「労働のエートスの崩壊」、「受動的革命」、「決して能動態になり得ない何か」●岡崎乾二郎
ひきこもり や 自殺や 少子化●柳原敏夫
今 世界的に これが 外に 向かって噴出しはじめた
なぜ やる気がおこらなくなってきていたのか みんなわかってきた
ひきこもり や 自殺や 少子化 はつまり 消極的なサボタージュであり
反戦であった これがいま 積極的に表に 噴き出しつつある
で、この間の発言の中で、自分自身の中で、次第に明らかになったことがあり●ふみあしいさみ
ます。それは、法律問題をめぐる分散型ネットワークの場が活性化し、隆盛を
迎えるためには、単に、それに相応しい新たなシステムの工夫・考案・発明が
必要であるばかりか、それと共に、そうした前代未聞の新たなシステムを担う
に相応しい新たな人間像の発見が不可欠なのではないか、ということです−−
ちょうど、「明日に向って撃て」のポール・ニューマン(=新しい人)みたい
な(この西部劇の映画が、いかに新しい人間像を描いているかはまた別のとき
に)。
では、それはいかなる意味で、ニューマンなのか。
それは、ショーシャンクがいかなるスタイルで現代の問題を捉えようとしてい
るか、という理解に掛かっていると思います。この点、最近になってようや
く、自分が次の3つの次元から、現代の問題を考えようとしていることに初め
て気がつきました−−イリイッチの書物に触発されてですが。
第一の次元或いは軸は、多くの人にお馴染みの古典的対立−−左か右か、保守
か革新か、人権か秩序か−−の図式です。いわゆる政治運動、労働運動で表現
されてきたものです。
しかし、市民の立場から見ると、この次元だけでは、現代が抱える問題の全体
像を把握し切れなくなり、そのため、この次元の運動自体が矮小かの一途(60
年代の安保が全国規模だとすれば、70年安保は学園規模に縮少し、80年代以降
は、直接民主主義は何処にもなくなった観がある)を辿っているように見えます。
それに代って、新たな次元または軸として登場したのが、安全、健康、環境な
どをめぐる対立です。ラルフ・ネーダを代表とする消費者運動、もろもろの市
民運動で表現されてきたものです。
しかし、この運動にも或る種の盲点があるように思えました−−それは、例え
ば、欠陥車問題の重要性を指摘したラルフ・ネーダらの運動は、もし車に欠陥
さえなければ、或いは環境破壊さえなければ、どんどん生産してもらっても構
わないという立場なのだろうか、という問題です。言い換えれば、安全、健
康、環境問題は、必ずしも大量生産、大量消費、大量廃棄のシステムそのもの
に異議を申立てるものではないのではないかという問題です。そして、この盲
点が次第に深刻な問題であるのではないかと私自身が思うようになりました。
それが、第3の次元または軸の対立です。それは、すべての生活を、もっと多
くの商品(それは、安全で環境破壊をしない理想的な商品を前提にしていいの
ですが)、もっと多くのサービスの生産と消費のシステムの中に追いやる大量
生産、大量消費、大量廃棄のシステムを推進する側に立つのか、そこからジェ
ンキンスさんみたいに脱走する側に立つのか、という対立です。
そのことを、イリイチは、(ごく単純化していることを承知の上で)
人間の存在のあり方、感情のあり方に関する2つの志向であり、一方が「持つ
こと」(having)に価値を見出し、志向するのに対し、もう一方は、「生きた
存在」(being alive)「すること」(doing)に価値を見出し、志向するもの
だといいます。
しかし、注目すべきことは、この「持つこと」(having)に価値を見出し、志
向する人間のあり方すら、もともと自然に培われてきたものではなくて、18世
紀頃に、当時の知識人たちによって初めて発見された新しい人間像・人間類型
である「経済人」(homo economicus)に由来するものだということです。
しかし、この「経済人」というイデオロギーはますます幅を利かせ、その後、
人間の標準型はすべて「経済人」であるとして流布するようになる(=産業社
会の到来。「女」が作られたように、「消費者」もまた作られたものです)の
ですが、その結果、当然のことながら、そんなイデオロギーの枠組みに収まり
切れない人たちが出てきます。当初、「落ちこぼれ」とか「はみだしっ子」と
か命名されていたのですが、そのうち、不登校児とか引きこもりとかフリー
ターとかいう新規の人種を増殖させています。
