわからない書き方をわざとするからね」と男性教諭が言う。私は生徒として席について授業を受けているようだ。隣の席に座っている男の子が「ねえ、どうしてこんなのがわかっちゃうの?(本当はわかるはずないのに)」と聞いてくる。私は、数式などはすべて無視して読んでいる、と答える。
場面2.営団地下鉄東西線に乗って帰宅しているが、車内で居眠りしている。ふと気付くと飯田橋駅だ。ここで乗り換えねばならないと思って慌てて降りて、長い乗り換え通路を歩いて東西線ホームに向かう。しばらくして、あれおかしいな、もともと東西線に乗っていたじゃないか、乗り換えの必要などなかったんだ、と気付く。
場面3.どういうわけか今度は(新京成線内で電車を降りて駅前のバス停から?)バスの乗り換えをする。車内はその駅の近くにある高校?の生徒たちで混んでいて座れないが、高校生たちの元気な様子をみると楽しいからまあいいかと思う。発車し、よく行先を見てみると、帰り道?とはまったく違うアサッテの方向だ。終着駅は「小***(忘却)」、そこにいくまでに2つか3つ停車駅があった(忘却)。急いで降りて引き返さねばと、次の停留所での下車を知らせるボタンを押す。時間と金を無駄にしてしまった、と後悔する。
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『キートンの西部成金』:キートンは Friendless という役名で出てくる。牧場に流れ着いた彼の「恋人」は、やはり友だちのいない雌牛の Brown eyes である。Brown eyes が他の牛とともに屠殺場に連れて行かれると知って Friendless はそれを止めるために奮闘する。キートンも勿論だが、Brown eyes ほか牛や馬のイメージに心惹かれる。牛たちの頭の後ろのほうから撮り、画面下方に牛の頭部の一部、画面上方に追われるキートンが収まっているイメージが何箇所かでみられるが、それが見事だと感じた。Friendless と Brown eyes の最初の出会いは、蹄の間に石が挟まっていて痛がっていたのを取ってやったことだった。他の意地悪な牧童のたくらみで Friendless が赤い布を振ったために、牛が角を向けて彼のほうに突進してきたとき、突き倒される寸前に Brown eyes が両者の間に割り込んできて Friendless を救う。この間合いがなんともいえない味を出している。また、最後の場面での牛の大群が街路を行く場面も素晴らしい。キートンと牛(たち)とで何か類似性があるように感じる。無表情さ、罪のなさなどにおいて。
『キートンの大列車強盗』:キートンは機関士に扮し、北軍が盗んだ列車を取り戻すために奮闘する。見事な活劇で、特に北軍が追跡を妨害しようと線路上に妨害物を置くのをキートンが絶妙に克服していくところなどが素晴らしい。活劇としての圧巻は、キートンによる破壊工作が成功して橋が焼け落ち、北軍のほうの列車が川に転落する場面。また、戦場で周りの南軍兵士たちが次々に狙撃されて死んでいくのにキートンがそれに気付かぬままでいる場面などは、喜劇の枠組みを超えた一種の無感動に到達していると思う。全体としてみれば、開戦したのに志願しない者は男ではない、という古風な観念に支配されている筋書だと思うが、それは口実のようなものでほとんど重要ではない。映画の終わりでキートンはいきなり中尉として南軍に入ることになるが、もちろん南軍は負ける運命にあるわけだから・・・。