0715起動。
山陽新幹線「0系」引退へ 世代交代し事業強化へ
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000810878.shtml
「空ける」理由は“とりあえず”置いておくとして、
「右と下」である理由は
「左上が原点だから」と言ってもたぶん正しい希ガス。
そしてついでに言えば、「なぜ原点が左上なのか」ってのは、
「文字を左→右、行を上→下で読む文明だから」ではないかと。
※数学的座標系に合わせて左下を原点とした処理系もあるワケだが
(GDIとかな)、そういうのはまずグラフィカルな表示デバイスを想定しているんであって、
キャラクタディスプレイの世界とはまた事情が異なってくる。
※あとラスタディスプレイにおいては「走査の原点が左上なのでVRAMもそれに合わせた方が
都合が良い」ってのもあると考えられるが、
では「なぜそのような方向に表示デバイスは走査するのか」ってのは
突き詰めると結局「左→右、上→下でないと気持ち悪く感じてしまう文明」
ちうとこに行きつく気もする。
まぁ「気持ち悪さが共有された結果として後々になって整合が取れた」例と言えるのかも知れづ。
キャラクタディスプレイの歴史ってのは
「1文字ディスプレイ」→「1行ディスプレイ」→「複数行ディスプレイ」
と進化してきているのはある意味当然っちゃ当然なワケだけど、
その過程において、
最初は「文字間を空ける」必要なんてのがそもそもなかったワケですな。
隣に文字がないんだから。
で、「1文字」から「1行」に進化したキャラクタディスプレイには当初
(ちうか今でもそういうデバイスはあるんだが)、
「文字間」という情報はフォント側ではなくディスプレイ側が提供するものだったのですな。
つまりデバイス上に実装されている表示領域が「歯抜け」になっていた。
具体的には「5x7ドットマトリクス」の表示単位を、さらに
「間を空けて」複数並べるという構成になっていたワケな。
そして「1行」から「複数行」にデバイスが進化しても、やはり
「間を空けて5x7ユニットを並べる」構成は継承された。
ちうかこういうデバイスもやはり今でも現役として存在しているし、
秋月とか行けばモジュール売ってますな。
グラフィックディスプレイならともかく、キャラクタディスプレイとしてなら
それでちゃんと実用になるんだから、これでいいのだ。
しかし表示デバイスに「グラフィックディスプレイ」としての性質も求められるようになってくると、
「文字表示ユニットを“間を空けて”並べる」構成ってのはどうしてもそぐわなくなる。
そこで、「デバイス上の表示領域には隙間を設けず、
(ビットマップ)フォント側に文字間・行間情報を実装する
(=ビットマップフォント上のどこかに空間を空ける)」
必要が生じてきて今に至る。
そして「表示領域」がいかに拡張されてきたかをもう一度振り返ると、
「空間を空ける」必要が生じたののは、
「
急にボールが来たので
表示領域が拡張されたので」
であると言っても問題あるまい。
つまり「“隣の”文字・行との空間を空ける」ことは
すなわち「(拡張された領域に存在する)“次の”文字・行の空間を空ける(という拡張)」
ことでもあったと考えられる。
言い換えれば、
「前の文字・行との間を空ける」よりは
「次の文字・行との間を空ける」方が、
発想として自然だったのではなかろうか、てなもんすか。
それがフォントデザインに反映された結果が「右・下ルール」なんかなーと。
ついでに言えば、「英文字がベースラインが下じゃないから」ってのは
「5x7フォント」ちうもんが存在し、そしてキャラクタデバイスが
複数行になっても採用され続けたことを考えても
「下を空ける理由」としてはあまり正しくないようなキモス。
結果的には「キャラクタディスプレイ」から
「グラフィックディスプレイにビットマップフォントを投影する」時代へ進むのに
都合がよくなったワケだけど。
とか長々と書いてしまったけど、よーするに
「技術的・合理的な理由よりは、文字や行が拡張されるのと
同じ方向に字間や行間も拡張したくなった“人情”による」
(そしてそれを積極的に否定すべき理由も特にないので廃れていない)
んジャマイカ、
ちう“人情説”をわしは唱えたい(苦笑)。
といいつつ、IRCで出たネタとして
「活字って“手前”より“次”の字・行との間にスペーサを入れるよね」
なんてのが。
キャラクタディスプレイを活字のメタファーとして考えると、
「(人力である)活字において合理的だった」
ルールがある程度は影響してたりもするんかもなあ。
巫女さんバケツリレー訓練/大神神社
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000000801230001
口ふさぎ「下着くれ」と迫った自衛官逮捕
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20080124-311405.html
2345轟沈號。
0815起動。
178接骨院へ。
引き続き反町へ。
道中でヒヨ4、つぐみん1。
帰路はヒヨ多数、シジュウカラ3以上、ムクの群れに遭遇。
帰投したらツレ母が来ていたり、そのうちツレ父も来たり。
結果的に全然使っていないので、ウェルコネ無線LANおぷそんを解除。
ツレがこないだ行ったら3Fエントランスに立派なつるし飾りがあったってんで、
夕方から京急へ。
んがしかし、行ってみるとつるし飾りは既に撤去されていた罠。
せっかくだから、雛人形エリアを見たり、
かなり久しぶりにルピだらしたり、
ヨドんで資材調達したり。
ガゼーにやられつつ2615轟沈號。
0705起動。
鳥インフル感染懸念、渡り鳥の餌付けに「待った」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080128-00000022-yom-soci&kz=soci
白い火口原 彩る黄色 福島・裏磐梯(うらばんだい):
イエローフォールからイエローホールを連想したキン肉読者は少なくない希ガス。(ぉ
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/domestic/japan/20080128tb02.htm
初音ミクとかソフトウェアとかは包丁なのか話
(塩兄):
「ほげほげなんてのは所詮道具にすぎない」
論ってのはまぁそこらによくあるワケだけど、
このテの思想にはキホソ的には
「道具もまた一種のプロダクトである」
ちう視点が欠けていがちではあるよな。
包丁に例えないとわかりにくいヒト向けに言うなら
「包丁ってのは包丁職人が作ってるんだ」
てなもんすか。
まぁ利用者が「ヲレはこの道具に萌えるんだが、道具を作ったヤシ
(の思想とか何とか)には興味なんかさらさらない
(あるいは相容れないものがある)」と思うのも
利用者の勝手だとは思うし、
道具を提供する側が「こんなもん、ただの道具ですよ」と宣言するのもまた
アリだとは思うが。
つかこういう話題ってのは、突き詰めていくと
「道具屋を“人”として見做すか“所詮は道具を得るための道具でしかない”と見做すか」
ちうとこに到達しそうな気もせんでもない。
あとまーついでに胡散臭いことを言ってしまえば、
「“場”なんてのは所詮“道具”にすぎない」よな。(ぉ
品川で107編成を目撃。
- E233 1000系〔宮ウラ〕107編成 1812A 普通
-
←大宮
(10: クハE233-1007]
[9:サハE233-1207]
[8:モハE233-1407]
[7:モハE232-1407]
[6:サハE233-1007]
[5:モハE233-1007]
[4:モハE232-1007]
[3:モハE233-1207]
[2:モハE232-1207]
[1:クハE232-1007)
桜木町→
アレルギー検査で陽性反応が出て
ツレがすっかり動転。
ううむ。
一方、当の姫はっつーと、
立ち続けたり歩いたりするように。
2245轟沈號。