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夢目記


日記鯖システム管理者からのお知らせ

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元気です。

2006/02/02 「死屍累々」のサヴァイヴァル、他

(一通目)

平岩さん(ジュリアンさん)、酒井さんのインタビューをどうもありがとうございま
した。これなら、私にも理解できました。著作は難しくても、インタビューや講演は
平明。というのは吉本隆明やフーコーにも感じていたことですが、酒井さんの場合も
そうですね。

特に共感したのは以下の部分ですね。

>  ■不安が生み出す暴力。
>
> 日本では、その暴力が外に対してではなく、自分に向かっているのです。自殺者は
> 年間三万人を超え、自殺未遂はその三、四倍と言われる。報告されていないケースも
> たくさんあります。
>
>  ■経済が好転すれば問題は解決するのでしょうか。
>
>  単に「不況が悪い」という話ではありません。製造業の省力化や情報化など、産業
> 構造が変化する中で労働力をかつてのように必要としない社会が到来しました。これ
> は社会科学で「ポスト労働社会」と呼ばれています。実際、経団連は「正規労働者は
> 全労働者のうちの一握りにする」という姿勢を打ち出し、その通りパート社員や契約
> 労働者が増えている。それに伴って労働環境が極めて悪化している。
>
>  ニートやひきこもりの話になると、「心の問題」のような精神論になるが、まず
> 「人間を必要としない」現代社会が構造的に生み出している問題と考えなければなり
> ません。

ニート・フリーターのみならず引きこもり・メンヘラーの「死屍累々」のサヴァイヴ
ァルというのは、他人事ではなく自分の問題だと思っていますが、「労働力をかつて
のように必要としない社会」(それなのに自由・豊かにはなれない−−何故でしょう
か? かつて展開されていたような余暇論、自由時間論などは所詮ユートピア的な夢
物語に過ぎなかったということでしょうか?)のなかで、どのようにし居場所を見つ
け或いは創出していくか、酒井さんが著作で用いていた語でいえば「根」をどのよう
にして見出していくか、というのは大切な問題だと思います。

酒井さんの話とは関係ないのですが、先日の臨時会議でも香田証生さんの死のインパ
クトについて議論になったので、それに触れて私の知り合いの小説家(といっても自
費出版です)が「人を喰う話」という「絵本」を構想しているので、それを紹介した
いと思います。全然、「運動」ちっくではないのですが…。

●人を喰う話
http://www.geocities.jp/si_garden/hitokui/hitok0.html

菅原正樹さんは香田証生氏に捧げるとして、次のように述べています。

「この青年の無謀な行動を、世間の人は「馬鹿」と呼んでいる。終わりなき日常に耐
え切れず、非日常世界へと引きこもろうとする今どきの日本の若者の典型なのだと。
しかし、世界が意味しているのは、あのような戦場こそが日常なのではないか、とい
うことではないだろうか? 私は夢想するのだ。時差でしかない今の日本の日常を捨
てて、引きこもりの若者たちがあの現地へと赴き、非日常的でしかありえないかもし
れない平和を建設しようと、次から次へと自らの首を差し出してゆく様を。この無抵
抗による世界への反逆は、逆しまな抵抗を漢心(からごころ)として退ける日本浪漫
派的なイロニーにしかならないのかもしれない。がだからまた私は、こうも残念がら
ずにはいられないのだ。彼があと3年の歳をとっていたら、と。13歳とが、人類学的
にも近代法的にも、大人への通過儀礼的な境界であるとしたら、26歳とは、それがも
うひとめぐりした年齢である。世界市民を説くカントによれば、そのおよそ10年の経
巡る歳月とは、生殖能力のつく自然的大人としての生存を超えて、人間が他人と共栄
していく技術の習得に必要な時間ということである。この人為的な年齢の獲得におい
て、はじめて世界市民としての成熟が資格されるというのだ。切腹自殺した三島由紀
夫は、前者の子供と大人の境界をめぐる小説をものしている(『午後の曳航』)。そ
してドストエフスキーは『白痴』において、日本人の恥による割腹という馬鹿げた文
化的儀礼を注視しているが、その主人公ムイシュキンは27歳である。彼は生き長らえ
て、精神病院へと返っていった。世界は、何も変わってはいないのだ。「ならばもう
一度!」 ニーチェもそう言うように、「洞察力を持った白痴(バカ)」たちは叫ぶ
のである。」