もっとも、不登校児とか引きこもりとかフリーターと言う場合、それは通常、
人間の標準型としての「経済人」をボイコットするが、しかし、それ以上、積
極的に何かの行動に出ることはしない、ひたすらエリマキトカゲのように仮死
のままでいるというイメージです。
この「仮死」「冬眠」の状態を、もう1歩進めて、目覚めと行動に出るような
新しい人間類型(ニューマン)を発見したい、というのが、私のショーシャン
クに賭ける期待です。
さっきの発言にたとえて言えば、二大政党の茶番劇にウンザリして、投票をボ
イコットする過半数の投票「不登校児」に対して、そうした「仮死」にとどま
るのではなく、マイケル・ムーアが試みたようなFicusという(鉢に植わった)
植物の立候補とそれへの投票みたいなことです。
それは、何も理想を追求するためでも、倫理的に正しいことをするわけでもな
く、単に、そのほうが「仮死」で「冬眠」の状態よりも、ずっと楽しくて、ず
っと充実感があるにちがいないからです。
なぜなら、18世紀には人間の理想型ともてはやされた「経済人」は、既に20世
紀初頭の段階で、M.ウェーバーによって次のように予想されているからです。
「この文化的発展の『最後の人々=末人』については、次の言葉が真理となる
だろう。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無の者は、歴史上かつ
て人類が到達したこともないような人間性の最高の段階にまですでに登りつめ
た、とうぬぼれるようになる』と」(プロテスタンティズムの倫理と資本主義
の精神)
この「末人」(last man)は、ニーチェが1980年代に初めて使ったコトバです
が、彼は誰も見向きもされなかった時代に、この商品とサービスの全面的に依
存することを強いられるようなシステムの中で、人間の精神の根本がどのよう
に変形されていくか、という本質的な問題を考えた人でしょう−−私は、出会
いから35年にして、ニーチェ−−ウェーバー−−イリイチという線を通して、
初めてニーチェのことを「こいつは、オレだ!」と身近に感じた気がしました。
ということで、今、私自身は、「経済人」(homo economicus)という人間類型
と正反対の人間像−−さっきの発言で、専門家批判を取り上げたのも、この問
題の一環です−−を、このショーシャンクの中で探求していきたい、そして、
それを法律という分野で具体的に追求していきたい、そしてもっと楽しく、も
っと中身の詰まった充実した生き方を、そしてもっと明晰に頭が働くようにな
りたいと希っています。なぜ、法律の世界で、専門家ではなく、フツウの市民が意味を持つのか−−先
日、12チャンネルで深夜放送したマイケル・ムーアの「アホでマヌケなアメリ
カ白人」という番組で、彼が、二大政党のたらい回しの選挙に厭き厭きしてい
るアメリカ市民に一石を投じるため、現役の1人候補しかいない選挙区で、市民
に選択の自由を与えるために、新人候補を立てるのですが、その候補者が震っ
ていて、Ficusという(鉢に植わった)植物なのです。
まず、立候補に必要な推薦人の数は確保したものの、立候補受付で拒否。人
(自然人)でないという理由で。そこでのやり取りも非常に興味深いものでし
たが、そこで締め出されても諦めず、勝手に立候補して、有権者が投票用紙に
書き込みをすれば、それでも当選が可能だということを知り、その作戦に出
て、街頭演説なりあちこちに出かけてキャンペーンを張るのですね。一方の現
職の民主党議員は、ワシントンにいたまま、選挙事務所も開かぬまま。
ところが、中間の選挙予想で、このFicusが思いがけず、圧倒的な支持を受ける
のですね。
それを知って、全国の州で、このFicusで立候補する事態が起きて、全国の
Ficusが集まって、結成大会まで開いてしまう。
しかし、いざ、投票になると、選挙管理委員会は、Ficusへの投票は、人ではな
いという理由で無効票扱いで、何人が投票したら教えない。そこで、マイケ
ル・ムーアとの間で一悶着。彼曰く「人であれ、植物であれ、何であれ、それ
に投票したのは、民意の反映であり、その結果を公表すべきだ!」
これは専門家の法律家では絶対浮ばない、素晴らしいアイデアだと思いました。
今の選挙は、精々、ノーを表明するボイコットの機能しか営んでいませんが、
だとしたら、その機能を徹底的に発揮するやり方として、マイケル・ムーアの
アイデアは素晴らしいと思いました。のみならず、植物に投票する市民の願い
