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ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(中)』(加来彰俊訳、岩波文庫)より、私が一番尊敬する哲学者「犬のディオゲネス」についての逸話の抜粋:
大部分の人間は、ほんの指1本の差で気がふれているとされるものだと彼は語っていた。とにかく、ひとが中指を突き出して歩いて行けば、気がふれていると思われるだろうが、人さし指を突き出して行く場合には、もはやそうは思われないだろうからと。(139頁)
なぜ人びとは、乞食には施しをするが、哲学者にはしないのかと訊ねられると、「それは彼らが、いつかは足が不自由になったり、目が見えなくなったりするかも知れぬとは予想しても、哲学者になるだろうとは決して思わないからだよ」と彼は答えた。
彼がある吝嗇家に施しを乞うていたときのこと、その人が出ししぶっていたので、「ねえ、君、ぼくが君にお願いしているのは、食いぶち(トロペー)であって、葬式代(タペー)ではないのだよ」と彼は言った。
あるとき、通貨を偽造したことで非難されると、彼はこう言い返した。「たしかに、かつてのぼくは今の君と同じような人間だった時期があったよ。だが、今ぼくがあるような人間には、君は将来決してなれないだろうね。」
また、同じその件で彼を非難した別の人に対しては、「そう、以前は、すぐにでも人びとに小便をひっかけたりもしていたが、今のぼくは、もうそんなことはしないからね」と彼は応じた。(156−157頁)
彼が、ある利かぬ気の気むずかしい男に施しを乞うていたら、その男が、「わたしを説き伏せたなら」と言ったので、「あんたを説き伏せることができたとしたら、首をくくるように説き伏せただろうよ」と彼は応じた。(159頁)
アレクサンドロス大王があるとき彼の前に立って、「余は、大王のアレクサンドロスだ」と名乗ったら、「そして俺は、犬のディオゲネスだ」と彼は応じた。
どんな振舞いをするから犬と呼ばれているのかと訊かれたら、「ものを与えてくれる人たちには尾をふり、与えてくれない人たちには吠えたて、悪者どもには咬みつくからだ」と彼は答えた。(160頁)
彼が無花果の木から実をとっていたら、番人が、「その木で、つい先日、人が首をつったんだよ」と言ったので、「それではぼくが、この木を祓い清めてやろう」と彼は応じた。(160頁)
あなたはどこの国の人かと訊ねられると、「世界市民(コスモポリテース)だ」と彼は答えた。(162頁)
「君は哲学をしているくせに、何も知らないね」と言った人に対して、「たとえぼくが知恵のあるふりをしているだけだとしても、そのことだってまた哲学をしていることなのだ」と彼は応じた。(163頁)
ある人が、子供を弟子入りさせようと連れてきて、この子はたいへんよい素質をもっているし、また性質もいたってすぐれていると言ったとき、その人に対して彼は、「では、どうしてぼくが必要なのかね」と言った。(163頁)
彼は劇場に入って行くときには、ちょうど出て来る人たちと鉢合せになるようにしたものだった。それで、どうしてそんなことをするのかと訊かれると、「これこそぼくが、ぼくの全生涯を通じてなそうと心がけていることなのだ」と彼は答えた。(163頁)
世のなかで最もすばらしいものは何かと訊かれたとき、「何でも言えること(言論の自由、パルレーシアー)だ」と彼は答えた。(167頁)
また彼は、デメテルのこと(飲食のこと)も、アプロディテのこと(性交のこと)も、何でもすべて人前で公然と行なうのを常としていた。そしてそれについては、何かこんなふうな議論を持ち出していたのであった。 ― もし食事をとることが何らおかしなことではないとすれば、広場でとってもおかしくはない。しかるに、食事をとるのはおかしなことではない。それゆえ、広場でとってもおかしくはない。
また彼は、人の見ているなかで、しばしば手淫に耽りながら、こう言っていたものである。「お腹の方もこんなふうにこするだけで、ひもじさがやむとよいのになあ。」(167頁)
とにかく、事実として、人生においては何ごとも、鍛錬なしには決してうまく行くことはないのであって、この鍛錬こそが万事を克服して行く力をもっているのだと彼は言っていたのである。だからして、人は無用な労苦ではなしに、自然にかなった労苦を選んで、幸福に生きるようにすべきであり、不幸な生を送るのは愚かさのせいなのである。というのは、快楽そのものに関しても、これを軽蔑することを前もって練習しておけば、そのことが最も快適なことになるからである。つまりそれは、ちょうど享楽的な生活を送ることに慣れている人たちが、それと反対の生活に向かうときには不快を感ずるように、快楽と反対のもので鍛えられた人たちは、快楽そのものを軽蔑することに、むしろよりいっそうの快適さを感ずるからだというわけである。