菅原正樹さんのホームページは以下です。

●ダンス&パンセ
http://www.geocities.jp/si_garden/

また、私の運営するホームページ「あらゆるアソシエーショニストたちのための広場」
にもエッセイを寄稿していただいています。

●あらゆるアソシエーショニストたちのための広場
http://associationists.fc2web.com/
・ホームレスと
http://associationists.fc2web.com/sugawara0003.html
・引きこもりからフリーターということ
http://associationists.fc2web.com/sugawara0006.html

「また大学(文学部)卒業後、都市部の地方銀行に就職してから外資系企業やなんや
に転職していた4つ年上の兄が、とうとう病として倒れ入院したのもその頃である。
社会に出て行った兄は発病し、引きこもった私はそれを逃れたのだ。」

とありますが、このお兄さんの病気とは統合失調症です。早稲田ノンセクト界隈の文
脈でいえば、早稲田大学文学部での不当逮捕抗議のホームページで署名もしメッセー
ジも寄せている(菅原さんも署名しメッセージを寄せていますが)「おいどん」さん
の運命を連想せずにはいられないでしょう(QTさんやういすさんは「おいどん」さ
んのことはご存知ですか? 尾原さんは勿論ご存知ですよね)。私は在学中、「おい
どん」さんに誘われて東郷健の引退記念講演会というのに参加したのが楽しい思い出
としてあります。その頃「おいどん」さんは元気でした。その後人生の転変があり、
私もかれもすっかり別人のように変わってしまった…というと感傷的になりますが。

「勿論、あらゆる人生は崩壊の過程である」とフィッツジェラルドがその随筆『崩壊』
で述べているとドゥルーズが述べていますが、崩壊の過程としてあるわれわれの生の
うちで、その生を肯定し新たな次元を創出していく何かを探し求めていきたいと思っ
ています。「死屍累々」のサヴァイヴァルが私の課題です。

(二通目)

世界社会フォーラムからの私の投稿です。

パレスチナの人々の闘いを讃美するだけではなく、日本の私達こそ変わらなければな
らない、「先進国」、日本の政策や社会構造をこそ変えなければならないという思い
をこのニュースを聞いて強くしました。


パレスチナ・フォーラムのMLに以下の投稿をしました。世界社会フォーラム宛ての稲
場さんの投稿を参照したので、こちらにも投稿します。

個人的にはせっかくの稲場さんの問題提起がその後議論を深められず放置されている
現状を残念に感じています。


早尾さん、皆さん

> http://palestine-heiwa.org/note2/200602020150.htm
>
>
>  加えて言うべきことは、やはり日本も含めた諸外国は、いまさらハ
> マスとは何者かと問うよりも、パレスチナ人の民意が何に対して NO
> を突きつけたのか、オスロからの十数年間を反省すべきなのだと思い
> ます。ファタハに対して NO というだけでないはずですから。

ご教示有難うございます。早速拝読しました。

占領下にあるパレスチナでは、小泉が911選挙で圧勝したりしている日本などより
も余程「民主主義」が機能し、民意が投票結果に反映されている、しかしこれからど
うなることか、ということですね。

選挙について、また民主主義について考えさせられました。

占領下のパレスチナの人々が、自分達に不利益を蒙るかもしれない危険を顧みずはっ
きりと「NO」を言えたのは何故なのか。憲法九条などを持っている日本の私達がイラ
クに自衛隊を派兵している小泉に「NO」と言えないのは何故なのか。主観的・主体的
な「勇気」云々の問題なのか。それとも、別の原因があるのか。