がそこに現われているし、「緑の立候補」のほうが緑の党のアイデアよりもず
っとマシではないか、と。
…それからやはり、自分としても、「コジレ」たり「ヘタレ」たりした「死屍累々」状態の人々の存在は無視できないですネ。そのような人々は、上で述べたような、自我が脆弱になって「生きがたさ」を抱えるようになった、いわゆる「メンヘル系」の者たちであると言うことができますが(同じ「メンヘル系」と言っても、その出自や特徴は色々あるので、簡単に一括りにすることはできませんが、取り敢えず「死屍累々」の類語だと思って下さい)、この種の人間たちもサイケ・トランス系のパーティにはかなり来ていたと思いマス。もちろん、対抗グローバル的な「世界の愚連隊」とつながってしまえば、メンヘル系などという属性はもはや関係ないのかも知れませんが、しかし、彼/女たちは、社会に対して不適応を感じながらも、そこからドロップ・アウトしたり、それに対抗するためのいかなるスタンスやスタイルも得られずに、言わば社会によって潰されたまま、そこに再適応を強いられるという大きな困難を抱えていマス。自分としては、この困難を解決するための手がかりが、日常に非日常を対置するだけのカウンター・カルチャー系のサイケデリック文化とは区別された、日常から少しだけ撤退して、その傍らにミニマルに非日常を実現させていく、現在のパーティ文化と結びついたサイケデリック文化の中にはあるはずだと、勝手に考えていたのですが…(もちろん、こういう考え方の起源は、鶴見済氏の『檻の中のダンス』あたりになるのでしょうが…)。それゆえ上野さんのUTSも、このような「死屍累々≒メンヘル系」がオルタな生の様式を創出してサバイバルしていくための<原理論>として読み解いていくことができると思っていたのですが…。●∞+∞=∞
そして、このような読みをするためにも、UTSを、常に「現在」というものに呪縛された社会学的な、<現状分析論>と比較していくべきだと自分は考えていました。なぜなら現在、メンヘル系の人たちこそが格好の社会学的思考の餌食になりつつあると言えるからデス。或る者たちは、自我が脆弱化して人間的成長が困難になったのは、社会が「成熟化」した(「後期近代化」)以上当然であり、それゆえ、社会の側が彼/女たちの成長や社会とのつながりを確保し、支えていかなければならないと、お節介なオヤジのようなことを言い、また或る者たちは、現代人の自我が脆弱化したように見えるのは、社会全体の「心理学化」によって人々に対する管理が強化されたからであって、それゆえそれはマヌーバー、錯覚でしかなく、現代人も、昔からの「民衆」としてのたくましさを失っていないなどと、野蛮な体育会系のコーチのようなことを言っていマス(小沢牧子など)。このような社会学者たちの勝手な領有に対して、メンヘル系の人々が緩やかにスピリチュアルなものに関わって快楽を得、そのことによって抵抗していく、別の生や共同性のあり方を模索していくためにも、UTSの<原理論>的思考を敢えて社会学的<現状分析論>と対置させ、彼/女たちをその領有から奪還しつつ、UTSを、彼/女たち固有の、もしくは彼/女たちから始まる<原理論>として役立てていくべきだと思っていたのですが…。
また、上野さんはジャパン・ローカルなことにこだわるのは好まないと思いますが、自分としては、この「死屍累々」化した人々は、明らかに「日本的ポストモダン」(椹木野衣的に言えば「日本という悪場所」)の閉塞と深く関わっていると考えていマス。日本は後発近代国家であるが故に、そこで西欧的な自我を確立しようとするとすぐに空転して病理化してしまう、という観点から一貫してエヴァを読み解こうとしたのが小谷真理の『エヴァ論』でしたが、どうも68年以降の日本の空間では、政治的・文化的にラジカルな姿勢が根付いて成熟することがなく、すぐに小児病化して挫折してしまうということを繰り返してきたように思えマス(オウムまで含めて)。ついでに言えば、リベラルな姿勢の方も、ユーロの社民勢力のように現実主義化して(いい意味でも悪い意味でも)老獪になることがなく、いつまでも、微温的で良心的な理想主義という自己イメージに囚われたままデス(鶴見俊輔や久野収の仕事は、そんな次元を遥かに超えたものだと思うのですが、残念ながら彼らを後継する者がいません)。もちろん、政治的・文化的ラジカリズムの運動が挫折する原因には偶然的な側面が大きく、そこに地理的・文化的特殊性を持ち出してきて、ことさらに原因を必然化してしまうのは、一種の文化的ナショナリズムの身振りであり、反動的な勢力に加担したもの言いでしかないかも知れません。