以上のようなことを彼は語りかけていたのであり、またその通りに実行していたことも明らかである。つまり、彼はまさしく通貨(ノミスマ)を偽造していたのであって、法律習慣(ノモス)によることには、自然本来(ピュシス)にもとづくことに与えたような価値を少しも与えようとはしなかったのである。そしてこのことは、彼に言わせれば、自由にまさるものは何もないとして、まさにヘラクレスが送ったのと同じ型の生活を送り通すことだったのである。
また彼は、すべてのものが賢者の所有であると言い、そしてわれわれが先に述べたような議論を持ち出していた。すなわち、すべてのものが神々の所有である。ところで、神々は賢者と親しいもの(友)である。しかるに、友のものはみんな(に共通)のものである。それゆえ、すべてのものが賢者の所有である、というわけである。
また法に関しては、それがなければ、(文明化した)市民生活を送ること(ポリテウエスタイ)は不可能であると彼は言っていた。なぜなら、彼の主張では、市民国家(ポリス)が存在するのでなければ、文明化していて(アステイオン)も何の益にもならない。しかるに、市民国家は文明化をもたらすものであるし、また市民国家が存在するのでなければ、法は何の役にも立たない。したがって法は、文明化をもたらすものなのだ、というわけである。
また彼は、高貴な生まれとか、名声とか、すべてそのようなものは、悪徳を目立たせる飾りであると言って、冷笑していた。
また、唯一の正しい国家は世界的な規模のものであると。
さらにまた、婦人は共有であるべきだと言い、そして結婚という言葉も使わないで、口説き落した男が口説かれた女と一緒になればいいのだと語っていた。そしてそれゆえに、子供もまた共有であるべきだと。
また、神殿から何かを持ち去るとか、あるいは、ある種の動物の肉を味わうとかすることは、少しも異様なことではないし、さらに、人肉を食べることさえも、異国の風習から明らかなように、不敬なことではないとした。
また、正しい言い方をすれば、あらゆるものがあらゆるもののなかに含まれ、あらゆるものを貫いて行きわたっているのだと彼は言っていた。すなわち、(身体の構成要素である)肉(の一部)はパンのなかにも含まれているし、パン(の一部)はまた野菜のなかに含まれているのである。というのは、その他の物質についても、そのいたるところにおいて、目に見えぬ孔を通して、微粒子が中に入ったり、また蒸気となって外へ出たりしているからである、と。 ― この説は、悲劇『テュエステス』のなかで彼が明らかにしているものである。(168−171頁)
また彼は、奴隷として売りに出されたときにも、まことに堂々とした態度でそれに堪えた。というのも、彼はアイギナ島への航海中に、スキルパロスの率いる海賊どもによって捕えられ、クレタ島に連れて行かれて売りに出された。そして触れ役の者が、お前にはどんなしごとができるのかと訊ねたとき、「人びとを支配することだ」と彼は答えたからである。またその折りに彼は、紫の縁飾りのある立派な衣裳を身につけた或るコリントス人、つまり、前に述べたクセニアデスのことであるが、その人を指さして、「この人におれを売ってくれ。彼は主人を必要としている」とも言ったのであった。それで、クセニアデスは彼を買い取って、コリントスへ連れ帰り、自分の子供たちの監督にあたらせ、また家のこといっさいを彼の手に委ねた。そして彼の方は、家事全般をたいへんうまく取りしきったので、主人のクセニアデスは、「よきダイモーン(福の神)がわたしの家には舞い込んだぞ」と言いながら、そこらじゅうを歩き廻ったほどであった。(171−172頁)
私が nutty (or queer) communism といっていたものがもし可能なものであるなら、ここで
犬 がいっているような(諸)原理を含まねばならないはずだ。通貨(ノミスマ)の偽造、法律習慣(ノモス)の転倒。それに加えて、
家事 の才能。また、私はずっと犬のディオゲネスの立場を、今ふうにいえばアナーキズムやダダイズムの側にあるものと考えていたのだが、読みかえしてみると、一種のスピノザ的なコミュニスト(〈共同態〉主義者?)でもある。彼は(実際にはありはしなかった世界国家の)世界市民であり、具体的な諸制度とともに市民国家を構想している。そして恐らくその倫理、社会観は、万物の相互浸透・混合といった自然観・存在論によって支えられている。「スピノザ的な」といったのは、存在論(『エティカ』第1部)や自然学(第2部)、心理学(第3部)に支えられた倫理(第4部、第5部)という意味である。
(ネグリのスピノザ論が読みたくなってきた。翻訳はまだ出ないのかなあ??)