話は大幅にズレますが、私は憲法九条改悪に反対する「平和への結集」という運動に
賛同することにし、その集会にも参加してきました。

http://earthcooler.ti-da.net/e636420.html

遠くにいる、占領下のパレスチナの人々において「民主主義」が機能しているのに、
日常生活に危険もない、いわゆる「先進国」と言われている日本において「民主主義」
が機能不全に陥り憲法違反の軍隊海外派兵を許してしまっている状況をどう変えれば
いいのか。NGOに勤務する私の友人は、「世界社会フォーラム」でかつて以下のよう
な提起をしていました。

http://www.jca.apc.org/wsf_support/messages/759.html

パレスチナ被抑圧人民に想像的に自己同一化するのではなく、先進国の、北の「私達」
を、日本の政策と社会構造をこそ変えねばならない、という気持でいます。勿論、そ
のための具体的なプランなど持ってはいないのですが。友人の重い提起に、理論的に
も実践的にも答えることが出来ないままですが、模索していくしかないと思っていま
す。

2006/02/07 酒井隆史『自由論』を読む

『自由論』、フーコー解釈に関わる超難解な部分以外は読めました。久々に読み応えのある本を読んだ(完全読破していないが)と感じました。

「セキュリティ」や監視社会の章、主旨は分かるのですが、われわれがそれに対して如何に「抵抗」していけるのかは、私には分からないままでした。

酒井隆史は「自由は「統治化」に抗する私たちの可能性にある。」と述べ、「具体的な(闘いの轟きを内包させている)「統治される者の権利」をテコにした新しい闘争の見通し」を語っています。

「「統治化」に抗する私たちの可能性」、「「統治される者の権利」をテコにした新しい闘争」とは具体的にどのような諸形態を採り、どのような諸戦略を持ち、どのように遂行されるものなのでしょうか。私はそれを知りたいと思いました。

また、纏めのような箇所で、次のように語っています。

「(1)フレキシビリティの昂進:自己から自己への働きかけに力点を移動させることで自由の持分を拡大しながら、支配の状態を転覆させる、というフーコーのヴィジョンは、現在、権力の戦略にコード化されつつあるようだ。支配の状態を緩和させつつ自由の持分を拡大しながらポジションの逆転可能性。いわばポストフォーディズム的な「人間の蓄積」(『監獄の誕生』は産業資本主義の資本蓄積に対応した「人間の蓄積」の探求だった)は、支配を緩和しながら、さらに上位の水準で支配する。固定した、少なくとも長い持続を有したアイデンティティは要請されず、むしろ身体は幅広い可動性や匿名性のなかに置かれるのである。「状態」であることをますます自ら拒絶する「支配」。

(2)排除の問題:世界市場による「間接的で委託された絶滅」の実践。使い道のない過剰人口の排除。本章の冒頭で触れた「法と秩序」政策の常態化は、こうした「新しい過剰人口」の形成に対応している。これについては第二章、第四章で眺めてみて、ある程度フーコーの問題設定のなかに位置づけようと試みてきた。しかし、フーコーの統治性が、生にかかわるとすれば、それはバリバールのいうように「フーコーが理論化しようとしたあらゆる権力関係の対極に位置する」(Balibar 1997=1999 p42 訳一九三頁)ものである。この「破壊および死のための死という次元で行使される剥き出しの力」をどう位置づけ、それにふさわしいどのような抵抗があるのか、それは私たちが注意深く「現在」をまなざしながら考えねばならない課題である。」

要するにフーコー流の「自己」への着目は既に資本によって掠め取られ、資本の側の戦略としてニューライトから提示されているのだ、ということが一つ、そして労働力商品をできるだけ要らない生産様式へと移行することで「使い道のない過剰人口」が生じそれが排除の対象になっている、ということがもう一つ。「自己への配慮」をも搾取する資本・ニューライトの論理と実践にどう抗えばいいのか? そして「使い道のない過剰人口」(≒「負け組」!?)の側に自己がはっきりと篩分けされてしまったことを認識した時どう振る舞えばいいのか? 自暴自棄になるのでもなく、絶望的な「蜂起」をするのでもなく、「自由」を実践するには、「特異化」や「自己価値化」を実践するにはどうすればいいのか?