しかし、ラジカルな姿勢を追求することに対する挫折感や不信感は、70年代以降広く共有されてしまい、共有されたその意識のうえに、あの、対人恐怖やアパシーから始まり、ひきこもりやリスカにまで至る、(おもに中産階級の孤立化した)家庭の親子関係の歪みに潰されたまま、いかなる脱出口や闘う相手&仕方を見出せずに「非社会化」してコジれていくだけの、「メンヘル系」の生の様式の系譜が展開されてしまいました(ラジカリズムの挫折・不信意識の上に、80年代になって開花したサブ・カルチャーが築かれたことはよく指摘されますが、この点の方に関する体系的な指摘や分析は、寡聞にして知りません)。さらに、政治的・文化的ラジカリズムの追求に挫折して脱落した者たちも、そのようなメンヘル系の人々の群れの中に堕ちてきマス。このような人々を見ていると、元々メンヘルだったからこそ政治的・文化的ラジカリズムに性急にのめり込んでしまったのか、あるいはそれに挫折したからこそ初めてメンヘル化したのか、判らなくなってしまう程なのですが…(とは言っても、「メンヘル系」の人々とラジカリズム挫折組との緩やかな混淆は、ジャパン・ローカルと言うよりも、東京ローカル、いや中央線沿線ローカルな現象に過ぎないのかも知れませんが…)。
90年代のサブカルチャーの爆発的?な流行はいったいなんだったんだろう?あの、変な、ぶっとんだ、「都市的現実」のイメージの横行。いかがわしさ、退廃、エロ、グロ、ナンセンス。そんなものが安っぽいB級雑誌にあふれ返って、僕たちはバカみたくそれに顔を突っ込むようにして読み漁っていた。そういった現象は見沢知廉がBURSTに連載していたエッセイにまとめて載っている。今度引用しよう。でも、彼によれば・・・・・抑圧と開放を繰り返す「時代の反復する力」はとてつもなく力強く、抵抗なんてとても成り立たない、そうだ。
芥川が目に見えない「不安」に取り付かれて自殺したのはいつだったっけ?そして昭和初期、1930年代おいて流行した退廃、エロ、グロ、ナンセンスの時代の後に何がきたのだろう?その前にあの、恐慌の意味は何だったんだろう?
とりあえず、図書館にでもいって石川啄木の「時代閉塞の現状」でも借りてくるかな?自殺者がどんどん増えるのを横目で眺めつつ。90年代サブカルチャーというものが残したものは、結局、メンヘラーと自殺志願者ばかりなのだから。
(PS 個人的には宮台の「まったり入れ替え可能になった都市的現実を生きる援助交際少女」も、鶴見の「適当にドラッグやら抗精神薬やら人格改造してダンスして生きる、イケテナイ社会不適合者」も、みんなまとめてメンヘラーになってしまった事実がどうしても気になる。早い話がオウムやら少年Aになることなく、高度消費社会の週末的終末を生き残るための世紀末の処方箋は、リストカット、オーバードーズ、自殺未遂を繰り返すメンヘラーしか生み出さなかったワケだ。宮台はその辺を新しい映画批評でお茶を濁しつつ認めているが鶴見との関連として語ってはいない。(それにしても今度は天皇!かア。精神科の処方箋で天皇でも出して病気が癒えるんだったらこんな安いものはないよなあ。メンヘラーになった元援助交際少女のケアはどうなってるの?今度からはいわゆるエリート、官僚、マスコミ志願者ばかり相手にしてバカは相手にしません、という態度でいいの?宮台さん。だってこの社会の9割はあなたが言うバカで成り立ってるわけでしょう?)
個人的には社会的環境としての下部構造の変革ではなく、「社会なんて変わるわけない!絶対日常は100年は続く!いや、永遠に続く!」なーーんて、歴史の終末というありえない断定を前提に「とりあえず意識だけ変えろ」ということで安易にドラッグ、人格改造のマニュアルだけ作ったり、性的冒険と信仰を複雑系と社会科学におきかえたサイファ教なんつーしょーもないニューエイジ擬似宗教なんかで、超越志向性の人間が救われると思ったところが甘いんじゃないの?人間の文化的な意識形態、いわゆる上部構造だけ変えてもダメなんてマルクスが100年以上前から言ってることでは?まあ、その二つ以外にどういった処方箋がありえたのよ?と問い掛けられると厳しいんだけど。おまけに下部構造のトータルな取り替えなんて不可能に決まってる、この資本主義が国民のケツの穴まで染み切った世の中で。こういった生き方、哲学の処方箋のダブルバインドが存在している以上、思想の爆発的発展はありえないんだろうなあ。NAMは下部構造の変革のみを志したんだけど、それもぽしゃったし。