そしてかれの結論は以下のようなものです。

「だから問題はこうなるだろう。この脆さ(にもかかわらず、ではなく)ゆえに強い、そしてあらゆる許しがたい力の行使を可能なかぎり最小化できるまでに膨張する、そんな公共性をどうしたら構成できるのだろうか? (とりわけ主体のいまのあり方にかかわる)事実へと凝固した地層をつねに中断させるがゆえに、奇跡(アレント)の色を帯びる〈活動〉の内在的力としての自由。「人びとは蜂起する、これは事実だ」、これがフーコーのリベラリズム論の手前にある揺るぎない命題であるとすれば、自由はアレントの課した制約も食い破ることでリベラリズムのパラダイムが知らない地平へと私たちを運んでいく。」

私にはこの文章を読み解くことはできませんでした。「犬死に」はしたくない、それは回避する。ではわれわれには如何なる実践、如何なる「生」が残されているのでしょうか? 本の中ごろにある次のような箇所が示唆的だと思いました。

「欲望としての性ではなく、複数の身体と快楽。述べたようにセクシュアリティの装置は欲望と身体とをむすびつけるといってよい。つまり、私の欲望はこれこれです、と語らせることによって、身体に同一性を埋め込み従属させる装置。その際、行為とむすびついていた(他者との関係のなかで触発されることなしにはありえない)複数の快楽は、告白という儀式を介して、欲望とそれが描く人格の同一性につながれ、限界づけられてしまうのだった。欲望はそれにたいして、身体を欲望から切断させ快楽──後述するようにフーコーにおいては快楽は欲望と対照的に、主体の外の出来事であり、分散し、流動的、うつろいやすく、けっして同一性に帰着することがない──とむすびつけること、この身体をめぐるエコノミーの再編成がフーコーの抵抗の展望を示唆している。」

「六八年以来、街路を自らの思考の源泉とした思想家にとって、問題は「冷笑家」たちの修辞上の華麗なヒネリ合いに加わることではなかった。脱中心化、分散、「自己からの離脱」といった「外」の(非)経験が現実に生きられている「街路」において、そのような経験の場をポジティヴな新しい関係性の生産の場に組み替えることは、とりわけそこで生きている人びとにとってはほとんど選択の余地のない生き残りのための手段なのだから。問題はそうした「外」を生きうるものにすること、行為を与え、さらにはそこに「主体」の構成の過程、または「自己」を位置づけることこそが問題なのだ。たとえば快楽とはフーコーの定義では主体の外の経験なのであるのに、そこからほとんど不可能であるかにみえる、社会性あるいは公共空間を構築することができる。とフーコーは言うのである。フーコーは快楽と身体の多数性を、去勢なき快楽への没入や壊乱的な「外」の(非)経験の称揚でもなく、むしろ「禁欲実践」の「行為」とさらにそれが織りなす公共性の構築の素材として提示する。フィスト・ファックですら拍子抜けするような場面の出発点となるのだ。「実際フィスト・ファックについてフーコーをもっとも悩ませたのは、規範から外れたある性行為が、どのようにして一見べつべつの無関係のできごと、手作りパンの即売会とかコミュニティの資金集めパーティとか町内でのお祭りとかの、出発点とか基盤になるかだった」(Halperin 1995=1997 訳一四五頁)。「ウラ」の、「地下」の公共性──こうしてフーコーは、近代の正道を行く思考とは袂を分かち公共性をその「地下性」の「暗さ」において定義するのだ。」

快楽といった「外」の実践を通じて、「「地下」の公共性」を現出させることこそが問題なのだ、というのです。私はここに、共同体或いはアソシエーションの問いを読みたいと思います。快楽を社会性或いは公共空間と結びつけること。それは平たくいえば「地下」での「仲間」作り、「友達」作りだと私は思います。「街路」に出て、「「外」の(非)経験」に身を晒しながら共同性なきコミュニティを紡いでいくこと、脆いが故に強い連帯の絆を創出していくこと、等だと思います。そこからイタリアのアウトノミア運動の自律性にも繋がっていくのだろうし、強引に結びつければ『希望のニート』の著者が主宰する引きこもり・ニート支援の団体で為されているような仲間作り・友達作りの実践にも繋がっていくのだと思います。NAMやQといったものも、そうしたものであった、或いは、そうしたものでなければならなかった(実際にはそうではなかったにしても)と思います。さらに強引に飛躍すれば、今回の早稲田の不当逮捕すらも、「「地下」の公共性」の顕在化を巡る大学当局と学生運動側の闘いの一側面であった、と考えます。その起源に大学紛争を持っていた地下部室における、教室では味わえないほとんど不可能な出会いとコミュニティの公共空間、それが731闘争の過程を通じて剥奪されていったこと、そしてそれが運動・闘争を通じて回復されようとしていること、そうした問題性があるのではないかと思います。


ういすさん、皆様

「NAMという団体が何か(勉強不足のため)わからないからです。ただ文章から察するに地域通貨に取組んでいたとのことがわかります。僕の立場からいうと、ああ頑張ってくださいとしか言いようがない。」

正確には地域通貨と協同組合に取り組むことを通じて、資本と国家に対抗しようとした運動がNAMでした。しかし構成員の力量不足や資金難のため地域通貨の運営に特化してしまい、その挙句に内紛で解散に至ってしまったわけです。

ただ、協同組合が資本主義の積極的な揚棄である云々は単に『資本論』第三巻にそう書いてあるからというだけの参照に留まり、協同組合運動が現実に展開していくなかでぶち当たるもろもろの困難などに積極的に取り組むことはありませんでした。

NAM自体は矮小な現象にせよ、それが提起した課題、即ち「いわゆる「先進諸国」において革命は如何にして可能か?」という問いは残っていると私は思います。「蜂起」によってなのか、「蜂起」とは別の仕方の何らかの実践によってなのか。NAM原理は社会民主主義とアナーキズム双方に対する挑戦なのです。私は、たとえ惨めな失敗に終わったとしても、NAMは問うべき問いを問うたのだと考えています。

但し、酒井隆史『自由論』を読んだ後では、NAMの言説はその総体が「ニューライト」的な「改革」「イノベーション」の論理に限りなく近いのではないか、という感想を持ちます。元NAMメンバーが構想した資本主義への対抗の理論として「リクエストメイドシステム」というのがあるのですが、私にはこれは(対抗すべき)資本主義そのもののように思えます。どうしてこの実践が、資本主義を死滅させることになるのか、理解できません。NAMに、とうよりも柄谷行人自身に世界資本主義を「肯定」する契機が強くあるからこそ、NAM原理或いは柄谷理論の一面を取り出して抽象化・原理化すると資本主義のモデルそのものといった代物になるのだと思っています。

私の友人が書いた「リクエストメイドシステム」については以下をご参照ください。

http://www.tcxpress.com/
http://www.tcxpress.com/ango_03.html

これは資本主義に対抗する言説なのか? むしろ資本主義そのもの、いや改革・イノベーションを積極的に取り入れたニューライトの言説そのものなのではないか? 私達はこのような展望から決定的に〈排除〉される「死屍累々」(ニート・フリーター、メンヘラー等々)の側から言説と共同性を紡いでいかねばならないのではないか? と思っています。「アソシエーション」についても、〈排除〉される絶対的/相対的に「無用」な者らの側から思考せねばならないと思っています。

元気ですかー?